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あらすじ
再開発で社を失った路端の稲荷神は、生き延びるために人に化け、心霊探偵になった。 ――祈りも、欲望も、呪いも、まとめて引き受けるために。 これは人に化けた稲荷神と、神を信じない霊能者が怪異と人間の業の後始末をする、現代日本怪異譚。
本文
依頼人は、昼過ぎにやって来た。
日差しは強いが、風はなく、事務所の中に熱がこもり始める時間帯だった。
モニター付きインターホンに映ったのは、四十代後半ほどの女性。
背筋は伸びているが、目の奥がひどく疲れている。
「……水子の、祟りなんです」
ソファに座るなり、女性――魚住 麻衣子はそう切り出した。
声は落ち着いている。
だが、その落ち着きが、逆に不自然だった。
「祓っていただけませんか」
創はすぐに答えず、湯呑みを置いた。
「詳しく話せ」
促され、女は小さく頷く。
「改めて、魚住 麻衣子と申します。家は南区です。うちには……少し変わった風習がありまして」
そこで、女は一瞬だけ言葉を選んだ。
「死産や流産になった赤子に、名前を付けるんです」
朔夜の視線が、わずかに上がる。
「名前、ですか」
「はい」
麻衣子は続ける。ふ
「戸籍には残りません。でも……家の中では、名前を書いた木札を作って、仏間に置いていました」
供養の一環として。
そう説明されてきたのだという。
「名前を付けてやらないと、可哀想だと。忘れたら、怒るのだと」
創は、無言で聞いている。
「……それが、いつから続いていたのかは、分かりません」
麻衣子は、自嘲気味に笑った。
「気づいた時には、もう“当たり前”でしたから」
転機は、半年前。
「姑が亡くなりました」
淡々とした口調だが、どこか張りつめている。
「葬儀が終わって、家の整理を始めた時……」
麻衣子は、そこで一度息を吸った。
「入婿だった舅が、仏間の木札を……全部、捨ててしまったんです」
室内の空気が、わずかに沈む。
「断捨離だ、と」
麻衣子は、唇を噛んだ。
「こんなことをしているのは、うちだけだ。気になるなら、各自で水子供養をすればいい。薄気味悪い習慣は、自分たちの代で終わりだ」
そう言って、ゴミ袋にまとめて。
何の儀式もなく、何の相談もなく。
「……止められませんでした」
麻衣子の声が、少しだけ震えた。
「姑がいなくなって……家の中の力関係も、変わっていて」
創が、短く聞く。
「それで、何が起きた」
「……その後からです」
麻衣子は、視線を落とした。
「魚住家の子どもたちに、異変が起き始めました」
原因不明の病。
突然の事故。
大怪我。
「妊娠しても、続かない人間が増えました」
「流産や、死産が……立て続いて」
誰かが、言い出した。
――木札を捨てたせいじゃないか。
――生まれられなかった子たちが、怒っているんじゃないか。
「……今では、そう言われています」
麻衣子は、俯いたまま言った。
「舅は、一族から責められています。私も……肩身が狭い」
顔を上げる。
「このままには、しておけません」
必死な目で、創を見る。
「どうか……祟っている水子たちを、祓ってください」
沈黙。
創は、しばらく女を見つめてから、立ち上がった。
「裏の祠に」
麻衣子がはっとする。
「酒と、いなり寿司置いてけ」
一瞬、安堵が浮かぶ。
「……引き受けて、いただけるんですか」
「まだだ」
創は、淡々と言った。
「話を聞いただけだ」
窓の外。
祠の前を、風が抜ける。
ゴンが低く鳴き、狸神は難しい顔をした。
※※※
魚住家は、南区の住宅街にあった。
古くから人が住み続けている土地特有の、道の細さ。
隣家との距離も近く、昼間でも少し薄暗い。
「……こちらです」
麻衣子に案内され、創と朔夜は中へ入った。
玄関をくぐった瞬間、朔夜の足がわずかに止まる。
――重い。
湿気でも、埃でもない。
空気そのものが、下へ引っ張られるような感覚。
「……静かですね」
朔夜が言う。
「はい」
麻衣子は頷いた。
「昼間は、いつもこうです」
廊下を進み、仏間へ。
