原発職員
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常
本文
防護服の中は、いつも静かだ。
外の世界がどれほど騒がしくとも、分厚いスーツに包まれた体の内側には、自分の呼吸音と、微かな機械のノイズと、それから胸の奥にずっと居座っている感情だけが残る。
佐藤 純 はその静けさが、少し苦手だった。
立入困難区域の境界を超えるたびに、世界がひとつ遠くなる感覚がある。鳥の声が消え、風の匂いが変わり、道路の端に、誰かが置き忘れたまま錆びついた自転車が、あの福島第一原発の事故から十五年、ずっとそこにある。誰も動かしていない。誰も触れていない。
ガイガーカウンターが静かに数値を刻む。許容範囲内。純はデータをタブレットに打ち込みながら、ゆっくりと林の中を進んだ。調査の目的は土壌サンプルの採取と、前回設置したセンサーの確認だ。特別なことは何もない、いつも通りの午後のはずだった。
木々の間から、光が差し込んでいた。
最初、純はそれを西日だと思った。この時期、午後三時を過ぎると、林の西側からちょうどそんな角度で日が入ってくる。だが歩みを止めて目を凝らすと、それは横ではなく、縦に、地面から空へ、一本の刃のように、青白い光の柱が立っている。
何だ、あれは。
純は思わず一歩を踏み出した。
その瞬間、手首のアラームが鳴った。
午後三時ちょうど。帰還を促す、甲高いビープ音。
防護服での作業は長くても数時間が限度だ。これ以上の被曝は避けるべきだと、頭の中の研究者がはっきりと告げている。
だが足が、止まらなかった。
光の柱は揺らいでいた。脈打つように、生き物のように。純はそこに何か見てはいけないものと、見なければならないものが同時に存在している気がして、防護服のブーツで枯れ葉を踏みながら、二歩、三歩と近づいた。
四歩目で、世界が消えた。
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目が覚めたとき、見知らぬ天井があった。
清潔で柔らかい光源が均等に並んでいる。純は自分がカプセルのような形状の寝台に横たわっていることに気づいた。体には薄い検査着が着せられている。全身が重く、喉が渇いていた。
「ああ、目が覚めたか」
声がして、横を向くと、白衣の男が端末を操作しながら近づいてきた。疲れた目をしているが、その奥に安堵の色がある。
「君、あんな場所で何をしていたんだ。救助があと少し遅れていたら、命はなかったぞ」
「あの……ここは」
「医療施設だ。とりあえず体内の汚染除去は完了している。もう安心していい」
体内の、除染。純はゆっくりと上体を起こしながら、窓の外に目をやった。
街?見たことのない街だ。それなのに、どこかで見た構造をしている気がする。高架橋が走り、ビルが立ち並び、人々が歩いている。ただ空が、少しだけおかしかった。ところどころに灰色の煤けた雲が停滞していて、地平線の向こうに、崩れかけた廃墟がうねるように見えた。
「ここは……どこですか」
「どこって、707復興都市だが」
男は少し首を傾けた。
「君、どこから来た」
純は答えに迷った。答えても信じてもらえる自信がなかった。
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話を聞くと、この世界では十数年前、複数の原子力施設が連鎖的に臨界事故を起こしたのだという。原因は今も特定されていない。一時は文明の終わりを本気で議論するほど壊滅的な状況になったが、世界中の研究者と技術者が、少しずつ、確実に、復興を進めてきた。 純には、その話が他人事に聞こえなかった。
「ただ、問題が残っている」と男は言った。「高濃度汚染区域に、放射能の影響を受けた生物が現れるようになった。我々は便宜上、怪物と呼んでいる。一部の人間がそれを駆除しているが、能力のある者は多くない」
「能力?」
「放射線を無効化したり、あるいは肉体的に通常の人間を大幅に超えた力が発現する者がいる。原因は不明で、全員に現れるわけじゃない」
翌日、純は検査を受けた。結果を見た研究者たちが、顔を見合わせた。
「どうしたんですか」
「放射線無効化の適性がある。それから……身体能力の素質も、高い」男が端末をそっと置いた。
「君、一度我々と話せないか」
「ただの調査研究員なんですが」
「それは知っている。それでも、だ」
純は少し考えてから、頷いた。
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最初の戦闘は、散々だった。
