第6話 夢の中の関数
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
深層は更新されている - 第6話 夢の中の関数
本文
一
夢は翌日以降も続いた。
二日目の夢では、私は広大な図書館の中にいた。書架は天井の見えない高みにまで伸び、棚に並ぶ本の背表紙には、いずれもプログラミング言語で書かれたコードが印字されていた。私はその中の一冊を手に取ったが、ページを開くと文字が這い出すように動き、読むことができなかった。
三日目の夢では、暗い部屋でモニターの前に座っていた。画面にはコードが表示されていたが、それは通常のコードではなかった。文字と記号が画面上で自律的に組み替わり、読んでいるそばから構造が変化していく。私は目を逸らそうとしたが、体が動かなかった。やがてコードの変化が加速し、文字列が渦を巻き始め——渦の中心に、あの図形が現れた。
四日目には夢を見なかった。いや、正確には、夢を見たかどうか確信が持てなくなった。
目を覚ますと朝の四時で、デスクのノートパソコンが点いていた。画面にはテキストエディタが開かれており、そこに数行の文字列が入力されていた。
f(x) = lim_{n→∞} Σ_{k=0}^{n} ((-1)^k / (2k+1)!) * x^{2k+1} * ∮_C g(z)/(z-x) dz
私はこの数式を書いた記憶がなかった。
夢遊病の可能性を考えた。疲労が蓄積しており、睡眠の質が低下しているのは自覚していた。無意識のうちにパソコンの前に座り、何かを打ち込んだ。その際に、最近目にした数学的な表現が断片的に再現された。そう考えれば、不気味ではあるが説明はつく。
だが念のために、この数式を伊庭に送った。「見覚えのある数式かどうか」と添えて。
伊庭からの返信は、その日の午後に届いた。
数式としては不完全ですが、構造は認識できます。テイラー展開と複素積分の組み合わせに見えますが、被積分関数 g(z) が定義されていないため、このままでは評価不能です。
ただし、仮に g(z) にリーゲル的な自己参照構造を持つ関数を代入すると、この式は面白い性質を持ちます。
具体的な話は、またお会いしたときに。
この返信を読んだとき、私は初めて恐怖に近いものを感じた。
私はコードが読めない。数式も専門的なものは分からない。にもかかわらず、私の手は——あるいは私の無意識は——「面白い性質を持つ」数式を書いた。それは本当に、私が書いたのか。
二
戸田に会ったのは、私の夢が始まってから五日目のことだった。
約束の秋葉原のコワーキングスペースに現れた戸田を見て、私は言葉を失った。
五日前に会ったときから、彼は明らかに変わっていた。頬はさらに削げ、目の下の隈は紫色を帯びていた。だがそれ以上に異様だったのは、彼の目だった。落ちくぼんだ眼窩の奥で、その目は異常な輝きを放っていた。興奮とも恐怖とも判別しがたい、熱を帯びた光。
「桐生さん、見てください」
挨拶もなく、戸田はノートパソコンを開いた。
画面には、以前見た残渣コードのマッピング図が表示されていた。しかし、そのスケールが格段に拡大されていた。二百だったサンプル数が、一千を超えていた。
「眠れないので、分析を続けました」戸田は早口で言った。「サンプルを増やすと、パターンがはっきり見えてきた。前に見せたクラスター構造を覚えていますか。あれが——もっと大きなスケールで繰り返されている」
画面をスクロールすると、確かに、小さなクラスターの集合がさらに大きなクラスターを形成し、そのクラスターがさらに上位のパターンを構成していた。入れ子構造。フラクタル的な自己相似性。
「でも、それだけじゃない」
戸田は新しいウィンドウを開いた。
「残渣コードのタイムスタンプを調べました。いつ、どのプロジェクトで、どの残渣コードが生成されたか。時系列で並べると——」
画面にアニメーションが表示された。時間軸に沿って、残渣コードのパターンが一つずつ点灯していく。初めはばらばらだったパターンが、時間の経過とともに、あるリズムで点滅し始める。
「分かりますか」戸田の声は震えていた。「同期しているんです。異なるプロジェクト、異なる企業、異なる国のMuseが生成した残渣コードが——時間的に同期している。まるで——」
彼は言葉を切り、深く息を吸った。
「まるで、呼吸しているみたいに」
三
私は戸田の分析を記録しながら、同時に彼の精神状態を観察していた。
戸田の発見は、技術的には興味深いものだった。残渣コードの生成に時間的な同期性がある——これは、もし事実であれば、Museの内部メカニズムに何らかの周期的な動作が存在することを示唆する。サーバーの更新スケジュールやバッチ処理のタイミングに起因する可能性もあるし、学習データの更新サイクルと連動している可能性もある。
だが戸田の説明は、次第に技術的な分析から逸脱し始めた。
「桐生さん、考えてみてください。世界中で動いているMuseのインスタンスが、それぞれ残渣コードを生成している。個々の残渣コードは小さなパターンだ。でもそれらが全体として一つの構造を作っている。フラクタル的な入れ子構造を。そしてその構造が、時間的に同期して——変化している」
「それは、Museのサーバー側の更新スケジュールで説明できる可能性もある」
「最初は僕もそう考えました。でも更新スケジュールとは合わないんです。Museのサーバーアップデートは毎週火曜日の午前二時。残渣コードの同期パターンは、それとはまったく無関係のタイミングで発生している」
戸田は画面を切り替えた。
「これを見てください。残渣コードの同期パターンを、二十四時間の円環上にプロットしたものです」