襖を開けた瞬間、創の視線が一点に留まった。
仏壇の前。
畳の一部だけ、色が違う。
明らかに、何かが“並んでいた”痕だ。
「……ここか」
創が低く言う。
「はい……」
麻衣子は、視線を落とした。
「ここに、木札を……」
朔夜は、ゆっくりと部屋を見回す。
壁。
天井。
仏壇の裏。
確かに、気配はある。
だが――
「……怒っている、という感じじゃないですね」
朔夜が言う。
「水子霊なら、もっと直接的です」
「だな」
創は、畳の縁にしゃがみ込んだ。
指先を、木札があったであろう場所へ近づける。
触れない。
触れなくても、分かる。
「……引っかかってる」
「引っかかっている?」
麻衣子が、恐る恐る聞く。
「引き留められてる」
創は立ち上がる。
「祟りってのはな、基本的に放っておかれた怒りだ」
だが、ここにあるのは違う。
「これは……離れたくても、離れきれない」
朔夜が、息を吸う。
「……鎖、みたいですね」
「そうだ」
創は、短く答えた。
その時。
廊下の奥から、ばたばたと足音がした。
「……あ」
麻衣子が振り返る。
「甥の子です」
仏間の襖が開き、小学校低学年くらいの男の子が顔を出した。
「おばちゃん!」
勢いよく入ってきて――止まる。
男の子の視線が、畳の色が違う場所に吸い寄せられる。
ぴたりと、動かない。
「……?」
創と朔夜が、同時に見る。
男の子は、首を傾げた。
「……ここ、いっぱい」
麻衣子の顔が、強張る。
「なにが……?」
男の子は、畳を指差した。
「名前」
指は正確に、木札が並んでいた位置をなぞる。
「呼んでる」
朔夜の背筋に、冷たいものが走る。
「……聞こえるの?」
男の子は、首を振った。
「ううん」
不思議そうな顔。
「うるさいのに、聞こえない」
創は、確信する。
――これは、怒りじゃない。
助けを求める圧だ。
「……全部、ゴミに出して捨てたんだったな」
創が言う。
麻衣子は、黙ったまま頷いた。
朔夜は、静かに麻衣子を見る。
「木札には、全部名前が書かれてたんですよね?」
「はい」
絞り出すような声。
「代々、つけて……」
「数は?」
「……分かりません」
朔夜は、ゆっくり息を吐いた。
「これは、祟りじゃないです」
麻衣子が、顔を上げる。
「え……?」
「“ほどいてほしい”だけです」
創が、低く言った。
「名前はな、重い」
麻衣子を見据える。
「呼ばれ続ければ、そこに留まる」
だから。
「……鎖になる」
部屋の空気が、じわりと揺れる。
見えない何かが、近づいた気配。
創は、静かに言った。
「祓う話じゃねえな」
麻衣子の喉が鳴る。
「……じゃあ……どうすれば……」
創は、畳の空白を見る。
「まずは、聞く」
一拍。
「赤子達の“名前”を、全部だ」
※※※
その日の夕方。
魚住家の仏間は、灯りを落としていた。
畳に座布団を敷き、窓は閉める。
外の音を、極力遮断するためだ。
「……全員、ここにいます」
朔夜が、小さく言った。
目は閉じていない。
だが、視線は現実より少し奥に向いている。
創は、真新しいノートとペンを用意した。
「無理に呼ぶな」
創が言う。
「呼ばせるな。ただ、来るのを待て」
麻衣子は、畳の端に正座していた。
手を膝の上で握りしめ、唇を噛んでいる。
仏間の空気が、少しずつ変わっていく。
冷えるわけでも、暑くなるわけでもない。
ただ――密度が増す。
朔夜が、静かに息を吸った。
「……一人、来ました」
創は、ペンを持ち上げる。
「言え」
朔夜は、間を置いてから、低く告げた。
「……『さき』」
ペンが、紙を走る。
さき
その瞬間、畳の中央が、わずかに沈んだ。
重みが、抜けたような感触。
麻衣子が、息を呑む。
「……知ってる名前です」
声が、震えた。
「叔母が……昔……」
創は、止めない。
今は、思い出す時間ではない。
「次」
朔夜の肩が、わずかに揺れる。
「……『はる』」
はる
書き終えた瞬間、空気が、すうっと流れた。
来る。
呼ばれて、来る。
だが、怒ってはいない。
泣いてもいない。
ただ――待っていた。
「……『ゆい』」
「……『たく』」
「……『みお』」
名前が、増えていく。
一つ、書くたびに。
