弁護士
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 「貴方へのラブレター」
本文
法廷の空気は、いつもどこか澱んでいる。
佐藤 純は傍聴席の視線を背中に感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
スーツの袖を直し、呼吸を一つ。それだけで、室内の空気がわずかに変わった。気づいている者は、おそらく誰もいない。
十五年ぶりの、日本の法廷だった。
---
気づけば見知らぬ荒野に立ち、空には二つの月が浮かんでいた。言葉も通じない、常識も通じない、魔法が当たり前に存在する世界。
それでも純は動じなかった。弁護士として十年、理不尽と向き合い続けた男の神経は、並大抵のことでは揺れない。
最初の五年で、 異世界の全ての言語を習得した。
次の五年で、魔法の理を解した。
そして最後の五年で、大賢者と呼ばれるようになった。
世界を灰にするほどの力――大地を割り、空を焼き、時の流れを操ることさえできる純が、しかし一度も魔法を攻撃に使わなかったのは、弁護士という性のせいだろう。
敵将と会談し、魔王の側近と議論を交わし、千年続いた種族間の争いを一枚の和解文書で終わらせた。「言葉で解決できないことなど、この世にない」と信じていたし、事実そうだった。
十五年目の最後の日、純は最高位の魔法を習得した。
世界の理に触れる魔法。あらゆる不条理を、根本から書き換えることのできる力。
弟子たちは引き止めた。民は泣いた。それでも純は、静かに笑って言った。
「俺には、まだやり残したことがある」
次の瞬間、彼は東京の路上に立っていた。スーツ姿のまま。十五年分の記憶を胸に。
時計は、あの日の続きを刻んでいた。十秒も経っていなかった。
---
法廷に戻ろう。
対する弁護士は、業界でも名の知れた人物だった。大手企業を依頼人に持ち、証拠の隙間を縫うように論理を組み立てる。今日の案件は医療訴訟だ。難病を抱えた青年が、保険会社の不当な給付拒否を訴えている。相手方の主張は巧妙で、条文の解釈を複数積み重ね、素人には反論不可能に見える構造になっていた。
純は相手の陳述を黙って聞いた。
内心では、すでに十七の反論ルートが見えていた。いや、正確には見えているのではない。「感じている」のだ。言葉の重さ、論理の歪み、感情の揺らぎ。それらが異世界での修行を経て、五感のように純の中に宿っていた。
立ち上がった瞬間、室内の空気が変わる。
それは純自身も気づいていた。意図していないのに、声に乗せた言葉が場を制圧してしまう。大賢者の力が、弁護士の言葉に滲み出てくる。「こんなはずでは」と思いながらも、止められない。異世界では自在に制御できたのに、なぜか現代では滲み出る一方だ。日本語が母国語だからか。それとも、この場所への想いが強すぎるからか。
「裁判長」
一言目で、傍聴席が静まり返った。
「相手方の主張は、条文の文言を盾にしながら、立法趣旨を意図的に無視しています。保険制度とは何のために存在するか。それは、人が最も弱い瞬間に寄り添うためです。難病を持つ人間を、制度の定義の外側に追いやることを『解釈』と呼ぶなら、その解釈は法ではなく暴力です」
対面の弁護士が、目を細めた。反論しようと口を開く。
純は続けた。言葉が、重なる。積み上がる。論理の城壁が、静かに、しかし確実に相手の主張を包囲していく。それは詭弁ではない。一文一文が本物の理だ。大賢者として千の議論を生き延びた男の言葉は、揺るがない。
十分後、相手方の弁護士は沈黙した。
裁判長は、書類に視線を落としたまま長い間、何も言わなかった。
---
夜、純は一人でベンチに座っていた。
公園の外灯が、桜の幹を照らしている。この木の下で、妻と最後に話したことを覚えている。「帰りが遅い」と笑いながら怒る彼女の声が、まだ耳に残っている。
高齢ドライバーが起こした事故だった。
ただ、彼女は。 お腹の中に双子を抱えたまま。
二人の子どもは生き残った。しかし、脳に後遺症を負った。
純が弁護士に戻ってから気づいたのは、この社会の歪みだった。障害を持つ子どもへの視線の冷たさ。支援制度の穴。病名を聞いた瞬間に顔を曇らせる人々。難病を抱えた人間を「コスト」として扱う仕組み。それは法廷の外にも、教育の現場にも、日常の会話の端にも、蔓延していた。
不条理だ、と純は思う。
異世界で、千年の戦争を言葉で終わらせた男でも、この不条理の根は深い。一つの裁判で変えられるものではない。一人の弁護士では届かない場所がある。
それでも。
純は空を見上げた。二つの月は、ない。 一つだけ、白く浮かんでいる。
異世界への道は、今も開ける。あの最後の魔法を使えば、戻ることができる。弟子たちが待っている。大賢者として、もっと多くを成し遂げられる世界がある。
でも、純はここにいる。
双子がいるマンションの灯りが、公園の向こうに見えた。
純は立ち上がった。スーツのポケットに手を入れ、歩き出す。
大賢者の力は、滲み出続ける。言葉に乗って、場を変えてしまう。まだ制御できない。
けれど、今は構わない。
制御できなくて、ちょうどいいくらいの不条理が、この世界には転がっている。
---
佐藤 純。
弁護士、大賢者、二人の子どもの父親。
まだ少し、やり残したことがある。