美容師
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 「貴方へのラブレター」
本文
店のバックヤード、のれんをくぐった瞬間だった。
床が消えた。壁が消えた。シャンプーの香りも、棚に並んだトリートメントも、全部消えた。気づけば 佐藤 純は、石畳の道の上に立っていた。頭上には二つの月。空気は甘く、森の匂いがした。
「ここは……」
途方に暮れる暇もなかった。目の前に看板が出ていた。見たこともない文字で、しかしなぜか読めた。
『髪結い処・求人中』
純は考えた。ここがどこかもわからない。帰り方もわからない。所持金はゼロ。食える保証もない。だったら働くしかない。
結論が出たのはすぐだった。純は扉を開けた。異世界一日目にして就職した男である。
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異世界での十五年は、忙しかった。
言葉も文字も、気づいたら最初からわかった。なぜかは知らないが、異世界に飛ばされた時点で、細かいこと気にしていたらきりがない。
とにかく腕を磨いた。気づけば店の評判は広がり、客層がだいぶおかしなことになっていた。
ある朝、開店と同時に転がり込んできた女性は、髪が文字通りぐちゃぐちゃだった。鳥の巣どころか迷宮だ。地図がいる。
「魔王に」
絞り出すような声だった。
「寝室に忍び込まれて、悪戯されました」
純は黙って椅子に座らせた。指を通す。絡まり方が尋常でない。魔力が繊維ごと結びついている。
魔王、やることが細かい。世界征服より髪に力を入れるな。
「痛くしないから」
鋏の背で流れを整え、結び目を少しずつほどく。
三十分後、鏡の中に艶やかな髪が戻っていた。
「これが……わたし?」
「そうですよ。もともと綺麗な髪してましたから」
女性はぽろぽろと涙をこぼした。純はタオルを差し出しながら、心の中で魔王に文句を言った。人の髪で遊ぶな。
翌週は獣人の客だった。体格はいいのに、少しだけ縮こまっている。耳を伏せていた。
頭から耳にかけて、毛が焦げて縮れている。
「ドラゴンのブレスが」
「かすっただけで?」
「……かすっただけです」
純は椅子に座らせた。かすりでこれなら、直撃は考えない方がいい。
獣人の毛は人と違う。下手に切ると生え変わりのリズムが崩れる。
焦げた部分だけを丁寧に取り、残りを活かす。耳まわりは特に慎重に。
「辛かったら言ってください」
「……大丈夫です」
仕上がりを見た瞬間、耳がぴんと立った。
帰り際、「また来ます」と言った声が、三割増し明るくなっていた。
一番困ったのは、ハーピーだった。
羽根がばらばらになって、飛べなくなっていた。店の前で泣いている。
純は五秒だけ悩んだ。
これは髪ではない。羽根だ。
でも泣いている。しかも店の前で。通行人も見ている。
純は観念して鋏を取った。
触れて、構造を覚える。傷んだ根元を選び、整え、流れを作る。
時間はかかる。でも戻る。そういう確信だけはあった。
「飛べるようになるまで少しかかります。でも、絶対に飛べますよ」
両手で手を握られた。かなり痛い。笑顔で耐えた。
ハーピーは鳥系だが、握力だけは熊に近い。
その日、店に客がいた。施術の途中だった。
髪にはパーマ用のロッドが巻かれ、薬剤が効くのを待っている時間だ。
椅子に座っているのは、街でも知られたSクラスの冒険者だった。整った顔立ちで、鏡を静かに見ている。
ロッドを巻いたまま動けば、施術はやり直しになる。男はそのまま、動かずにいた。
扉が蹴破られた。
鱗に覆われた影が踏み込む。
――Sクラスでも単独討伐はまず無理と言われている種だ。
純は振り返る。
「動かないでください」
それだけ言って、前に出る。
鋏が一度だけ光った。
それで終わった。
純は何事もなかったように戻る。
「お待たせしました。そろそろ流しますね」
男は鏡を見たままだった。
「……あなた、何者ですか」
「美容師です」
「……美容師」 しばらく沈黙があった。
その後、冒険者は純に何も聞かなかった。 ただ、月に一度、必ず予約を入れてくるようになった。パーマの仕上がりは、毎回好評だった。
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十五年が経ち、純は帰った。
店のバックヤードに戻っている。時計の秒針は、あれから十秒しか進んでいなかった。
十五年が、十秒。
純はしばらく時計を見つめた。
色々と思うことはある。
「補充シャンプー切れてるよ」
声がした。のれんが揺れる。
「あ、分かった」
純は何事もなかったように答えた。
十五年分の話は、今夜ゆっくりすればいい。
手の中の鋏を一度、強く握った。
異世界でも現代でも、これ一本が頼りだ。それは変わらない。