部屋の“重さ”が、少しずつ薄れていく。
途中から、創も気づいた。
これは、祓いじゃない。
慰めでもない。
確認作業だ。
――確かに、ここにいた。
――確かに、呼ばれていた。
それを、紙の上に戻すだけ。
不意に、朔夜が眉を寄せた。
「……多い」
創は、顔を上げない。
「分かってる」
「思っていたより……ずっと」
声に、かすかな疲労が滲む。
「代々……なんでしょうね」
麻衣子が、絞り出すように言った。
「……百年分以上……」
創は、淡々と答える。
「それくらいは、あるだろうな」
ノートは、もう三冊目に入っていた。
それでも、まだ終わらない。
日が落ち、仏間が完全に夜に沈んだ頃。
朔夜が、静かに言った。
「……最後です」
創のペンが、止まる。
「……『なな』」
なな。
書き終えた瞬間。
仏間の空気が、はっきりと変わった。
軽くなったのではない。
ほどけたのだ。
縛られていたものが、役目を終えた感触。
創は、ノートを閉じた。
「……終わりだ」
麻衣子が、恐る恐る顔を上げる。
「これで……」
「まだだ」
創は、はっきり言った。
「聞いただけだ」
一拍。
「鎖は、まだある」
朔夜が、頷く。
「名前を“戻した”だけです」
創は、ノートを軽く叩く。
「次は――」
視線を、麻衣子に向ける。
「これを、きちんと燃やす」
麻衣子の目に、涙が浮かぶ。
「……燃やす……」
「捨てるんじゃねえ」
創は、低く言った。
「終わらせるんだ」
窓の外で、夜風が吹いた。
それは、泣き声にも似ていたが、どこか安堵にも聞こえた。
※※※
数日後。
創と朔夜は、月蓮寺を訪れていた。
曇天だったが、雨は降っていない。
境内は静かで、風に木々がかすかに鳴るだけだった。
創の腕には、分厚いノートが抱えられている。
何冊にも分かれたそれには、赤子たちの名前が、びっしりと書き込まれていた。
「……多いですね」
朔夜が、率直に言う。
「百年以上分だ」
創は、短く答えた。
寺の裏手。
人目につかない場所に、簡易の護摩壇が組まれている。
住職は、事情を多く聞かなかった。
名前が書かれている。
それだけで、十分だった。
火が、入れられる。
紙が、ゆっくりと燃え始めた。
ぱち、と小さな音。
次いで、ぱらぱらと灰が舞う。
不思議なことに、風はない。
炎は、暴れない。
ただ、順番に、名前を喰っていく。
創は、黙って見ていた。
祈らない。
祝詞も、経も、上げない。
これは、送りではない。
解放だ。
最後の一冊が、火にくべられた時。
朔夜は、はっきりと感じた。
「……軽い」
重さが、消えた。
縛られていた何かが、ぷつりと切れた感触。
だが、それと同時に、“いなくなった”という気配はない。
「……行った、わけじゃないですね」
朔夜が、ぽつりと呟く。
「だろうな」
創は、火を見つめたまま言う。
「鎖が解けただけだ」
赤子たちは、自由になった。
だが、その先は、誰にも決められない。
成仏するか。
どこかで幽霊ライフを始めるか。
それとも、何も覚えないまま、溶けるように消えるか。
――天任せだ。
火が落ち着き、灰だけが残る。
その場には、不思議な静けさが満ちていた。
悲しみでもない。
喜びでもない。
ただ、何かが終わったという静けさ。
「……これで、魚住家は?」
朔夜が聞く。
「急に幸せにはならん」
創は、はっきり言った。
「だが、木札が原因だった不幸は止まる」
それだけで、十分だ。
寺を出る頃。
境内の端で、風がひとつ、ふわりと渦を巻いた。
誰かが笑ったようにも、泣いたようにも聞こえたが、確かめる術はない。
創は、振り返らなかった。
「……名を呼ばれるのは、重いな」
ぽつりと呟く。
「だからこそ、呼ばれなくなるのも……」
言葉を切る。
朔夜が、続きを待つが、創は言わない。
答えは、ない。
名前を手放した赤子たちが、どこへ行くのか、どう在るのか。
それを知る者は、誰もいない。
ただ、この日から、魚住家の仏間は静かになった。
それだけが、確かな変化だった。
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