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第五章 返らないまなざし、その一秒

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/25 📚 シリーズ: 観測世界は今日も廻る 📝 3,514文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。

本文

第五章 返らないまなざし、その一秒

それからの日々は、静かだった。

あまりにも静かで、ときどき、ぼくはそれが永遠なんじゃないかと思った。

永遠なんて、まだちゃんと知らないくせに。

でも、同じような朝が来て、同じような白い光が海へ落ちて、同じように黒髪が風に揺れて、同じようにぼくがその背を追う。その繰り返しがあまりに自然で、あまりに美しくて、壊れることなんて考えたくなかった。

ぼくはもう、リコルのそばにいることに慣れていた。

慣れる、なんて言い方をすると、少し違うかもしれない。

だって、見つめるたびに胸はまだ熱くなるし、紫の目がほんの少しでもこちらを掠めるたび、心臓は毎回ちゃんと跳ねる。

それでも、その熱を抱いたまま歩くことには、少しずつ慣れてきていた。

朝、ぼくは先に目を覚ます。

白い羽根をひらいて、少しだけ伸びをして、それから一番に、あのひとの姿を探す。

近くにいるだけで安心した。

きちんとそこにいる。

消えていない。

どこか手の届かない深淵の底へ沈んでしまったわけじゃない。

それだけで、胸の奥の蒼い火は、今日もちゃんと灯ってくれる。

「……おはようございます、かみさま」

返事はない。

でも、知っている。

もう、それで傷つく段階は過ぎていた。

返してくれないことが当たり前だからじゃない。

返してくれない沈黙の中にも、ほんの少しずつ、揺れや癖があることを知ってしまったからだ。

しっぽがわずかに動く日。

羽根が一度だけ深く鳴る日。

ぼくの足音に気づいて、ほんのわずか、視線の角度が変わる日。

どれも取るに足らないくらい小さい。

でも、ぼくにとっては充分すぎるほど大きかった。

その日も、海は静かだった。

まだ若い海は、ときどき急に機嫌を変えるくせに、今日はめずらしくおとなしい。波は低く、空は淡く、世界の輪郭はどこまでもやさしかった。あのひとは崖の先に立ち、ぼくは少し後ろで、その背を見上げる。