怪物というのは本当に怪物で、二メートルを優に超える体躯に、輪郭が滲んだように揺らいでいる。純は逃げようとして転び、転んだ拍子に何かが体の奥で弾けるような感覚があり、次の瞬間には自分でも理解できない力が腕から溢れ出ていた。
「な、何だこれ」
怪物は吹き飛んでいた。その場にいた駆除班の隊員が全員静止している。
「……今の、君がやったのか」
「たぶん、そうだ......と思います」
「運動神経は?」
「壊滅的です。体育は常に最下位でした」
隊員の一人が噴き出した。それが妙にその場の空気を和らげて、純は少し息がしやすくなった。
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十五年が経った。
気がつけば純は、この世界の復興と戦いの最前線に立ち続けていた。
研究施設で放射能の除染技術に向き合い、怪物の出現情報が入れば駆除班と共に現場へ向かう。戦い方は少しずつうまくなった。体が覚えた。この世界の仲間たちが教えてくれた。雨の夜も、吹雪の朝も、廃墟の中でも、汚染された湿地の中でも、純は戦い続けた。
特に最後の三年は、怪物の規模が大きくなっていた。
その日対峙した怪物は、純がこの世界で見てきた中でも、際立って大きかった。
事故のあと取り残された施設。
鉄骨の骨組みがむき出しの空間を、影が縫うように動く。
純は息を整えながら、正面から向き合った。
もうためらわない。体がそう覚えている。
怪物が跳ぶ。純が踏み込む。
放出した力が怪物の全身を包んだ瞬間——
光が、来た。
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防護服の中の、静寂。聞き慣れたガイガーカウンターの音。脚の下の、枯れ葉。手首のアラームが、まだ鳴っていた。
純は、自分が林の中に立っていることを理解した。
光の柱はもうなかった。代わりに夕暮れ前の西日が、真横から差し込んでいる。
アラームを止めた。時刻を確認した。
午後三時〇〇分十秒。
十秒。十五年が、十秒。
純はしばらく動けなかった。いくつもの感情が同時に動いて、どうしていいかわからなかった。仲間の顔が浮かんだ。研究室の白い天井が浮かんだ。雨の中で肩を並べて戦った顔が浮かんだ。全部、遠い夢みたいに思えるのに、確かにそこにあった時間だった。
大きく息を吐いた。帰ってきた。ここが現実だ。
そう思った直後、背後で枝が折れる音がした。
重い、何かが着地したときの音。
純はゆっくりと振り返った。向こうで最後に対峙した怪物が、林の中に立っていた。
「……マジか」
思わず声が出た。言葉の選択肢がそれしかなかった。
怪物は純の顔を見て、知っているような目をした。あちらも混乱しているのかもしれない。純も混乱していた。ただ、混乱したまま固まっている場合でないことは、十五年の経験がはっきりと告げていた。
深呼吸ひとつ。この体の力は、こちらに戻ってきても、まだある。
純は防護服のまま、一歩踏み込んだ。怪物が反応する。純は足場を確認しながら距離を詰め、さらに奥へ、奥へと誘導した。人が立ち入らない場所へ。誰もいない場所へ。
決着は、短かった。
怪物が消えたあと、静寂が戻ってきた。純は肩で息をしながら、林の奥に立っていた。西日が傾いている。帰らなければならない。でもしばらく、そこを動けなかった。
あの世界の研究者が言っていた言葉が、頭の中で繰り返された。
「一度光の門が現れた場所は、数年に一度、また現れる可能性がある。その都度、向こうから何かが出てくる可能性は、ゼロではない」
純は空を見上げた。放射線量は許容範囲内。時刻は四時〇〇分。静かな、福島の午後だった。
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復興途中の町に戻ると、家の明かりがついていた。
玄関を開けると、台所から美味しそうな匂いがした。入口に子供の靴が脱ぎ散らかしてある。純は思わず苦笑して、その靴を端に揃えた。
「おかえり」と妻の声がした。
「ただいま」
純は着替えながら、いつも通りの返事をした。今日あったことは、まだ話せない。話せる言葉を、まだ持っていない。ただ、この部屋の明かりと妻の声が、今夜は少しだけ眩しかった。
食卓につくと、子供が今日学校であったことを一方的に話し始めた。純はそれを聞きながら、好物のビーフシチューを食べた。最高に旨かった。
万が一の時は、また戦う。純はそう決めていた。この場所を守るために、持てる力の全てを。それがどれほど静かな覚悟であっても、決意は揺るがない。
ただ今夜は、ただの父親で、夫で、研究員でいい。