口笛奏者
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 「貴方へのラブレター」
本文
幕が上がる前から、会場は静まり返っていた。
異世界の空は、この星の夜とは少し違う色をしている。深い紺に、うっすらと緑がかった光の帯が流れ、輝く月は二つ。
観客たちはそれぞれに息を潜め、円形音楽堂を埋め尽くしていた。貴族も、農夫も、商人も、子供も。身分など関係なく、ただ一つの目的のために集まっている。
彼の口笛を聴くために。
佐藤 純は、舞台の袖でそっと唇を湿らせた。
緊張、というものではない。十五年もここにいれば、あるのはもっと静かな、満ち足りた感情だ。今夜もいい演奏ができる気がした。
自分の部屋で立ち尽くしていたはずが、唐突に召喚された。気づけば見知らぬ広場に立っていた。周囲を取り囲む人々は、みな信じられないものを見るような目で純を見ていた。
後で知ったことだが、召喚士は長い年月をかけて「音楽の極致」を求め、祈り続けていたらしい。その祈りで、世界の縫い目がほつれ、純はここへ引き寄せられたのだという。
音楽はこの世界にもある。弦を弾く楽器も、管を吹く楽器も。しかし口笛というものが、この世界には存在しなかった。唇を少し丸め、息を通すだけで音が生まれるなどと、誰も想像したことすらなかった。
純が最初に口笛を吹いたとき、広場は完全に凍りついた。
王でさえ、言葉を失っていた。
それはそれで少し面白かった、と純は今でも思う。
そしてその音には、不思議な力が宿っていた。最初は純自身も気づいていなかった。ただ吹いているうちに、泣いていた子供が笑い出した。長年床に伏していた老人が、翌朝すっと起き上がった。戦で心に傷を負った兵士が、久しぶりに安らかな顔で眠った。
人々はそれを、いつしか「慈しみの力」と呼ぶようになった。
やがて純は、その力の加減を覚えた。強く吹けば広い範囲に届く。弱く吹けば、そっと一人に寄り添うように響く。コントロールは思いのほか繊細で、最初の数年は加減を誤って会場全員を深い眠りに落としてしまったこともある。あれは本当に申し訳なかった。全員いびきをかいていた。
十五年。
純はこの世界の人々と笑い、泣き、歌い、生きた。言葉も覚えた。友もできた。今夜のコンサートを終えたら、また次の街へ行こうと思っていた。まだ行けていない場所が、いくつかある。
純は気づいていなかった。
客席の最前列で、王がいつもと違う目をしていることに。召喚士が、今夜だけは舞台のすぐそばに立っていることに。
ふたりだけが知っていた。今夜で終わりだということを。この世界が異邦人をつなぎ止められるのは、十五年が限界だという事実を。
純は舞台へと歩み出た。
「旋律の人」と誰かが呟いた。
「唇の魔術師」と、また誰かが続いた。
純は軽く手を振り、中央に立った。
今夜は、なんだか全部出し切りたい気分だった。
理由はわからない。ただ、そうするべきだと思った。
力の蛇口をいっぱいに開ける。十五年分の感謝と、愛おしさを、すべて音にする。そう決めた。
最初の一音が夜空に溶けた瞬間、会場が変わった。
ざわめきが消えた。肩の力が抜けた。誰かがそっと涙を拭った。子供が母親の腕の中に潜り込んだ。老人が目を閉じて聞き入った。
純は吹き続けた。
旋律は夜風に乗り、劇場の外へ、街へ、野原へ、森の奥へと広がっていった。この夜、この世界のどこかで眠れずにいた者も、痛みを抱えていた者も、みなその音をどこかで受け取った。
そして最後の音が消えた、その瞬間。
佐藤 純は、舞台の上から静かに消えた。
残ったのは、深い沈黙と、どこまでも穏やかな夜空だけだった。
王は立ち上がらなかった。ただ静かに目を閉じ、長い息をついた。召喚士も、何も言わなかった。ただひとすじ、感謝の涙が頬を伝った。
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佐藤 純は、日本では名の知れた口笛奏者だった。
閑静な住宅地に居を構え、静かに、しかし確かな評価を得ながら生きていた。
ところがある日を境に、純は突然口笛が吹けなくなった。原因はわからなかった。医者に行っても、どこにも異常はなかった。ただ、あの音だけが、唇からひとかけらも出てこなかった。
純は次第に塞ぎ込んだ。妻はそんな純をずっとそばで見ていた。純の苦しむ姿を見て、彼女も心を痛めていたのだろう。
ある日、テーブルの上にメモが置かれていた。娘の小さな靴が、玄関からなくなっていた。
「体に気をつけて 少しだけ時間をください」
純はメモを手に持ったまま、しばらく動けなかった。呆然と、ただ立ち尽くしていた。
その時、ふいにめまいがした。
視界が傾いて——気がつけば、同じ場所に立っていた。手にはまだ、メモが握られていた。
時計を見ると、ほんの十秒しか経っていなかった。
その十秒の間に、異世界での十五年があった。
純はもう一度、メモを見た。文字は変わっていなかった。娘の靴も、まだなかった。
十五年分の記憶を胸に抱えたまま。
口笛を吹いてみた。
こちらの世界で音が出ることに、少し驚いた。
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翌日、純はカメラの前に座った。
顔は映さない。ただマイクだけを置いた。唇を少し丸め、息を通す。
異世界へ行く前とは少し違う、もっと深みのある音だった。あの十五年が、確かに純の唇に宿っていた。
純はそれを、静かに配信し始めた。
最初は三人だった。次の日は三十人。十日後には三百人。
純は力を抑えた。あの異世界でのような大きな波ではなく、ただそっと、一人ひとりの耳元に届くくらいの、小さな音で。
それでも、広がった。
言葉の壁を越えて、時差を越えて、純の音楽は密かに届いた。眠れない夜の誰かに、泣き疲れた誰かに、朝を待つ誰かに。
収益はみるみる積み上がり、やがて純はその数字を見て、思わず苦笑した。異世界で十五年かけて培った力は、この世界でもちゃんと仕事をするらしかった。
そしてある日の午後、純は電車に乗った。
妻の実家までは、一時間ほどの距離だ。手土産に何を買おうか少し迷って、結局何も買わなかった。手ぶらで行くのが、一番正直な気がした。
呼び鈴を押すと、娘が出てきた。
純を見て、一瞬止まって、それから「お父さん」と小さく言った。
ただそれだけで、純の胸の何かがほどけた。
玄関の奥から、妻が現れた。
二人はしばらく、ただ黙って向き合っていた。
妻が先に、小さく笑った。純も笑った。
言葉はまだ、うまく出てこなかった。それでもよかった。
この人をずっと愛している、と純は思った。
そしておそらく彼女も——ずっと。