料理人
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
気がついたら、厨房に立っていた。
右手には菜箸。左手にはボウル。まな板の上には刻みかけの長ネギ。換気扇がブーンと低く唸っている。
佐藤 純は、しばらく動けなかった。
……帰ってきた。
十五年だ。向こうでは確かに十五年が流れた。荒れ野を駆けて、魔物を食材に変えて、岩を砕いて出汁をとって、空気から水を絞り出して、滅びかけた国の民に飯を食わせ続けた、あの十五年。
なのにこちらでは、換気扇がずっと同じ音を立てている。
純は菜箸を置き、いつも5分にセットするタイマーを確認した。
4分52秒か。 いや、まあ、十秒も経っていない。
「……そうか」
純は長ネギを見た。丁寧に白髪ネギに仕立て上げようとしていた、あの長ネギだ。
何事もなかったかのようにまな板に寝転んでいる。
純は包丁を持ち直し、続きを刻み始めた。
スキルで切っていたので包丁を使うのは久しぶりだ。
手が、覚えていた。いや、体が覚えているのは当然だ。こちらの時間では十秒も経っていないのだから。ただ純の頭の中には、十五年分の記憶が、山と積まれていた。
ドラゴンも、まあ、食えた。
思い出しながら包丁を動かす。ドラゴンは大味だった。下処理が死ぬほど大変なのに、食べると「鶏肉?」で済まされる、あの理不尽。ドラゴン側もあれでは納得していないだろう。いや、食材になった時点で納得も何もないのだが。
料理スキル、と向こうの鑑定士は言った。
「……料理スキル? それだけですか」
「は、はい。ただの料理スキルです。あの、ええと」
鑑定士の声が震えていたのを思い出す。
鑑定の大水晶が割れていたのも思い出す。スキルレベルの数値が表示されるはずのところが「計測不能」と出て、鑑定士が卒倒しかけていたのも。
結局あのスキルは何だったのか。一人分の食材で百人分の料理ができる。向かってくる魔物は全部食材になる。岩でも土でも草でも、純が「食材」と認識した瞬間に食材へ変わる。水は空気から引っ張れる。塩は岩から出せる。
おかしいだろ、と今更ながら思う。
でも一番おかしかったのは、老人や病人や子どもに食べさせた時だ。噛む力も飲み込む力も失った人が、純の料理を一口含むと、みるみる顔色が変わっていく。瞳に光が戻っていく。あれはさすがに泣いた。泣きながら次の国へ向かった。
純はネギを皿に盛り、だし巻き卵の準備を始めた。
十五年で三十の国を渡り歩いた。飯を食えずに死にかけていた人間を、何千人、何万人救ったかもうわからない。ラスボスとか魔王とか呼ばれていた存在も、最終的には純の料理を一口食べて「……うまい」と言ってそのまま改心した。剣も魔法も要らなかった。腹が減っていただけだった。
達成感は、あった。
全ての国が穏やかになった朝、純は一人で海を見ながら思った。
*……帰りたいな。*
母親が、心配しているだろうと思った。
卵を溶いて、だしと塩、砂糖を少し。フライパンを火にかける。手慣れた動作だ。
こちらの十五年分の手慣れと、向こうの十五年分の手慣れが、今この手には両方宿っている。なんか少しお得な気がした。
だし巻きを巻いていると、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、「お母さん」の文字。
純は卵を巻ききってから、素早く皿に移し、電話に出た。
「もしもし」
声は、思っていたより、かすれていた。
『……純。ちょっと、聞いてほしいんだけど』
いつもと違う。純は背筋が伸びた。
『最近ね、ものが飲み込めなくなってきて。病院に行ったら、嚥下障害って言われたの。進行性で、だんだん食べられるものが減っていくって』
純は何も言えなかった。
『お粥も、最近きつくなってきて。このままだと、そのうち口から食べられなくなるかもしれないって。先生が、胃ろうの話を……』
声が震えていた。気丈に話そうとしているのがわかった。だからこそ、純の胸に刺さった。
換気扇が、さっきと同じ音で唸っている。
何も変わっていない景色の中で、純の中で何かが急速に結びついていく。
向こうの世界で見た顔たちが、次々と浮かんだ。
噛む力を失った老兵。飢えで飲み込む力が落ちた子どもたち。戦で喉を傷めた若者。そういう人たちに食べさせるために、純は十五年かけて腕を磨いた。とろみのつけ方、舌の上で溶ける温度、喉を通る滑らかさ、それでいて香りと旨味を逃がさない調理法。魔物の肉でも、岩から取り出した塩でも、同じ手(スキル)で作り続けた。
あのスキルは、今も自分の中にある。
「……今日、そっちに行く」
『え、でも仕事は』
「行く」
短く、しかしはっきりと言った。
『純』
「一人でご飯食べさせないよ」
電話の向こうでしばらく沈黙があった。それから、くぐもった小さな音がした。泣いているのか、笑っているのか、たぶんその両方だろうと純は思った。
純は電話を切り、エプロンを締め直した。
十五年ぶりに冷蔵庫を開ける。
豆腐、絹ごし。葛粉。だし昆布。鱈の切り身。飲み込みやすい。喉越しがいい。舌の上で溶ける。全部揃っている。
とりあえず、これらを全部コピーして空間収納にしまった。
向こうの世界では三十の国を救った。
岩を食材に変えて、魔王に飯を食わせて、滅びかけた文明を料理一つで繋ぎとめた。鑑定士が卒倒するようなスキルを持ちながら、結局自分がやっていたことは、ただ一つだ。
”食べられない人に、食べさせること”
それは、ここでもできる。母親に対しても。そしていつか、同じように苦しんでいる人たちにも。 病院の食堂でも、介護施設でも、小児病棟でも。食べることを諦めかけている人が、この国にもたくさんいるはずだ。
三十の国の次は、この国だ。
大げさかもしれない。でも純には、そう思えた。
沸騰した湯に、鰹節を沈める。だしが静かに引かれていく。いい匂いがした。異世界でも、この世界でも、だしの匂いだけは変わらない。それが妙におかしくて、純は小さく笑った。
換気扇が、今日も同じ音で唸っている。
佐藤 純の、新しい十五年が、始まろうとしていた。