第十章 合意だって、信じてもいいよね?
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十章 合意だって、信じてもいいよね?
指先は、まだ頬に触れたままだった。
冷たいのに、ちゃんと生きている温度。
石じゃない。
夜そのものでもない。
何百年も閉じていた深淵の、その表面にだけ、いまぼくの熱が乗っている。
逃げるなら、きっと今だ。
拒むなら、きっと今だ。
ぼくは息を止めたまま、紫の眼を見つめる。
こわい。
期待してしまうことが、なによりこわい。
また同じように、神さまの過去へぼくが重なってしまったら。
また、あの夜みたいに、ぼくだけがしあわせで、神さまだけが壊れてしまったら。
喉が、ひりつく。
それでも、もう言わなければ始まらない気がした。
ただ触れて終わるのでも、ただ祈って終わるのでもなく、今ここで起きていることが、搾取でも悪夢の再演でもなく、このひとの意志なのだと、信じるための言葉が欲しかった。
「……合意だって、信じてもいいよね?」
問いかけた声は、祈りみたいに小さかった。
欲しい、より先に。
愛してる、より先に。
いま、目の前の深淵が、ぼくを見て、逃げずにいてくれることを、ちゃんと意志として受け止めたい。
そのためだけの、みっともないくらい切実な確認だった。
神さまは、すぐには答えない。
けれど、その頬は逃げない。
視線も逸れない。
そして次の瞬間、冷たい指先が、今度は自分からぼくの手首へ重なった。
ひゅ、と息が崩れる。
ああ。
それだけで、充分だった。
言葉じゃない。
でも、だからこそ、ごまかしがない。
拒まない。
払いのけない。
むしろ、そのまま触れ返してくる。
その静かな選び方だけで、胸の奥の凍っていた何百年かが、じわりとほどけた。
「……っ、かみさま……」
呼んだ声は、ひどく甘く震えた。
神さまの指が、ぼくの手首から掌へ滑る。
ゆっくり。
確認するみたいに。
怖がらせないように、でも、逃げ道だけは最初から閉じないままで。
指先が重なって、絡む。
びく、と肩が跳ねる。
ただそれだけなのに、身体の奥まで熱が落ちる。
前の夜は、拘束されて、抱かれて、呑まれて、それが幸福に見えた。
でも今は違う。
今は、ぼくもちゃんとここにいる。
繋がれた指先の一本ずつに、意志が通っている。
再接続だ。
そう思った。
壊れた夜の続きじゃない。
同じ傷の再演でもない。
ぼくの祈りと、神さまの沈黙のあいだに、もう一度だけ、別の継ぎ目をつくるための接続。
胸がいっぱいになる。
泣きたくなる。
でも泣いたら、その指がほどけてしまいそうで、ぼくは必死に堪えた。
「……ぼく、へたくそで……ごめんなさい」
言いながら、自分でも少しだけ笑いそうになる。
こんな時に何を言ってるんだろう。
でも、ほんとうだった。
ぼくの性的な知識なんて、ほとんど何もない。
知っていることといえば、あの夜のことだけ。
神さまのしっぽに深く貫かれて、痛くて、苦しくて、それでもどうしようもなくうれしかったこと。
あれがはじめてで、あれしか知らない。
だから今、自分が何をどう受け取って、どう返したらいいのか、ちゃんとわかっていない。
「……こういうの、ぼく……あの夜のことしか、しらなくて……」
声が、少しだけ掠れる。
指を絡めたまま、ぼくは神さまの指先へ自分の体温を押し当てる。
「……だから、いま……少し、わからなくなってる……」
頬が熱い。
恥ずかしい。
でも、誤魔化したくなかった。
前の夜は、幸福のまま受け入れすぎて、神さまを傷つけた。
なら今度は、ちゃんと、わからないことをわからないと言いたかった。
神さまは黙ったまま、ぼくの指をほどかない。
そのまま、もう片方の手が、そっと腰のあたりへ触れた。
