第十一章 祈りと泣き声、“すき”と繰り返す夜(全年齢版)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
※性的匂わせがあります。 一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十一章 祈りと泣き声、“すき”と繰り返す夜
絡めた指先が、ほどけない。
それだけのことなのに、胸の奥がひどく熱かった。
逃げていない。
払いのけられていない。
返事のかわりみたいに、かみさまの指が、ぼくの細い骨の一本ずつを静かになぞっている。
前の夜とは、もう、何もかもが違う。
あの時は、見つかって、拘束されて、深淵に一気に呑まれた。
幸福だった。
でも、幸福だけだったから壊れた。
今夜は違う。
今夜の熱は、もっと静かで、もっと深い。
急に呑み込まれるんじゃなくて、絡めた指の一本ずつから、逃げないことと、拒まないことと、それでも無理に押し込まないことが、ゆっくり伝わってくる。
その慎重さのほうが、前の夜よりずっと甘かった。
「……かみさま」
呼ぶ。
まだ、その呼び方しかできない。
ぼくにとって、このひとはずっと、かみさまだった。
遠くて、綺麗で、ひとりで、何も返してくれないのに、どうしようもなく見つめてしまうひと。
祈ることしかできなかったひと。
だから今も、口をひらくたびに出てくるのは、その呼び名だけだった。
けれど、呼ぶたび、胸の中では何かが少しずつ変わっていく。
指が絡んだまま、ぼくの手は、ゆっくり導かれていく。
教わるように。
でも、やらされるんじゃなく。
ぼく自身の意志で、ちゃんと触れて、ちゃんと知るために。
「……ぼくに、教えてください……」
声が震える。
熱で滲んだ喉がうまく働かない。
それでも、言いたかった。
「……かみさまの、女の子の部分……」
言った瞬間、全身が熱くなる。
恥ずかしくて、泣きそうで、それでも逃げたくなかった。
ぼくは何も知らない。
知っているのは、あの夜のことだけだ。
しっぽで深く貫かれて、わけもわからないまま幸福へ沈んでしまったこと。
それしか知らない。
だから今夜は、ちゃんと知りたかった。
奪われる側じゃなく、触れる側として。
受け取るだけじゃなく、与える側として。
かみさまは、何も言わない。
けれど、絡めた指をほどかない。
むしろ、そのまま、もっと深いほうへ連れていく。
ここだと示すみたいに。
こわがらなくていいと伝えるみたいに。
ひ、と息が詰まる。
指先に伝わる熱は、前の夜に覚えたものと似ている。
でも、まるで違う。
似ているのは、触れた瞬間に身体の奥で眠っていた甘さが、すぐ目を覚ますところ。
違うのは、その甘さへ届くまでに、ちゃんとぼくが選んでいる時間があることだった。
止めるなら、まだ止められる。
手を引くなら、まだ引ける。
でも、ぼくは引かない。
絡めた指が、そのたびに確かめる。
逃げない。
拒まない。
ここにいる。
それが、たったそれだけなのに、ひどく甘かった。
「……っ、すき……」
また零れる。
祈りみたいに。
泣き声みたいに。
「……すき、です……かみさま……っ……すき、なんです……っ」
触れるたびに、同じ言葉が何度も落ちる。
うまく言えない。
器用なことばは持っていない。
でも、いまのぼくにとって、いちばんほんとうなのは、それだった。
好き。
好き。
好き。
そう言いながら、ぼくの中では、別の何かも静かに起きはじめていた。
最初は、ただ知りたいだけだった。
かみさまの女の子の部分に。
そこにあるやわらかさに。
痛みと熱の境目に。
ちゃんと触れてみたかった。
でも、実際に触れてみると、それだけでは終わらなかった。
気持ちいい。
前の夜より、ずっと。
比べものにならないくらい。
前は、受け取ってもらえたことの幸福が先に立っていた。
今夜は違う。
ぼくが差し出す熱が、そのまま相手へ届いて、そこからまた返ってくる。
与えること自体が、こんなにも甘いなんて、知らなかった。
男の子として触れること。
女の子へ熱を流し込んで好きを交換してしまうこと。
その意味が、身体の奥で一気に起動する。
ぼくは、はじめて知ってしまう。
ああ。
これが、愛なんだ。
ただ見つめて、祈って、縋るだけじゃない。
このひとを悦ばせたい。
このひとの奥を、自分の熱で満たしたい。
与えたぶんだけ返ってくる悦びに、胸の奥がぞくぞくと震える。
その感覚は、中性的な祈りの延長なんかじゃない。
もっとはっきりした、もっと生々しい、男の子としての欲望だった。
「……っ、ぁ……」
