第五章 返らないまなざし、その一秒
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第五章 返らないまなざし、その一秒
それからの日々は、静かだった。
あまりにも静かで、ときどき、ぼくはそれが永遠なんじゃないかと思った。
永遠なんて、まだちゃんと知らないくせに。
でも、同じような朝が来て、同じような白い光が海へ落ちて、同じように黒髪が風に揺れて、同じようにぼくがその背を追う。その繰り返しがあまりに自然で、あまりに美しくて、壊れることなんて考えたくなかった。
ぼくはもう、リコルのそばにいることに慣れていた。
慣れる、なんて言い方をすると、少し違うかもしれない。
だって、見つめるたびに胸はまだ熱くなるし、紫の目がほんの少しでもこちらを掠めるたび、心臓は毎回ちゃんと跳ねる。
それでも、その熱を抱いたまま歩くことには、少しずつ慣れてきていた。
朝、ぼくは先に目を覚ます。
白い羽根をひらいて、少しだけ伸びをして、それから一番に、あのひとの姿を探す。
近くにいるだけで安心した。
きちんとそこにいる。
消えていない。
どこか手の届かない深淵の底へ沈んでしまったわけじゃない。
それだけで、胸の奥の蒼い火は、今日もちゃんと灯ってくれる。
「……おはようございます、かみさま」
返事はない。
でも、知っている。
もう、それで傷つく段階は過ぎていた。
返してくれないことが当たり前だからじゃない。
返してくれない沈黙の中にも、ほんの少しずつ、揺れや癖があることを知ってしまったからだ。
しっぽがわずかに動く日。
羽根が一度だけ深く鳴る日。
ぼくの足音に気づいて、ほんのわずか、視線の角度が変わる日。
どれも取るに足らないくらい小さい。
でも、ぼくにとっては充分すぎるほど大きかった。
その日も、海は静かだった。
まだ若い海は、ときどき急に機嫌を変えるくせに、今日はめずらしくおとなしい。波は低く、空は淡く、世界の輪郭はどこまでもやさしかった。あのひとは崖の先に立ち、ぼくは少し後ろで、その背を見上げる。
この距離が、最近すこしだけ好きだった。
近すぎず、遠すぎず。
手を伸ばせば届きそうで、でも、まだ届かない。
その“一歩ぶん足りない感じ”が、ぼくの祈りに似ていた。
「……きょう、へいわですね」
言うと、風が吹く。
黒髪が揺れて、頬に細い影が落ちた。
へいわ。
その言葉を口にすると、なんだかくすぐったかった。
ぼくと、神さまと、海と、空。
ただそれだけの静かな時間に、そんな名前をつけてしまっていいのか、まだ少し自信がなかった。
でも、そう呼びたかった。
返らない沈黙も、胸の痛みも、禁忌の気配もあるのに、それでもこの時間だけは、ぼくにとって、たしかに平和だったから。
「……えへへ。こういうの、すきです」
好き。
最近はその言葉を、前みたいに慌てて飲み込まなくなっていた。
もちろん、恋情そのものを、あのひとの前で堂々と告げられるわけじゃない。まだ喉が熱くなるし、言い切るには怖さもある。
でも、“好き”という音を、自分の胸から追い出さずにいられるようにはなっていた。
海が好き。
風が好き。
この静かな時間が好き。
そして、その全部の真ん中に立っている、あのひとのことが、いちばん好き。
そこまで考えて、また少しだけ頬が熱くなる。
子どもっぽいな、と自分でも思う。
けれど、いまのぼくには、そういうまっすぐさしか持てなかった。
ふいに、黒い影が視界の端をよぎる。
あ、と目を向けると、少し離れた岩場のあたりに、例の獣がいた。
大きな狼のような姿。
名もなく、声もなく、ただこちらを見ている影。
近づいてくることもなければ、完全に去ることもない。リコルのそばにいるのに、どこか“そばにいないもの”みたいな、不思議な距離感をまとっている。
「……また、いる」
小さく零す。
獣は動かない。
金のない暗い眼差しが、まっすぐこちらを向いていた。
最初のころより、あれが怖くはなくなっていた。
でも、安心もできない。
あの獣がいる時だけ、世界の静けさが、ほんの少し違うのだ。
平和のふりをしている水面の下で、なにか大きなものが、じっと身じろぎしているような感覚がある。
それでも、ぼくは視線を戻した。
いま大事なのは、あの影じゃない。
目の前に立つひとだ。
返してくれない神さま。
でも、ずっと見ていたいひと。
「……かみさま」
呼ぶ。
今度は、少しだけ近づきながら。
足元の石がかすかに鳴る。
羽根の先が風をはらむ。
一歩。
もう一歩。
