大家さん
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常
本文
静けさが、夜に沈んでいた。
佐藤 純 はキッチンの椅子に腰を下ろし、コーヒーカップを両手で包んでいた。窓の外には人通りのまばらな商店街が続いている。数年前まであれほど賑やかだったその通りに、いまは風だけが吹いていた。
純と妻が二人で育てたカフェは、もうない。
新型コロナの波は静かに、しかし確実にすべてを変えた。客足が遠のき、時短営業を余儀なくされ、それでも持ちこたえようとした日々があった。しかし店を畳む判断をするまでに、そう長くはかからなかった。社会全体が息を潜めるように縮こまっていく中で、小さなカフェ一軒が逆らえるものなど何もなかった。
蔓延する事態がようやく落ち着いた頃、今度は妻が倒れた。
後遺症、という言葉を医師から聞いたとき、純はその言葉の重さをうまく受け取れなかった。倦怠感、不可解な痛み、思考のもつれ。回復しているのかしていないのか、日によって波がある。妻は今夜も早くに床についた。 うめき声が廊下の向こうから聞こえるたびに、純の胸は小さく締まった。
この先どうすればいい。
カップをテーブルに置き、純は天井を仰いだ。答えなど出るはずもないのに、考えずにはいられない。店はなくなった。貯えは少しある。しかし妻の体が戻らなければ、自分一人で何かを始める気にもなれなかった。
そのとき、キッチンの壁に、光が滲み、扉がゆっくりと姿を表した。
木製の古い扉で、蝶番がわずかに錆びている。どこから現れたのか。ただそこにあり、純を待っているように静かに佇んでいた。
開けた。
向こう側には、見たこともない夜が広がり、2つの月が輝いていた。
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異世界での最初の一年は、ただ生きることに費やした。
言葉を覚え、土地を覚え、人の善意に助けられながら、少しずつその世界に馴染んだ。魔法というものが存在するその世界で、純はひとつの系統に惹かれた。浄化、洗浄、清める力。いわゆる「クリーン系」と呼ばれる魔法。
派手さはない。炎を呼ぶわけでも、敵を倒す力があるわけでもない。しかし純がその魔法に手を伸ばしたのは、理由があった。
店を畳む前日の夜、純は厨房を一人で磨いた。閉店が決まり、もう誰も来ないと分かっていても、最後だからこそ綺麗にしておきたかった。カウンターを拭き、床を磨き、コーヒーメーカーの細部まで丁寧に清めた。そのとき感じた静けさと、わずかな誇りを、純は忘れていなかった。
清めることは、祈りに似ている。
クリーン系の魔法を学ぶにつれ、そう感じるようになった。汚れを取り除くことは、空間に敬意を払い痛んだものを労わることだった。十五年をかけて純はその魔法を極め、異世界の各地を渡り歩いた。いにしえの古城を清め、 廃墟を蘇らせ、 蝕まれた土地を癒やした。--いつしか人々は彼を「神の箒」と呼ぶようになっていた。
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気がつくと、純はキッチンの椅子に座っていた。
テーブルの上のコーヒーカップは、まだ冷めていなかった。時計の針は、あの夜から十秒しか進んでいない。
手の甲を見る。皺はなく、年を重ねた痕跡もない。しかし確かに、十五年分の記憶が、技が、体の奥に宿っている。
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翌朝、祖父が亡くなったという知らせが届いた。
祖父が 純に遺した財産は 木造の古いアパートだった。
管理人室のほかに五つの部屋がある、二階建ての建物。外壁の塗装は剥げ、階段の手すりは心もとなく揺れ、雨が降れば廊下に水たまりができると近所の人が教えてくれた。
子供の頃、よく遊びに来ていた場所。一階の管理人室に祖父と祖母が住んでいて、玄関を開けると決まってお茶と菓子が出てきた。祖母は早くに亡くなったが、祖父はずっとここで暮らし続けたらしい。廊下の木の匂い、階段を上る足音。懐かしい記憶が、純の中でゆっくりと廻った。
住めないだろうか。
純は管理人室の鍵を手の中で転がした。
魔法は、静かに働いた。
