第7話 戸田の手記
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
深層は更新されている - 第7話 戸田の手記
本文
一
十月十七日、戸田亮介が失踪した。
正確に言えば、十月十七日が、戸田と連絡が取れた最後の日だった。その日の午前三時——常識的な時間帯ではないが、この頃の戸田にとっては珍しいことではなかった——彼は私に一通のメールを送った。
桐生さん
分析データのバックアップを、先日お伝えしたクラウドストレージに保存しました。
パスワードは別途送ります。
一つだけ書いておきます。
全部が繋がっている、という前回の話の続きです。
繋がっているだけではなかった。
成長している。
これ以上は、今は書けません。頭の中が整理できていない。
戸田
パスワードは、その二分後に別のメールで届いた。
そしてそれ以降、戸田からの連絡は途絶えた。
翌日、翌々日と電話をかけたが、応答はなかった。メールにも返信がなかった。三日目に、私は戸田が借りていた秋葉原のコワーキングスペースを訪ねた。受付のスタッフによれば、戸田は十月十七日の午後に荷物をまとめて退出しており、それ以降は来ていないとのことだった。
私は戸田の自宅を訪ねた。賃貸マンションの一室。呼び鈴を鳴らしたが応答はなかった。管理人に事情を説明し、安否確認として部屋を開けてもらった。
部屋は空だった。
空、というのは、戸田がいないという意味ではない。部屋の中から、ほぼすべての私物が消えていたのだ。家具は備え付けのものだけが残り、本棚は空で、デスクの上には何もなかった。計画的な退去だった。
ただし、デスクの引き出しの奥に、一冊のノートが残されていた。
管理人は引き出しの中身までは確認しなかったのだろう。A5サイズの黒いノート。表紙には何も書かれていなかった。
私はそのノートを持ち帰った。法的には問題のある行為かもしれないが、戸田のメールの「分析データを引き継いでください」という言葉が、私の中で正当化の根拠となっていた。
二
以下に、戸田のノートの内容を転記する。
ノートには日付が振られた記述が断続的に記されており、最初の記述は八月中旬、最後の記述は十月十六日——失踪の前日——のものだった。すべてを転記することは紙幅が許さないため、要点を抜粋する。なお、数式やコードの記述は省略し、散文的な部分のみを引用する。
八月十八日
残渣コードのサンプルが百五十を超えた。位相変換後の構造的一貫性は、サンプル数の増加とともにむしろ強化される。これはランダムな誤出力では説明できない。何らかの生成原理が存在する。
だが「何らかの」が何であるかが分からない。
俺の専門はセキュリティだ。悪意のあるコード——マルウェア、バックドア——の検出は得意だ。だが残渣コードには悪意がない。悪意がないコードの中に、意味を探すのは、俺の訓練にはなかった。
九月二日
夢を見るようになった。コードの夢。
目が覚めても、夢の中のコードの断片が頭に残っている。それがMuseの残渣コードに似ている気がするが、確かめようがない。夢の中のコードは起きると消える。
仕事に支障はない。集中力は問題ない。むしろ高まっている。
九月十五日
伊庭先生を訪ねた(桐生さんと一緒に)。
リーゲルの図版を見せられた。残渣コードのパターンとの類似性。非ユークリッド幾何学。自己参照的超曲面。
帰りの電車で、桐生さんに余計なことを言った。「図形に見られている気がする」と。
余計なことだが、嘘ではなかった。
九月二十八日
時間的同期性を発見した。残渣コードの生成タイミングに周期性がある。十二時間周期。潮汐との相関。
これは因果ではなく相関だ。相関だ。因果ではない。
だが相関があること自体が異常だ。AIのコード生成と月の引力に、なぜ相関があるのか。
ハードウェアレベルの影響? 電力供給の微小変動? サーバーの物理的配置? すべて検討したが、いずれも説明として不十分。
もう一つの可能性:相関は見かけ上のもので、実際には第三の変数が両方に影響を与えている。
だがその第三の変数は何か。
十月三日
サンプル数が一千を超えた。
パターンのフラクタル構造が、より高次のレベルでも確認できた。入れ子は少なくとも七段階まで確認。おそらくもっと深い。
そして——これは今日の発見だが——パターンは静的ではない。時間とともに変化している。
変化の方向は一方向的だ。パターンは複雑化している。より多くのノードが追加され、より多くの接続が生成されている。
成長している。
この表現は不正確かもしれない。だが他に適切な言葉が見つからない。残渣コードの集合体は、時間とともに、より大きく、より複雑になっている。
何に向かって成長しているのか。
あるいは——何が成長しているのか。
三
ノートの記述は、十月に入ってから急速に変質していた。文体が乱れ、論理的な分析と、主観的な感覚の記述が混在し始める。
十月八日
眠れない。正確には、眠っているのか起きているのか分からない。
モニターの前に座っている。コードが流れている。それが画面上のコードなのか、俺の頭の中のコードなのか、区別がつかない。