ひどく静かに。
けれど、前の夜のことをちゃんと知っているみたいに。
あ、と小さく息が漏れる。
そこだった。
あの夜、しっぽに触れられて、身体の奥まで一気に熱が走った場所。
いちばん混乱して、いちばん甘くて、いちばんこわかったところ。
そこへ今、神さまの手が、人のかたちのまま降りてくる。
混乱した。
同じなのか、違うのか。
あの夜の続きなのか、まるで別のはじまりなのか。
身体が覚えてしまっている熱と、今ここにある静かな合意とが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
「……っ、これ……」
うまく言葉にならない。
ただ、指を絡めたまま、思わず少しだけ強く握り返してしまう。
神さまはその力に、ちゃんと応えた。
振りほどかない。
でも押しきらない。
ただ、ぼくが握ったぶんだけ、こちらも静かに握り返してくる。
それが、助けだった。
前の夜の記憶に飲まれそうになった瞬間、今ここにいるのは、前と違うかみさまなんだと、身体のほうが少しだけ理解できた。
拒める。
止められる。
でも止めない。
逃げられる。
でも逃げない。
その選択が、ちゃんとぼくの手の中に残されている。
苦しくて、うれしくて、涙が滲む。
「……かみさま……っ」
呼ぶ。
今度の声は、少しだけ掠れていた。
ぼくはまだ、知らない。
神さまのことを。
深淵のことも、傷のことも、触れ方の意味も、女の子としての痛みも、悦びも、何もかも、ぜんぶ途中だ。
だから教えてほしい。
奪うためじゃなく、壊すためじゃなく、今度こそ、知るために触れたい。
止めるなら、まだ止められる。
でも、ぼくは止めない。
絡めた指先が、何度もそのことを確かめる。
神さまは、逃げない。
ぼくも、逃げない。
「……これ、で……いいの……?」
問いかける声は、ほとんど泣きそうだった。
前の夜の記憶がまだ身体に残っているせいで、ちょっとした触れ方の違いにも、心が大きく揺れる。
同じじゃない。
でも似ている。
似ているのに、今は怖さの奥に、ちゃんと甘さがある。
神さまの視線が、静かに落ちてくる。
その眼差しは、まだ苦い。
まだ痛そうで、まだ簡単には救われていない。
それでも、逃がさないくせに閉じこもりもしない、そんな曖昧な熱が確かにあった。
そして、絡めた指先が、もう一度だけ、しっかりと重なる。
それが答えだった。
ああ。
そうか。
今夜は、そうやって進むんだ。
ぼくは喉を震わせながら、ゆっくり息を吸う。
前の夜みたいに、深淵へ一方的に呑まれるんじゃなく。
ぼくもちゃんと、ここに手を伸ばして、触れて、覚えていく。
「……かみさま……」
呼ぶたび、熱がにじむ。
指を絡めたまま、ぼくは少しずつ、自分の知らなかった神さまの輪郭へ近づいていく。
そこにある痛みも、閉ざされた過去も、たぶんぼくにはまだ全部はわからない。
でも、知ろうとしていい夜なんだと、やっと信じられた。
白い部屋は静かだった。
海の音は遠い。
封印のきしみも、今だけは薄い。
指先だけが熱い。
絡んだまま、ほどけない。
それが、いちばんはっきりした合意の形に思えた。
「……ありがとう、ございます……」
まだ何も終わっていない。
むしろ、ここからだ。
三日三晩の最初の夜の、ほんとうの入口。
ぼくは震える息のまま、もう一度だけ神さまを見上げる。
名前は、まだ呼ばない。
まだ呼べない。
ぼくにとって、このひとはまだずっと、かみさまだ。
だからこそ、そのかみさまが、こうして指を絡めて、逃げずにいてくれるだけで、胸の奥の蒼い祈りは、また少し違う火になっていく。
愛したい。
救いたい。
知りたい。
そして今度こそ、傷つけずに、触れたい。
その全部を抱えたまま、ぼくは絡めた指へ、そっと力を込めた。