鏡の中の赤子
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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
時塔心霊探偵事務所のモニター付きインターホンが鳴ったのは、昼過ぎだった。
短く、一度。
その鳴らし方だけで、創は嫌な予感がした。
モニターを見るまでもない。
だが一応、視線を向ける。
画面に映っていたのは――。
「……またお前か」
無精ひげをきれいに整え、相変わらず生活感の薄い男。
児玉 真彦だった。
創は深く、長いため息をつく。
渋々応答ボタンを押した。
「帰れ」
『ご無沙汰しております』
インターホン越しに、穏やかな声。
『今日は、とても大事なものをお持ちしました』
「聞いてねえ」
『いなり寿司もあります』
創の眉が、ぴくりと動く。
数秒の沈黙。
「……入れ」
ほどなくしてドアが開き、真彦が入ってくる。
慣れた足取り。
躊躇も遠慮もない。
真彦は、テーブルに向かうなり、淡々と荷物を並べ始めた。
手作りのいなり寿司。
未開封の高級日本酒。
そして――分厚い封筒。
札束の重みで、鈍い音がした。
「受けるとは言ってない」
「承知しています」
真彦は、にこりともしない。
その代わり、鞄から一枚の写真を取り出した。
「まずは、これをご覧ください」
机の上に、写真が置かれる。
朔夜が、そっと覗き込む。
そこに写っていたのは――。
赤子。
だが、生きてはいない。
小さな身体は干からび、皮膚は紙のように張り付いている。
それなのに、どこか異様に瑞々しい。
腐臭も、崩壊もない。
時間だけが、そこを避けて通ったような不自然さ。
朔夜の喉が、小さく鳴った。
「……ミイラ、ですか」
「ええ」
真彦は、淡々と答える。
「楽叉叉です」
その名を聞いた瞬間、創の顔色が変わった。
はっきりと。
隠しようもなく。
「……チッ」
舌打ちが、低く響く。
真彦は続ける。
「江戸時代初期に、海外から日本へ持ち込まれたものだそうです。以後、とある拝み屋の家系で、代々秘蔵されていました」
視線は、写真から逸らさない。
「狙った相手を確実に呪い殺す。そして、持ち主には繁栄がもたらされる」
「最悪の部類だな」
創が、吐き捨てるように言う。
「ええ。非常に効率が良い」
真彦は、悪びれず頷いた。
「私は昨年、その最後の持ち主から譲り受けました。もちろん、使ってはいません。ただ、保管と観察を――」
「で」
創が、遮る。
「今、どこだ」
真彦は、静かに言った。
「逃げました」
朔夜が、はっと顔を上げる。
「逃げた……?」
「ええ」
真彦は、指先で写真を軽く叩く。
「鏡の中へ」
室内の空気が、一段冷えた。
「落叉叉は、鏡から鏡へと移動します」
真彦の声は、どこまでも平坦だ。
「移動先で人を選び、魂を食らい、成長する。赤子から――少女へ。少女から女性へ」
創は、目を伏せた。
楽叉叉。
呪詛返しが、一切通じない。
国を傾けることすら可能な、呪いの道具。
「……捕まえた後は」
創が、低く言う。
「完全破壊だ」
「分かっています」
真彦は、即答した。
「私はコレクターです。人を呪ったりはしません」
「お前の絵で、もう三人死んでる」
創の声には、氷のような冷たさがあった。
「そんな人間に、これを預けておけるか」
一瞬、真彦の目が細くなる。
だが、すぐに頷いた。
「……妥当な判断です」
封筒を、そっと押し出す。
「ですから、ぜひお二人に」
創は、封筒にも写真にも触れない。
ただ、はっきりと言った。
「条件がある」
真彦は、黙って待つ。
「捕まえたら、即破壊する。異論は認めねえ」
「ええ。承知しています」
真彦は、微かに笑った。
「惜しくはありますが……もう、絵は完成していますから」
その言葉に、朔夜は寒気を覚えた。
創は、目を細める。
「……厄介な話を持ってきやがって」
だが、断る理由は、もうなかった。
鏡の向こうで、赤子は、すでに動き始めている。
※※※
写真を伏せるようにして、創は机に肘をついた。
「……で。いつ逃げた」
「三日前です」
児玉 真彦は、指を組んだまま答えた。
「夜中、保管室で確認した時には、もう」
「割れたか」
「いいえ。鏡は無傷でした」
だからこそ厄介なのだと、真彦は言わずとも分かっている顔だった。
落叉叉は壊さずに渡る。
鏡を、通路として使う。
創は舌打ちを噛み殺す。
「移動は?」
「確認できたのは、二件です」
真彦はスマホを操作し、簡単なメモを見せた。
「最初は私の自宅。その次は、骨董店の倉庫。どちらも鏡が多い場所です」