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夫婦二人で営む小さな美容室。二席だけのシンプルな作り。
それでも、来る客は絶えない。
そして、なぜか癖の強い客が多い。純には思い当たる節が少しある。
たぶん、引き寄せているのだ。
同じ髪型しか試したことがないという女性が来た。
毎回「これで」と古い雑誌の切り抜きを持参する。その雑誌、発行年が二十年前だった。似合っていないわけではないが、本人が窮屈そうだ。
純はカットしながら話を聞いた。変えたいけど似合うか不安、似合わなかったときが怖い、ずっとこれだったから。
気持ちはわかる。でも二十年は長い。
指先に、ごく薄く魔力を流す。髪の一本一本が微かに光を帯び、柔らかく息をするように動き出した。
「一センチだけ変えてみましょう。それだけです」と声をかけた。
帰り際、彼女は鏡を五回見た。
そのたびに髪は静かに自分の形を整え、微かな光が流れるたび、彼女の心も軽くなっていく。「また来ます」と言った声が、二十年分くらい弾んでいた。
次は切り抜きを持ってこなかった。
お見合いを断られ続けているという男性が来た。
収入も性格も申し分ないらしいが、相手の反応が毎回冷たいという。
純は顔を見た。骨格は悪くない。ただ、全体的に影が薄い。立っているのに存在感がない。これは才能かもしれない。
視線の奥で、輪郭にだけ淡い光を添える。純の手先から魔法の波紋が広がり、自然に人目を引く微かなオーラが生まれた。
「少し、試していいですか」と声をかける。
眉を整え、耳周りをすっきりさせ、前髪の落とし方を変えた。眼鏡については妻が横から口を挟み、フレームの話を熱心にしすぎて少し長くなった。
その間も魔法は静かに形を整え、光は彼の髪に馴染んでいく。
一ヶ月後、男性から連絡が来た。「お見合い、うまくいきました」と。
妻は「ほら言ったでしょ」と純に言った。純は何も言っていない。
結婚を控えた女性が来た。
相手の両親に気に入ってもらえていないと、少し暗い顔で話した。
外見を変えれば何かが変わるかもしれない、自分でもそれが正しいかわからない、と。
純は手を動かしながら言った。
「変えるんじゃなくて、引き出すんですよ。もともとある良さを」
手のひらから柔らかな光が溢れ、眠っていた魅力だけをそっと髪に刻み込む。
帰り際、女性は背筋が伸びていた。表情が違った。
純にはわかる。鏡の中の自分が好きになった人の顔だ。
その奥で、魔法はもう痕跡を残さず、自然に彼女自身の髪の美しさとして定着していた。
後日、「両親に気に入ってもらえました」と報告の電話が来た。
妻が受話器を持ったまま、目を細めてこちらを見た。純も素直に嬉しかった。
寝ぐせがひどいという客が来た。 深く帽子を被っている。
「朝、どうやってもこうなるんです」
見せられた写真は、なかなかだった。爆発していた。
「セットしても?」「三分で戻ります」
純は髪を見て、すぐに手を動かした。髪の流れにほんの一瞬、魔力の痕跡を刻む。髪は乱れを覚えながら、自然に収まる癖を身につけていく。
「少し、切り方を変えます」長さはほとんど変えない。流れだけを整える。
「これで一度、何もしないで寝てみてください」
翌週、その客は入ってくるなり言った。「寝ぐせ、出ませんでした」少し間を置いて、「三分だけ浮きましたけど」それは仕方ない。
__魔法は日常にそっと溶け込み、誰も気づかないまま、髪だけを完璧に整えていた。
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夜、純が鋏を磨いていると、妻が、ティーパックを入れたままの紅茶カップを二つ持って隣に座った。
異世界のことは、全部話してある。
十五年分を話し終えたとき、妻の第一声は
「それってSFじゃない!」だった。
怒るかと思っていたので、純は少し拍子抜けした。
魔法を実演して見せたときは、記録しようとした。それはさすがに止めた。
「ねえ、ハーピーの話、もう少し聞かせてよ」
「ちゃんと飛べるようになったよ」
「よかった」
「でも構造は全然違う」
「でも直したんでしょ」
「まあ」
「なんで?」
「……わからない」
沈黙が落ちる。
わからないけど、直せた。それが十五年だった。
「異世界でも現代でも、みんなの髪を直してみんな幸せにして。それってすごいことじゃないの」
純は鋏を置いた。
「そういうお前も、なかなかすごいと思うけど」
「なんで」
「十五年分の話を聞いて、一番最初に『SF』って言えるやつ、そうそういない」
妻は少し間を置いて、吹き出した。
「あたりまえじゃない。SF好きをなめないで」
閉店後の店の灯りが二人を照らしていた。
窓の外は静かで夜の町は今日も平和だ。
鋏は磨かれて、明日もまた誰かの髪を切る。
二人の影が、ゆっくり重なっていた。