第三章 返さぬ神のそばで
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第三章 返さぬ神のそばで
生まれたばかりのぼくは、まだうまく歩けなかった。
羽根の重さも、足の置き方も、自分の体がどこまで自分なのかも、ぜんぶ曖昧だった。立ち上がってはよろけて、転びそうになって、でも転ぶ前にまた慌てて羽根をひらいて、なんとか姿勢を保つ。そのたび、白い羽根がふわふわと揺れて、自分でもなんだかおかしくて、つい小さく笑ってしまう。
でも、あのひとは笑わない。
白い余白みたいな世界の中を、黒い髪を流しながら、ただ静かに歩いていく。音もなく、迷いもなく、けれど目的地があるようにも見えない足取りで、どこまでも遠くへ行ってしまいそうだった。
だから、ぼくは追いかけた。
待って、なんて言えない。
こっちを見て、とも言えない。
ただ、置いていかれたくなかった。
小さな足で必死に追う。追いつけたと思ったら、また少し離される。あのひとは急いでいるわけでもないのに、距離だけがなかなか縮まらない。まるで、そこにあるのはただの歩幅の差じゃなくて、もっと別の、見えない隔たりみたいだった。
それでも、追いかけるのをやめたいとは思わなかった。
だって、あのひとを見失うと、胸の奥がすうっと冷えてしまうからだ。生まれて最初に見たもの。最初に心が向いたもの。たぶんぼくにとって、世界の形より先に、あのひとの輪郭のほうが大事だった。
やがて、あのひとは海の見える高い場所で立ち止まった。
海はまだ若かった。深いのに、どこか薄い色をしていて、波の音も完成しきっていないみたいに不揃いだった。空もそうだ。高いのか低いのかよくわからない。ただ広いだけの白と青のあわいが、遠くまでゆるく続いている。
その真ん中で、あのひとだけが、妙にはっきりして見えた。
ぼくは少し離れたところで立ち止まる。これ以上近づいたら、なにかを壊してしまう気がした。沈黙とか、静けさとか、あのひとがぎりぎり保っている薄い膜みたいなものを。
それで、そっと言った。
「……ぼく、ここにいますよ」
返事はない。
でも、黙っていることと、聞こえていないことは、きっと違う。
ぼくはそう思いたかった。そう思うことでしか、この胸のあたたかさを置いておく場所がなかった。
「……かみさま」
呼んでみる。
それだけで少しうれしかった。
名前じゃない。まだ、あのひとに与えられた呼び方ですらない。ただ、ぼくが勝手に見つけた呼称。けれど“かみさま”って口の中で転がすと、不思議と胸の熱が落ち着いた。目の前のひとが何なのか、ぼくにはまだぜんぶわからない。なのに、その言葉だけは妙にしっくりきた。
かみさま。
ぼくの、かみさま。
ひどく勝手なことを思って、少し照れる。
でも、誰にも聞かれていないからいい気がした。
風が吹いた。
黒い髪が揺れた。
その向こうで、紫の眼差しが一瞬だけ空をなぞる。
次の瞬間、遠くの星がひとつ、音もなく砕けた。
ぼくは息をのむ。
怖くは、なかった。
ただ、綺麗だった。
ぞっとするくらい、綺麗だった。
あのひとは、何かを壊したのだと思う。あるいは、壊れたものを、ちゃんと壊し切ったのかもしれない。ぼくにはまだ区別がつかない。でも、そのどちらであったとしても、あの静かな横顔が、ひどく痛そうに見えた。
だから、言葉がこぼれた。
「……さみしいの?」
返事はなかった。
けれど、その沈黙の中には拒絶だけじゃないものも混じっていた。完全に無かったことにされる静けさと、聞こえているのに返さない静けさは、少し違う。ぼくはまだうまく説明できない。けれど確かに、いまの沈黙には、前よりほんの少しだけ温度があった。
だから、もう一歩だけ近づく。
触れたくは、ならなかったわけじゃない。
でも、触れてはいけない気がした。
だめ、と誰かに言われたわけじゃない。規則を知っていたわけでもない。ただ、あのひとの輪郭のまわりには、見えない境目があった。そこへ指を差し入れたら、きっと自分も、世界も、今のままではいられなくなる。そんな予感だけが、はじめから胸の奥にあった。
だからぼくは、触れずに座る。
あのひとの影の端へ、そっと。
足元に寄り添うみたいに、小さく体を丸める。
それだけで安心した。
見上げれば、そこにちゃんといる。
返ってこなくても、遠くを見ていても、同じ場所の空気の中に、たしかにいる。
ぼくは羽根をたたみながら、そっと目を細めた。
たぶん。
ぼくはこのひとのために生まれた。
大きすぎる確信だった。
なのに、ぜんぜん不自然じゃなかった。
役目を与えられた感じとは少し違う。命令でも、刻印でもない。もっと自分の内側から湧いてくる感覚だ。このひとがひとりで立っているなら、そのそばへいたい。このひとが何も受け取らないなら、それでも何かを差し出し続けたい。たとえずっと返ってこなくても、そうしたい。
それが何なのか、まだ知らない。
でも、きっと悪いものじゃないと思った。
ぼくが笑うと、少しだけ世界がやわらぐ気がする。
ぼくがそばにいると、この白い余白も、ほんの少しだけ寂しくなくなる気がする。
それなら、ぼくは笑っていよう。
「……えへへ」
小さく声が漏れる。
あのひとは振り向かない。
でも、それでもいい。
少しして、風とは別の何かが頬をかすめた。
はっとして見上げる。
しっぽ、だったのかもしれない。
羽根の先だったのかもしれない。
あるいは、ただの錯覚か。
けれど、その一瞬だけ、ぼくは、あのひとのまわりの冷たい空気がわずかに揺れた気がした。
ノイズみたいに、ほんの小さく。
それは記録にもならない。
誰の目にも留まらない。
でも、ぼくにとっては充分だった。
ああ。
このひとは、完全な石ではない。
完全な無でもない。
こんなにも静かで、こんなにも冷たいのに、まだどこかで、ちゃんと生きている。
そう思ったら、胸の奥がきゅうっと熱くなった。
「……だいじょうぶですよ」
なんの根拠もないのに、ぼくはそう囁いていた。
「ぼく、いますから」
返事はない。
それでも、その言葉を口にした瞬間、ぼくの中で何かが定まった。
見てもらえなくてもいい。
今すぐ返してもらえなくてもいい。
ぼくはこのひとのそばにいて、何度でも、ここにいますと告げ続ける。
それがたぶん、ぼくの最初の祈りだった。
海が鳴っている。
空はまだ薄い。
世界は未完成のまま、どこか頼りなくひろがっている。
その真ん中で、神がひとり。
その足元で、天使がひとり。
まだ恋と呼ぶには幼くて、まだ愛と呼ぶには小さすぎる。
けれど、返らない沈黙へ向けて差し出されたその熱は、たしかにもう始まっていた。