朔夜が、静かに言った。
「……人、死にましたか」
「一人」
真彦は即答した。
「倉庫の管理人です。急死扱いになっています」
創の指が、わずかに止まる。
「魂を食ったな」
「ええ」
真彦は否定しなかった。
「成長段階に入っています」
写真の赤子の顔が、創の脳裏に浮かぶ。
あれは“始まり”だ。
今はもう、違う形をしている可能性が高い。
「……次に狙われる場所の目星は」
「鏡の数が多く、人の出入りがある場所」
真彦は淡々と続ける。
「商業施設、美容室、ホテル、フィッティングルーム……」
朔夜の背筋が、ひやりと冷えた。
「日常に、溶け込みすぎてます」
「そういう呪物です」
真彦は、少しだけ視線を伏せる。
「だからこそ、昔は“切り札”として重宝された」
創は、ソファーから立ち上がった。
「……捕まえ方は、誘導しかありません」
真彦が答える。
「鏡から鏡へ移る性質を利用して、閉じた場所へ追い込む」
創の視線が、窓の外――祠の方へ向く。
小さな神鏡。
あれしかない。
「封じた後に、完全破壊する」
真彦は、静かに頷いた。
その瞬間。
朔夜が、ふと顔を上げた。
「……見られてます」
空気が、張りつめる。
「ここ、じゃない」
朔夜は、ゆっくりと視線を巡らせる。
「でも……近い。鏡越しに、こちらを探ってる感じがします」
創は、低く笑った。
「来る気だな」
鏡の多い場所。
人がいる場所。
そして、創の隣。
「……真彦」
「はい」
「お前、今日ここに来る前、どこを通った」
真彦は、一拍だけ考えた。
「ホテルのロビーを」
創は、即座に決断した。
「朔夜」
「はい」
「今から動く」
真彦を見る。
「約束通りだ。捕まえて、壊す」
真彦は、目を細めて微笑んだ。
「ええ。構いません」
※※※
そのホテルは、昼下がりでも人が途切れなかった。
ロビーの壁一面に並ぶ鏡。
エレベーターホール。
化粧室。
エントランス脇の装飾用ミラー。
「……嫌な場所だな」
創は、ぼそりと呟いた。
「落叉叉にとっては、天国です」
真彦が淡々と答える。
「移動経路が多すぎる」
朔夜は、視線を落とし気味に歩いていた。
人混みの中では、目立たないように。
それでも、背中がじわじわと冷える。
「……ここ、いますね」
低い声。
「どこだ」
「“全部”です」
朔夜は即答した。
「鏡の数だけ、気配がある。重なってる」
創が、わずかに眉を寄せる。
「分裂してるわけじゃねえな」
「はい。視線だけ、散らしてる感じです」
真彦が、興味深そうに言った。
「観察段階ですね」
「観察?」
「獲物を選んでいる」
その言葉に、朔夜の喉が小さく鳴った。
創が足を止める。
「……好みがあるのか」
「ありますよ」
真彦は、あっさりと言った。
「落叉叉は、誰でもいいわけじゃない」
指を一本立てる。
「霊力のある人間を好む」
もう一本。
「強ければ強いほど、より好みです」
朔夜の背中に、冷たい汗が滲む。
「魂の味が違う、というやつです」
真彦は、悪趣味な冗談のように続ける。
「栄養価が高い。成長が早い」
創が、低く唸った。
「……つまり」
「はい」
真彦は、朔夜を見る。
「今この場で、一番おいしそうなのは」
言葉を切らずとも、答えは明白だった。
朔夜は、何も言わなかった。
ただ、確信していた。
――見られている。
鏡の奥。
映らないはずの“向こう側”から。
背中。
後頭部。
視線が、絡みつく。
「……動きます」
朔夜が、小さく言った。
「ここに長居すると、確実に寄ってくる」
「誘導できるか」
創が問う。
「たぶん」
朔夜は、息を整える。
「でも……」
一瞬、迷い。
「僕が餌になります」
創の顔色が、変わった。
「却下だ」
「一番、効率がいいです」
「言っただろ」
創は、低く、しかしはっきり言った。
「お前を守る」
真彦が、静かに口を挟む。
「……興味深いですね」
二人を見る。
「稲荷が、そこまで一人に肩入れするとは」
創は、睨み返した。
「黙れ」
だが、次の瞬間。
ロビーの一角で、ガラスがきし、と鳴った。
誰も触れていない鏡が、わずかに歪む。
朔夜の耳に、音が届く。
赤子の泣き声でもない。
少女の笑い声でもない。
――欲しい。
そんな、意味だけが流れ込んできた。
「……来ます」
朔夜が言った。
「僕を、選び始めてる」
創は、即座に決断した。
「撤退だ」
「ですが――」
「今じゃねえ」
創は、朔夜の肩を掴む。
「舞台を、選ばせるな。こっちが選ぶ」
祠の神鏡。
封じる場所。
そこまで誘い込めなければ、勝ち目はない。
背後で。
鏡の中の“何か”が、ゆっくりと形を変え始めていた。
赤子だったものは、もういない。