ほんとうなら、ここで止まる距離だった。
止まるはずだった。
でもその日は、なぜだか、もう半歩だけ踏み込みたくなった。
理由はわからない。
ただ、静かな日だったからかもしれない。
海が優しかったから。
風がぬるかったから。
あのひとの背中が、いつもより少しだけ遠く見えたから。
「……ぼく、ちゃんと、ここにいますよ」
胸の奥の蒼い火が、じわ、と鳴る。
言い慣れた言葉のはずなのに、今日は妙に重い。
まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。
ここにいる。
いなくならない。
たとえ見てもらえなくても。
言葉を落とした、その時。
遠くの海で、波の音がひとつ、変わった。
ざ、ではなく。
ごう、でもなく。
もっと低い、もっと腹の底へ響くような、水の呻き。
はっとしてそちらを見そうになった瞬間、先に、リコルの羽根が微かにひらいた。
空気が変わる。
ほんの一瞬前まで、やさしかったはずの風が、急に冷たくなる。
海の色が、薄青から、底の黒を透かす色へ変わる。
崖の下の波打ち際で、黒い獣がゆっくり立ち上がったのが見えた。
なにか来る。
そう思った。
理由じゃない。
もっと原始的な、羽根の根元に走る予感。
この平和は、たぶん、ずっと続かない。
今日じゃないのかもしれない。
明日かもしれない。
もっと先かもしれない。
でも、たしかに今、なにかがこちらを見返した。
胸が、どくん、と大きく鳴る。
それでもぼくは、逃げなかった。
逃げたくなかった。
だって、あのひとはここにいる。
この静かな崖の先で、海の異変ごと見下ろしながら、それでも微動だにせず立っている。
なら、ぼくも。
そう思って、視線を戻した、その瞬間だった。
リコルが、振り向いた。
ちゃんと。
はっきり。
今までみたいな掠め方じゃなく、視界の端をなぞるだけでもなく。
まっすぐに、ぼくを見た。
息が、止まる。
紫の眼だった。
深くて、冷たくて、夜を何層も沈めたみたいな眼。
その瞳の中心に、いま、ぼくがいる。
一秒。
たったそれだけ。
ほんとうに短い、瞬きの裏へ滑り落ちてしまいそうな時間。
でも、その一秒は、ぼくの中で永遠みたいに引き伸ばされた。
見えている。
見られている。
ぼくが。
ちゃんと。
はっきり。
喉が熱い。
胸が苦しい。
うれしいのか、こわいのか、もうわからない。
ただ、体の奥にあるもの全部が、その視線ひとつで強く掴まれて、逃げ場をなくしていた。
その目は、いつもの静けさと同じなのに、今日はなにかが違った。
深淵の底に沈んでいたものが、一瞬だけ、水面近くまで浮かび上がってきたみたいな。
喪失。
混沌。
黒い母胎核の脈動。
まだ名づけきれない、遠い神話の残り火。
その全部のあわいから、確かにぼくを認識する光が、ひとすじだけ差した。
ぼくは、声も出せなかった。
呼びたかった。
かみさま、と。
好きです、と。
どうしたの、と。
なんでもよかった。
なにかひとつでも言えたら、きっと泣いてしまったと思う。
でも、その一秒はあまりにも鋭くて、甘くて、決定的すぎて、ぼくはただ見返すことしかできなかった。
それから、視線は離れる。
すう、と。
まるで何事もなかったみたいに。
けれど、何事もなかったはずがない。
だって今、確かに起きてしまった。
ぼくが、見つかった。
その瞬間、遠くの海が、低く吠えた。
ごう、と。
さっきまでの静かな波音とはまるで違う、深い底から巻き上がるような音。
世界のどこか、見えない継ぎ目に、ひびが入る気配。
崖の下で、黒い獣がこちらを見上げたまま、一歩だけ前へ出る。
平和が、終わる。
まだ完全には壊れていない。
でも、終わりの予兆だけが、はっきりと姿を見せた。
風が強くなる。
海の匂いが変わる。
空の白さに、どこか不穏な灰が混ざる。
なのにぼくは、その全部より先に、たった今の一秒へ囚われていた。
見てくれた。
あのひとが、ぼくを。
ちゃんと。
はっきり。
その事実が、うれしくて、こわくて、胸の奥で刃みたいに光っていた。
もう、前の平和には戻れない。
静かな日々。
返らないまなざし。
笑って、そばにいて、ここにいますと告げ続けるだけの、あの幼い時間。
それらはきっと、いまの一秒を境に、少しずつ形を変えてしまう。
でも、それでもよかった。
だって、見つけてもらえたから。
世界の底でまた、水が鳴る。
獣は沈黙したまま、予兆みたいに黒い。
リコルは海を見る。
ぼくは、その横顔を見る。
そして胸の奥で、蒼い祈りが、もう以前とは違う熱を持って燃えはじめていた。