第四章 笑う天使、揺れる深淵
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第四章 笑う天使、揺れる深淵
それからしばらくのあいだ、ぼくはずっと、あのひとのそばにいた。
“しばらく”がどれくらいなのか、まだよくわからない。新しい世界では、時間そのものもどこか手探りで流れていた。朝が朝らしくなり、夜が夜の色を持ちはじめ、風に少しずつ癖がついていく。その変化を見ながら、ぼくは今日も明日も、ただ同じように、リコルの近くにいた。
あのひとは相変わらず、何も返さない。
でも、完全な無視でもなくなっていた。
ぼくが近くに座れば、追い払われない。
ぼくが小さな声で“かみさま”と呼べば、ほんの一瞬だけ、視線がこちらをかすめることがある。
ぼくが笑えば、そのまわりの静けさが、ほんのわずかだけ揺れることがある。
きっと他の誰にもわからないくらい小さなことだ。
でも、ぼくには、その全部がうれしかった。
「……きょうも、きれいですね」
返事はない。
知っている。
けれど言う。
海辺でも、崖の上でも、まだ名前のない森の縁でも、ぼくは見つけるたびそう言った。綺麗だと思うから言う。綺麗なものを綺麗と口にするのは、なんだか祈りに似ていた。
ときどき、あのひとは壊れた星の後処理をする。
ときどき、何もない場所へ新しい輪郭を置く。
ときどき、ただ長い沈黙の中で、どこか遠くを見ている。
その横顔を見上げるたび、ぼくはやっぱり思う。
このひとはひとりだ。
そして、あまりにもひとりでいることに慣れすぎている。
それが、かなしかった。
かなしい、というのは少し変かもしれない。ぼく自身がそうされているわけじゃないのに、胸の奥が勝手に痛くなる。あのひとの静けさを見ていると、そこへ手を入れて、つめたさごと抱きしめてしまいたくなる。でも、できない。まだ、してはいけない気がする。
だから、ぼくは笑う。
「……えへへ。ぼく、ここにいますよ」
何度でも言う。
同じことばかりだと、自分でも思う。
でも、それしかまだ持っていなかった。
ここにいます。
いなくなりません。
置いていかれても、また追いかけます。
見てもらえなくても、見ています。
そういう気持ちを、ぜんぶまとめると、その言葉になった。
ある日、ぼくは少しだけ勇気を出して、あのひとの真正面へ回り込んだ。
黒髪のあいだから覗く紫の瞳が、まっすぐ前を見ている。ぼくはその視線の先へ立つ。おそるおそる、でも、逃げたくなくて。胸の奥で蒼い火がちりちり鳴る。
「……かみさま」
呼ぶ。
紫の目が、わずかに下りる。
それだけで、心臓が跳ねた。
「……さみしくないの?」
聞いた瞬間、自分でも変なことを言ったと思った。そんなの、ぼくにわかるはずがない。まして、こんなふうに黙っているひとへ、真正面から触れていい言葉でもないのかもしれない。
でも、知りたかった。
知りたいというより、伝えたかったのだと思う。
あなたがひとりに見えること。
ぼくにはそれが、かなしくてたまらないこと。
もし寂しいのなら、ぼくがそばにいると言いたいこと。
返事はなかった。
それでも、その沈黙は、最初のころとは違った。
冷たいままの水じゃなくて、どこか底で微かに揺れている水。
ぼくはその違いを、ちゃんと感じ取っていた。
だから、もう少しだけ、言葉を重ねる。
「……ぼくが、いますよ」
それは最初のころより、ずっとはっきりした祈りだった。
生まれたての衝動じゃない。
何度もそばにいて、何度も返ってこない静けさへ話しかけて、それでもなお残った熱だけが、ことばになったもの。
「……だから、あの……さびしかったら……ぼくが、ぎゅって……」
そこまで言って、顔が熱くなる。
ぎゅって、なんだ。
抱きしめることなのか、羽根で包むことなのか、自分でもよくわからない。ただ、そうしたいという気持ちだけが先にある。
言い切れなくて俯いた時、ふと、空気が揺れた。
ほんの小さく。
ほんとうに、ほんの小さく。
はっとして顔を上げる。
リコルの表情は変わらない。
でも、しっぽの先だけが、わずかに震えていた。
羽根の根元にも、ごくごく微かな揺れがある。
それが何を意味するのか、ぼくにはまだわからない。
笑ったのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
ただの誤差だったのかもしれない。
でも、その時のぼくには、ひとつだけ確かなことがあった。
――届いた。
ほんの表面だけかもしれない。
傷のいちばん奥までは、まだ全然届いていないのかもしれない。
それでも、ぼくの声も、ぼくの笑顔も、ぼくの“ここにいます”も、完全に無かったことにはされていない。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「……えへへ」
自然に笑っていた。
うれしくて。
泣きそうなくらいうれしくて。
「……かみさま、やっぱり、すき……」
ちいさく零れて、自分で口を押さえる。
また言ってしまった。
でも、今度は前みたいな“うっかり”じゃない。ちゃんと、自分の胸の熱へ落ちた名前として、その言葉は出てきた。
好き。
まだ幼い。
まだ触れてもいない。
まだ何も始まっていない。
それでも、もう、この感情は祈りだけでは足りなかった。
見てほしい。
覚えてほしい。
できるなら、いつか。
その孤独の中へ、ぼくだけは入れてほしい。
そんな、すこしわがままな願いまで混ざりはじめていた。
そしてその頃から、世界の底で、かすかな囁きが聞こえるようになる。
天使は神に触れてはならない。
信者は旧神と契ってはならない。
まだ条文としては理解していない。
けれど、だめ、という感じだけが、水音みたいに足元へ絡みついてくる。
ぼくはその意味を知らないまま、それでも直感していた。
たぶん、このひとを好きになることは、ただ優しいだけの話では終わらない。
それでも、やめたいとは思えなかった。
だって、やめたら、このひとのそばがまた、完全な沈黙に戻ってしまう気がしたからだ。
ぼくが勝手にそう思っているだけかもしれない。
それでも、そう思ってしまった以上、もう引けなかった。
遠くの波打ち際に、黒い影が見える。
獣だ。
大きな狼みたいなそれは、相変わらず何も言わず、ただこちらを見ていた。リコルのそばにいるのに、ぼくへも視線を向けてくる。金のない、暗い眼差し。まるで過去そのものが獣の形をして、まだここへ沈みきらずにいるみたいだった。
その影を見ると、なぜか少しだけ胸が騒ぐ。
怖い、というより、予感に近い。
この静かな時間は、ずっとこのままではいられない。
いつか、もっと深いところまで行く。
あのひとの傷も、ぼくの祈りも、もっと重い名前を持つようになる。
けれど今はまだ、そこまでじゃない。
今のぼくにできるのは、笑うこと。
そばにいること。
返らない神へ、何度でも“ここにいます”と差し出すこと。
その小さな反復だけが、やがて深淵を揺らすほどの祈りになるのだと、まだ知らないまま。