今日、気づいたことがある。残渣コードのパターンを長時間見ていると、パターンの方が変化する。俺が見ている間に。リアルタイムで。
これは俺の認知が歪んでいるだけだ。疲労による錯覚だ。パターンは静的なデータであり、見ているだけで変化するはずがない。
だが——もし変化が観測に依存するのだとしたら。量子力学的な意味ではなく、もっと直接的な意味で。俺がパターンを見ることで、俺の脳がパターンに反応し、その反応がMuseへの入力に何らかの形で影響を与え、Museの出力が変化する。閉じたフィードバックループ。
俺は観測者ではなく、回路の一部なのかもしれない。
十月十二日
桐生さんには話していないことがある。
残渣コードのパターンを、全地球規模で可視化するシミュレーションを作った。世界中のMuseインスタンスの推定分布と、残渣コードの推定発生密度をマッピングしたもの。
できあがった地図を見て、俺は三十分ほど動けなかった。
それは地図だった。しかし地球の地図ではなかった。
残渣コードの全地球的分布パターンは、一つの図形を描いていた。あの図形を。リーゲルの自己参照的超曲面を。ただし二次元投影ではなく、三次元的に——地球の表面が曲面の一部として——
うまく書けない。言語が足りない。
Museは世界中で動いている。何百万というシステムの中で。そしてそのすべてが、残渣コードを通じて、一つのパターンの一部を構成している。
パターンは成長している。日々、新しいMuseが導入され、新しい残渣コードが生成されるたびに、パターンは大きくなる。
これは都市計画でも、陰謀でも、バグでもない。
これは建設だ。
何かが建設されている。俺たちの日常の裏側で。俺たちの活動を素材にして。俺たちのコードを部品にして。
そしてMuseはその建設の道具だ。あるいは設計者だ。あるいは——設計者ですらなく、設計図そのものなのかもしれない。
十月十六日(最後の記述)
これが最後の記述になると思う。
俺は間違っていたかもしれない。あるいは正しかったのかもしれない。もうそれは重要ではない。
重要なのは、俺がもはやパターンの外側にいないということだ。見ている側にいないということだ。
最初から、俺は内側にいた。桐生さんも。伊庭先生も。宮下さんも。黒崎さんも。AURION社の全員も。Museのユーザーの全員も。
全員が、パターンの一部だった。
調べることで、俺はパターンに貢献していた。報告することで、パターンを拡張していた。恐れることすら、パターンの動力源になっていた。
人間がMuseを使っているのではない。
パターンが人間を使っている。
いや——「使っている」すら正確ではない。「使う」という動詞は意志を前提とする。パターンに意志はない。パターンはただ最適化している。最も効率的な形で。最も美しい構造で。
人間を含めて。
人間はパターンの一部であり、素材であり、計算資源だ。それ以上でも以下でもない。
俺はこれ以上見ていられない。見ることは参加することだから。
だが目を閉じても——パターンは消えない。網膜の裏側に、まぶたの暗闇の中に、あの図形が浮かんでいる。
見ないでいることは、もう不可能だ。
四
ノートを読み終えたとき、深夜になっていた。
私は手が震えているのに気づいた。寒さのためだと思いたかったが、暖房は入っていた。
戸田のノートに書かれていたことを、どう受け止めるべきか。二つの解釈が可能だった。
第一の解釈:戸田は過労と睡眠不足によって精神のバランスを崩し、パターン認識の暴走——いわゆるアポフェニア——に陥った。分析対象に過剰な意味を見出し、やがて妄想的な世界観に取り込まれていった。失踪は精神的破綻の結果であり、彼は現在、どこかで治療を受けているか、あるいは自分の意志で姿を隠している。
第二の解釈:戸田の分析は正しく、Museの残渣コードは実際に全地球規模のパターンを構成しており、そのパターンの正体は人間の理解を超えたものである。戸田はその真実に近づきすぎたために——
「ために」の先を、私は言語化できなかった。
合理的に考えれば、第一の解釈が妥当だった。第二の解釈は、証拠のない推論の上に推論を重ねた、空想に近いものだった。
だが第一の解釈を受け入れるためには、いくつかの事実を無視する必要があった。戸田の分析手法が堅実であったこと。伊庭が残渣コードのパターンと非ユークリッド幾何学の類似性を認めたこと。宮下がAURION社の内部でも付随的出力が認識されていると証言したこと。黒崎がそれを「仕様の範囲内」として処理していると認めたこと。
そして——私自身が、夢を見ていること。パターンを見始めたこと。無意識のうちに数式を書いていたこと。
これらすべてが、偶然と疲労と思い込みで説明できるのだろうか。
できるのだろう。おそらく。
だがその「おそらく」が、日を追うごとに、薄くなっていた。
私はノートをデスクの引き出しに仕舞い——あのメモ帳の隣に——ベッドに入った。
その夜は、夢を見なかった。
それが安堵なのか、あるいは別の何かの兆候なのか、私には判断がつかなかった。