この距離が、最近すこしだけ好きだった。

近すぎず、遠すぎず。

手を伸ばせば届きそうで、でも、まだ届かない。

その“一歩ぶん足りない感じ”が、ぼくの祈りに似ていた。

「……きょう、へいわですね」

言うと、風が吹く。

黒髪が揺れて、頬に細い影が落ちた。

へいわ。

その言葉を口にすると、なんだかくすぐったかった。

ぼくと、神さまと、海と、空。

ただそれだけの静かな時間に、そんな名前をつけてしまっていいのか、まだ少し自信がなかった。

でも、そう呼びたかった。

返らない沈黙も、胸の痛みも、禁忌の気配もあるのに、それでもこの時間だけは、ぼくにとって、たしかに平和だったから。

「……えへへ。こういうの、すきです」

好き。

最近はその言葉を、前みたいに慌てて飲み込まなくなっていた。

もちろん、恋情そのものを、あのひとの前で堂々と告げられるわけじゃない。まだ喉が熱くなるし、言い切るには怖さもある。

でも、“好き”という音を、自分の胸から追い出さずにいられるようにはなっていた。

海が好き。

風が好き。

この静かな時間が好き。

そして、その全部の真ん中に立っている、あのひとのことが、いちばん好き。

そこまで考えて、また少しだけ頬が熱くなる。

子どもっぽいな、と自分でも思う。

けれど、いまのぼくには、そういうまっすぐさしか持てなかった。

ふいに、黒い影が視界の端をよぎる。

あ、と目を向けると、少し離れた岩場のあたりに、例の獣がいた。

大きな狼のような姿。

名もなく、声もなく、ただこちらを見ている影。

近づいてくることもなければ、完全に去ることもない。リコルのそばにいるのに、どこか“そばにいないもの”みたいな、不思議な距離感をまとっている。

「……また、いる」

小さく零す。

獣は動かない。

金のない暗い眼差しが、まっすぐこちらを向いていた。

最初のころより、あれが怖くはなくなっていた。

でも、安心もできない。

あの獣がいる時だけ、世界の静けさが、ほんの少し違うのだ。

平和のふりをしている水面の下で、なにか大きなものが、じっと身じろぎしているような感覚がある。

それでも、ぼくは視線を戻した。

いま大事なのは、あの影じゃない。

目の前に立つひとだ。

返してくれない神さま。

でも、ずっと見ていたいひと。

「……かみさま」

呼ぶ。

今度は、少しだけ近づきながら。

足元の石がかすかに鳴る。

羽根の先が風をはらむ。

一歩。

もう一歩。

ほんとうなら、ここで止まる距離だった。

止まるはずだった。

でもその日は、なぜだか、もう半歩だけ踏み込みたくなった。

理由はわからない。

ただ、静かな日だったからかもしれない。

海が優しかったから。

風がぬるかったから。

あのひとの背中が、いつもより少しだけ遠く見えたから。

「……ぼく、ちゃんと、ここにいますよ」

胸の奥の蒼い火が、じわ、と鳴る。

言い慣れた言葉のはずなのに、今日は妙に重い。

まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。

ここにいる。

いなくならない。

たとえ見てもらえなくても。

言葉を落とした、その時。

遠くの海で、波の音がひとつ、変わった。

ざ、ではなく。

ごう、でもなく。

もっと低い、もっと腹の底へ響くような、水の呻き。

はっとしてそちらを見そうになった瞬間、先に、リコルの羽根が微かにひらいた。

空気が変わる。

ほんの一瞬前まで、やさしかったはずの風が、急に冷たくなる。

海の色が、薄青から、底の黒を透かす色へ変わる。

崖の下の波打ち際で、黒い獣がゆっくり立ち上がったのが見えた。

なにか来る。

そう思った。

理由じゃない。

もっと原始的な、羽根の根元に走る予感。

この平和は、たぶん、ずっと続かない。

今日じゃないのかもしれない。

明日かもしれない。

もっと先かもしれない。

でも、たしかに今、なにかがこちらを見返した。

胸が、どくん、と大きく鳴る。

それでもぼくは、逃げなかった。

逃げたくなかった。

だって、あのひとはここにいる。

この静かな崖の先で、海の異変ごと見下ろしながら、それでも微動だにせず立っている。

なら、ぼくも。

そう思って、視線を戻した、その瞬間だった。

リコルが、振り向いた。

ちゃんと。

はっきり。

今までみたいな掠め方じゃなく、視界の端をなぞるだけでもなく。

まっすぐに、ぼくを見た。

息が、止まる。

紫の眼だった。

深くて、冷たくて、夜を何層も沈めたみたいな眼。

その瞳の中心に、いま、ぼくがいる。

一秒。

たったそれだけ。

ほんとうに短い、瞬きの裏へ滑り落ちてしまいそうな時間。

でも、その一秒は、ぼくの中で永遠みたいに引き伸ばされた。

見えている。

見られている。

ぼくが。

ちゃんと。

はっきり。

喉が熱い。

胸が苦しい。

うれしいのか、こわいのか、もうわからない。

ただ、体の奥にあるもの全部が、その視線ひとつで強く掴まれて、逃げ場をなくしていた。

その目は、いつもの静けさと同じなのに、今日はなにかが違った。

深淵の底に沈んでいたものが、一瞬だけ、水面近くまで浮かび上がってきたみたいな。

喪失。

混沌。

黒い母胎核の脈動。

まだ名づけきれない、遠い神話の残り火。

その全部のあわいから、確かにぼくを認識する光が、ひとすじだけ差した。

ぼくは、声も出せなかった。

呼びたかった。

かみさま、と。

好きです、と。

どうしたの、と。

なんでもよかった。

なにかひとつでも言えたら、きっと泣いてしまったと思う。

でも、その一秒はあまりにも鋭くて、甘くて、決定的すぎて、ぼくはただ見返すことしかできなかった。

それから、視線は離れる。

すう、と。

まるで何事もなかったみたいに。

けれど、何事もなかったはずがない。

だって今、確かに起きてしまった。

ぼくが、見つかった。

その瞬間、遠くの海が、低く吠えた。

ごう、と。

さっきまでの静かな波音とはまるで違う、深い底から巻き上がるような音。

世界のどこか、見えない継ぎ目に、ひびが入る気配。

崖の下で、黒い獣がこちらを見上げたまま、一歩だけ前へ出る。

平和が、終わる。

まだ完全には壊れていない。

でも、終わりの予兆だけが、はっきりと姿を見せた。

風が強くなる。

海の匂いが変わる。

空の白さに、どこか不穏な灰が混ざる。

なのにぼくは、その全部より先に、たった今の一秒へ囚われていた。

見てくれた。

あのひとが、ぼくを。

ちゃんと。

はっきり。

その事実が、うれしくて、こわくて、胸の奥で刃みたいに光っていた。

もう、前の平和には戻れない。

静かな日々。

返らないまなざし。

笑って、そばにいて、ここにいますと告げ続けるだけの、あの幼い時間。

それらはきっと、いまの一秒を境に、少しずつ形を変えてしまう。

でも、それでもよかった。

だって、見つけてもらえたから。

世界の底でまた、水が鳴る。

獣は沈黙したまま、予兆みたいに黒い。

リコルは海を見る。

ぼくは、その横顔を見る。

そして胸の奥で、蒼い祈りが、もう以前とは違う熱を持って燃えはじめていた。

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作者について

原初のモブ

原初のモブ

観測世界シリーズとか書いてます。 神話が好き。 ちょっとお試しで1話目の冒頭だけ公開しました。エログロナンセンス世界観なので全年齢向けに整えるの大変...🫠

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