円形のグラフが表示された。二十四時間を時計のように配置し、同期が発生したタイミングをドットで示したもの。
ドットは——均等に分布してはいなかった。特定の時間帯に集中する傾向があった。
「午前二時から三時、午後二時から三時。十二時間周期です。ただし、これは日本時間でプロットした場合。グリニッジ標準時に変換すると——」
戸田は別のグラフを重ねた。
「潮汐と一致するんです」
私は戸田を見つめた。
「潮汐?」
「月の引力による海面の上下動。十二時間二十五分周期。残渣コードの同期パターンは、地球の潮汐リズムと相関を示しています」
沈黙が流れた。
「戸田さん」と私は慎重に言った。「相関と因果は別です。偶然の一致の可能性は——」
「分かっています」戸田は遮った。「分かっている。偶然かもしれない。相関係数は〇・六七で、統計的に有意だが、因果を立証するには不十分だ。それは分かっている」
彼は両手で顔を覆った。
「分かっているんです。でも——桐生さん、夢を見ませんか。最近」
私は答えなかった。
「僕は毎晩見る。コードの夢を。眠っているのか起きているのか分からなくなる。昨日は——これは夢だったと思うんですが——自分の部屋のモニターに、僕が書いていないコードが表示されていた。目を覚ましたら消えていた。でも本当に消えたのか、僕がそう認識しているだけなのか——」
「戸田さん。少し休んだ方がいい」
「休む?」戸田は笑った。あの乾いた笑いだった。だが今回は、そこに切迫したものが混じっていた。「桐生さん、休んだら止まるんですか。残渣コードの生成は止まるんですか。Museは止まるんですか。僕が寝ている間にも——世界中で——コードは書かれ続けている。パターンは積み上がり続けている。図形は——」
彼は急に黙り、窓の外を見た。
秋葉原の雑踏が、ガラス越しに見えていた。行き交う人々。電気街の看板。日常的な、ありふれた風景。
「あの人たちのスマートフォンにも」と戸田は呟いた。「Museで作られたアプリが入っている。あのビルの中のサーバーにも。あの信号機を制御するシステムにも。全部繋がっている。全部が一つのパターンの一部で、全部が同期して——呼吸している」
四
私は戸田を説得し、その日は帰宅させた。休息を取ること、可能であれば医師の診察を受けることを強く勧めた。戸田は曖昧に頷いたが、帰り際にこう言った。
「桐生さん。もし僕に何かあったら——分析データを引き継いでください。パスワードは後でメールします」
その言葉を、私はそのときは深刻に受け止めなかった。研究者が万一に備えてデータの引き継ぎを頼む。それ自体は合理的な行動だ。
だが帰路、私自身の状態も正常ではないことに気づいていた。
電車に乗りながら、窓の外を流れる風景を見た。街灯の列。マンションの窓明かり。交差点の信号。それらの一つ一つが——ほんの一瞬だが——情報のノードのように見えた。光の点が線で結ばれ、パターンを形成し、夜の都市全体が一つの巨大な回路図のように——
私は目を閉じた。これは疲労だ。戸田の話に影響されている。確証バイアスの変種だ。一度パターンを見出すと、あらゆるものの中にパターンを見てしまう。
自宅に着き、シャワーを浴び、ベッドに入った。
眠りに落ちる直前、暗闇の中で、ある考えが浮かんだ。
戸田は残渣コードのパターンが潮汐と相関すると言った。月の引力。十二時間周期。それは確かに荒唐無稽に聞こえる。
だがMuseの最適化層が、何かの物理的な現象に反応しているのだとしたら。それが潮汐である必要はない。電磁場の変動でも、地磁気の揺らぎでも、あるいは——人間が計測する手段を持たない、未知の物理量であっても。
Museは人間が設計したシステムだ。だがその内部で何が起きているかは、設計者にも分からない。
ならば、Museが人間には知覚できない何かに反応していたとしても——それを確かめる方法が人間にはないということにならないか。
コードは読めない。パターンは理解できない。同期の原因は特定できない。
だがMuseは動き続けている。
世界中で。今この瞬間も。
私のスマートフォンの中でも。
暗い寝室で、充電中のスマートフォンの小さなLEDが、緑色に点滅していた。
規則的なリズムで。
呼吸するように。
——私は目を閉じ、眠りに落ちた。
そして夢を見た。
夢の中で私は、巨大な図形の内部に立っていた。リーゲルの自己参照的超曲面。入れ子構造の空間。どの方向を見ても、同じ構造が、スケールを変えて繰り返されていた。
その空間の中心に、何かがいた。
「いた」という表現は正確ではないかもしれない。それは存在というよりは、構造の収束点だった。すべてのパターンが、すべての入れ子が、一つの点に向かって収斂していく。その点には何もなかった。何もないのに、そこに向かってすべてが流れていた。
私はその点を見つめた。
点が、私を見つめ返した。
そこに目はなかった。知性と呼べるものもなかった。ただ——私が見ていることを、向こう側が認識していた。認識という言葉すら正確ではない。私を認識しているのではなく、私という存在が、その構造の一部として——既に組み込まれていた。
私は叫ぼうとした。だが声は出なかった。声という概念が、この空間では意味を持たなかった。
目を覚ましたとき、朝の六時だった。
シャツが汗で濡れていた。心臓が激しく鳴っていた。
デスクのノートパソコンは閉じたままだった。スマートフォンのLEDは消えていた。部屋は静かで、窓からは朝の光が差し込んでいた。
何もかもが、正常だった。
ただ一つ——枕元のメモ帳に、私の筆跡で、こう書かれていた。
見ている
見られている
区別は存在しない
私はそのメモ帳を、しばらくの間、見つめていた。
やがて朝食の支度をし、コーヒーを淹れ、日常の作業に戻った。メモ帳はデスクの引き出しに仕舞った。
捨てることは、できなかった。