形は変えない。外壁のひび割れも、古びた木の骨格も、そのままにしておく。ただ、清める。純は異世界で磨き上げたクリーンの魔法を、この建物に惜しみなく注いだ。
外壁には透明な防水の膜が張られ、雨が落ちても水を弾くようになった。内部では長年積もった汚れが消え、木の繊維の奥まで清められた。玄関の扉を開けると、古い家屋の持つ、やわらかな木の香りが漂う。廊下は磨かれ、各部屋は光を湛えた清潔な空間に変わった。 古いままで、しかし清らかだった。
純と妻は管理人室に引っ越した。祖父と祖母が暮らしたその部屋に、二人の新しい暮らしが始まった。
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五つの部屋は、やがて埋まっていった。
口コミでも広告でもなく、何かに導かれるように、様々な人がやって来た。
地方から出てきたばかりの若い会社員は、地図を片手に迷いながらやって来た。部屋を一周して「なんか、空気が違う気がします」と言った。気のせいですよ、と答えた。
俳句を始めた老人は、約束の時間より三十分早く来て、外壁をじっくりと眺めていた。「古い建物なのに、くたびれた感じがしないな」と言った。 室内に案内すると満足げに頷いた。
週に三日だけ働き、残りを読書に充てると決めている翻訳家は、部屋の隅に立ってしばらく目を閉じた。それから「 ここにいると時間の進み方が少し遅い気がしますね」と言った。 その通りですよと答えた。
時を忘れて 絵を描き続ける画家の女性は、よく晴れた午後に来た。窓から差し込む光を見て「この光の色、嘘をつかないんですね」と 微笑んだ。純は何も答えず、 鍵を渡した。 彼女はそのままこの部屋に住み続け、やがて名が知られるようになってからも変わらずここで 描き続けた。どれだけ 絵の具を重ねても不思議と床や壁が汚れることはなかった。
そして、喘息をかかえた青年がきた。
内見のとき、その青年は階段を上がっただけでかなり咳き込んだ。それでもこの部屋がいいと言い、純はその言葉を黙って受け取った。入居後、青年は優しく礼儀正しく他の住人たちとも穏やかな関係を築いた。建物の前のベンチで本を読むのが好きで、通りかかる純にも必ず会釈をした。
五人はいつしか、ひとつの小さな共同体になっていた。食事を分け合い、困りごとを相談し、それぞれの誕生日には皆で話し合ってプレゼントを贈った。アパートの中に、緩やかな温かさが満ちていた。
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純がその考えに至ったのは、ある日のことだった。
クリーン系の魔法は、汚れを取り除く。では体の内側の、病の根のようなものにも、届かないだろうか。
恐る恐るではあったが、純はまずその青年に申し出た。迷惑かもしれないと思いながら、 異世界のことも正直に話した。 長年 苦しみの中にいた青年は少し考えてから、試してみてほしいと答えた。
魔法は、静かに、しかし確かに働いた。
翌朝、青年は深く息を吸い込み、それから純の顔を見て笑った。嬉しそうな笑顔を見た瞬間、純の迷いは消えた。
その夜、純は妻の傍らに座った。
眠っている妻の呼吸は、浅く苦しそうだった。しばらくその顔を見つめていた。出会った頃のこと、カフェを開いた日のこと、閉店の夜に二人で最後の珈琲を飲んだこと。
ゆっくりと手を伸ばした。
祈るように、魔法を流した。異世界で十五年かけて磨いた技を、この一夜に注ぎ込んだ。 やがて妻の呼吸が、ゆっくりと深くなっていった。
朝になって、妻が目を開けた。純の顔を見て、それからいつものように「おはよう」と 笑った。
妻は台所に立って、自分でコーヒーを淹れはじめた。純は思わず立ち上がり、それからまた座り、どうすればいいか分からない。妻が豆を挽く音が、あの頃のカフェの朝に似ていた。純の目が、じわりと熱くなった。
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アパートの余った敷地に、中古のコンテナハウスが置かれることになった。
今日、純と妻は二人で見学に行ってきた。錆のない白い箱。窓や扉の向き、カウンターの位置。二人は声を揃えたり、笑ったり、神妙な顔をしたりしながら、真剣に話し合った。
住人たちが、また優しいカフェを始めると知って喜んでいる。
二人がもう一度、あの温かい一杯を出す日は、近い。