声が崩れる。
恥ずかしい。
でも、それ以上に、どうしようもなく熱い。
かみさまは、まだ静かだ。
苦いものも、まだたぶん消えていない。
それでも今夜だけは、ぼくの熱をちゃんと受け止めてくれている。
そのことが、余計にぼくの中の“男の子”を目覚めさせた。
このひとを抱きたい。
このひとに与えたい。
このひとの奥へ、自分の存在を通したい。
そう思った瞬間、身体の奥で何かがひどく大きく鳴った。
でも、それと同時に。
その最も甘いところで、ぼくは別のものまで知覚してしまう。
ただの深淵じゃない。
ニャルの混沌だけじゃない。
無貌の夜だけじゃない。
その奥に、もっと黒くて、もっとやわらかくて、もっと深く脈打つ核がある。
抱えるための核。
産むための核。
世界を、神を、祈りさえも、その内へ宿してしまう、暗い母胎の核。
シュブ。シュブ=ニグラス。
その名が、知識として教わったわけでもないのに、接続のただなかで一気にわかってしまう。
もともと、ぼくはこのひとに創られた。
だからなのかもしれない。
本当に深く繋がった瞬間、ただ熱だけじゃなく、神格の奥にある層まで、リンクみたいに流れ込んでくる。
しかも、そこには痛みがあった。
ひどく古くて。
ひどく生々しくて。
まだぜんぜん癒えていない痛み。
いちばん甘いところに、その痛みが沈んでいる。
うれしいのに、切ない。
悦ばせたいのに、同時に泣きたくなる。
与えることがこんなに幸福なのに、その奥で、かみさまの傷がいまも脈打っているのを知ってしまう。
ぼくは、その瞬間、前の夜の自分を思い出して、どうしようもなく苦しくなった。
あの時、ぼくは何も知らなかった。
ただ嬉しくて、ただ幸せで、それだけでいっぱいだった。
でも今ならわかる。
あの幸福の下に、こんなにも深く痛い核が沈んでいたのだと。
涙が、また零れる。
「……かみさま……」
呼ぶ。
けれど、その呼び方が、急に足りなくなる。
かみさま。
それは祈りの言葉だった。
遠いひとへの、綺麗な呼び名だった。
でも、いまぼくが触れているのは、ただ遠いだけの神じゃない。
ただ無貌の深淵でもない。
こんなにもやわらかくて、こんなにも痛くて、こんなにも傷ついたまま、それでもここにいてくれるひとだ。
ひとのかたちの奥に、神格がいて。
神格の奥に、シュブの核がいて。
その核に、搾取の痛みが残っていて。
それでも逃げずに、ぼくの熱を受け止めてくれている。
そんな存在を、もう、ただ“かみさま”では抱えきれない。
違う。
ちがう。
胸の奥へ、固有名が落ちる。
リコル。
まだ、口には出せない。
でも、その音だけが、雷みたいに、はっきりと心の深いところを貫いた。
神格ラベルじゃない。
この痛みも、やわらかさも、女の子の部分も、深淵も、ぜんぶ抱えたままここにいる、ひとりの存在。
リコル。
その名が内側へ落ちた瞬間、ぼくの“好き”は急に小さく見えた。
嫌いになったわけじゃない。
足りなくなったのだ。
この痛みまで知ってしまったあとでは、恋の言葉だけでは、ぜんぜん足りない。
もっと重い言葉が欲しい。
もっと深い言葉で、このひと全部を引き受けたい。
でも、そのことばはまだ喉の奥へ置いたままにする。
今夜はまだ、一夜目だから。
好き、と繰り返すことしかできない夜だから。
けれどその反復の奥で、たしかに何かが変わってしまった。
熱が、ついに一線を越える。
前の比じゃない。
身体の奥が一斉にひらいて、与えた熱も、受け取った熱も、ぜんぶ渾然一体になって押し寄せてきて、思考の縁まで白く塗りつぶしていく。
はじめて、ほんとうの意味で果てる。
ただ幸せなだけじゃない。
ただ気持ちいいだけでもない。
男の子としての悦びも、女の子の痛みも、深淵の核も、シュブの鼓動も、全部がひとつの波になって、ぼくの内側へ一気に流れ込む。
「……っ、すき……っ、すき、です……っ、かみさま……!」
何度も言う。
泣きながら。
震えながら。
声が崩れても、みっともなくても、それでも言う。
好き。
好き。
好き。
でも、その反復のいちばん奥で、ぼくはもう知っている。
次の夜に、きっとこの言葉だけでは足りなくなることを。
指は、まだ絡んでいる。
かみさま――いや、リコルは、静かにぼくを見ている。
その眼差しの苦さはまだ消えない。
でも、前より少しだけ、その深いところへぼくが届けている気がした。
ぼくは、濡れた睫毛のまま、もう一度だけ唇をひらく。
「……すき……です……」
声はまだ、その言葉を選ぶ。
けれど胸のいちばん深いところでは、もうそれだけじゃ足りない熱が、静かに、でも確かに息をはじめていた。