――次に姿を現す時、それは“少女”になっている。
そのことを、三人とも理解していた。
※※※
その日の夕方から、街の様子が変わり始めた。
――鏡が、騒がしい。
ガラス越しに映る自分の顔が、ほんの一瞬遅れる。
角度によって、知らない誰かの影が混じる。
ショーウィンドウの奥で、何かがしゃがみ込む。
だが誰も、決定的な異常には気づかない。
気づくのは、朔夜だけだった。
「……増えてます」
事務所へ戻る車の中。
朔夜は窓に映る景色から、視線を逸らさずに言った。
「数じゃない。“密度”です」
創がハンドルを握る手に、力を込める。
「成長してるか」
「はい」
短く、確信を込めて。
「さっきまで、赤子でした。今は……」
一拍。
「もう、少女です」
真彦が、後部座席で静かに息を吐いた。
「早いですね」
「餌がいいからだろ」
創が吐き捨てる。
「……すみません」
朔夜が、小さく言った。
「僕がいるせいで」
創は、即座に言い返す。
「違う」
視線を前に据えたまま、断言する。
「お前が“見える”から、選ばれただけだ」
言葉を選ばない。
「責任は、ねえ」
その瞬間。
車内のバックミラーが、きしり、と音を立てた。
誰も触れていない。
だが、鏡の奥で“何か”が動いた。
――欲しい。
今度は、はっきりとした意思。
朔夜のこめかみが、ずき、と痛む。
「……来てます」
「分かってる」
創は、ウインカーを出した。
あのマンションへの道。
祠がある場所へ。
「神鏡まで引っ張る」
真彦が、低く言う。
「誘導、成功しますか?」
「させる」
創の声には、迷いがなかった。
※※※
祠の前で、空気が凍りついた。
鏡は、静かにそこにあった。
小さな神鏡。
祭具としては取るに足らない、半端なものだ。
だが、その鏡面の奥だけが、異様に深い。
落叉叉は、すでに赤子ではなかった。
背丈は朔夜の胸ほど。
四肢は細く、肌は生者のように瑞々しい。
少女の姿をしているが、目の奥にあるものは、決定的に違う。
飢え。
ただそれだけ。
「……みつけた」
落叉叉の視線が、朔夜に絡みつく。
歓喜が、にじむ。
「あなた、いい」
舌足らずな声。
だが、選別は正確だった。
霊力。
それも、無自覚で澄んだもの。
――一番、喰いやすい。
朔夜は、一歩も動けなかった。
身体がすくんだわけではない。
足が、拒否している。
“ここで動くな”と、何かが告げている。
創が、前に出た。
「そいつに手を出すな」
声は低い。
だが、はっきりとしていた。
落叉叉が首を傾げる。
「だめ?」
「だめだ」
創は、祠の中へ手を伸ばす。
「代わりに――」
神鏡が、わずかに鳴った。
音ではない。
空間が、応じた。
鏡面に映るのは、祠でも空でもない。
“神域の奥行き”そのもの。
落叉叉の目が、見開かれる。
「……ある」
声が弾む。
「ここ、いっぱい」
霊力の塊。
食べきれないほどの“気”。
落叉叉は、迷わなかった。
創でも、朔夜でもない。
より濃く、より広い場所へ。
――鏡に、手を伸ばす。
「今だ」
創が、短く告げる。
祠の中で、神鏡が反転した。
落叉叉の身体が、引き延ばされる。
少女の輪郭が、鏡面に溶け込む。
「……?」
初めて、戸惑いが混じる。
喰えない。
満たされない。
これは、餌場ではない。
檻だ。
「しま――」
声が、途切れた。
神鏡が、完全に沈黙する。
そこにはもう、何も映っていない。
だが、“無”ではない。
封じた。
存在ごと、内側へ。
創は、肩で息をした。
「……破壊は、無理だな」
独り言のように呟く。
「成長しすぎた。あれはもう、壊せば祟る」
朔夜が、ようやく息を吐いた。
「……じゃあ」
「月蓮寺だ」
即答だった。
「供養を続けて、弱らせる。完全に静まるまで、時間をかける」
真彦が、静かに近づいてくる。
「完全破壊は……」
「不可能だ」
創は、振り返らない。
「お前のコレクションは、ここまでだ」
真彦は、少しだけ目を伏せた。
「……承知しました」
神鏡は、その夜のうちに月蓮寺へ運ばれた。
住職・真一郎のもと、
昼夜を問わず経が上げられることになる。
落叉叉は、封じられた。
だが。
――滅びたわけではない。
事務所に戻った後。
創は、窓から祠を見つめていた。
「……選ばせねえ」
低く、吐き捨てる。
もう二度と、自分の目の届かないところで、“喰われる側”を出させない。
朔夜は、その背中を見ていた。
そして、思う。
創は、守ると決めた相手のためなら、世界とでも、喧嘩をする。
――そういう人だ。
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