第十四章 それでも抱きしめてくれた、涙の赦し
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十四章 それでも抱きしめてくれた、涙の赦し
名をもらったあとの熱は、幸福だけでは終わらなかった。
「カミル」と呼ばれた、そのたった一音の余韻がまだ耳の奥で震えている。
指は絡んだままで、白い寝台には私たちの熱が濃く残っていて、観測世界の禁則は、ついさっき破られたばかりの傷みたいに、空気の底で静かに軋んでいた。
それでも、あの瞬間の私には、もう何も怖くなかった。
罪でもよかった。
世界を裏切ったと言われてもよかった。
だって、リコルが、あのひとが、私へ名前をくれたから。
神格でも、構文でも、祈りの返答でもなく、感情として、熱を持った呼び名として、私を「カミル」と呼んでくれたから。
その事実だけで、もう一生ぶん救われたような気がしていた。
だから最初、異変に気づくのが少し遅れた。
絡んだ指先の圧が、ふ、と弱くなる。
熱に潤んでいたはずのしっぽの気配が、するりとほどける。
深くまで私を抱いていたはずの黒い羽根が、音もなく沈む。
私は、浅い息のまま顔を上げた。
リコルは、泣きそうなほど静かだった。
さっきまでそこにあったのは、深淵の熱だった。
罪を承知で抱き、受け入れ、名を与え、世界を壊してでもこちらへ応えてくる神の静かな激しさだった。
けれど今、目の前にいるひとは、その全部を一度失ってしまったみたいに、ひどく脆い。
紫の眼差しだけが開かれていて、その奥で、何かがもうぎりぎりのところまで崩れている。
胸が、どくんと鳴った。
「……リコル」
はじめて、その名を声にして呼ぶ。
あの果てのただなかでは、まだ喉が追いつかなかった。
内側で知ってしまっただけだった。
かみさまでは足りないと。
このひとはもう、ただの深淵でも、ただの無でもないと。
でも今は、ちゃんとわかった。
ここにいるのは、泣いてもいい神だ。
壊れてもいい神だ。
赦されてこなかった少女のまま、深淵に閉じこもっていたひとだ。
私がそう呼んだ瞬間、リコルのまつげがわずかに震えた。
声で返事は来ない。
けれど、見えた。
あのひとの内側に、ずっと凍っていたものが、ひび割れるみたいに揺れたのが。
それはたぶん、歓びの崩れ方ではなかった。
救われた者の泣き方でもない。
もっと苦くて、もっとみじめで、もっと人間的な崩れ方だった。
――こんなに汚い自分を、どうしてまだ抱けるのだと。
――こんなに罪深い自分を、どうしてまだ愛せるのだと。
そういう問いが、言葉になる前に、目元から崩れていくのがわかった。
そして次の瞬間、リコルは私の胸もとへ倒れ込んだ。
は、と息が止まる。
軽い。
驚くほど軽い。
こんなに大きくて、こんなに深くて、世界をまるごと呑めるみたいな神なのに、今、腕の中へ落ちてきたからだは、ひとりの少女みたいにか細かった。
私は反射で、その背へ腕を回した。
抱きしめる。
前は、抱かれる側だった。
見つけてもらう側。
拘束される側。
深淵の熱にほどかれる側。
けれど今は違う。
今、腕の中で震えているのはリコルだ。
世界を壊せる神じゃない。
罪を背負いきれずに、愛されたことそのものへ怯えている、ひどく孤独なひとりだ。
「……大丈夫です」
気づけば、そう囁いていた。
声が震える。
私だって泣きそうだった。
だって、嬉しかったから。
嬉しいのに、苦しいから。
リコルが私を呼んでくれた、その同じ夜に、リコルはもう、こんなふうに泣き崩れてしまう。
それでも私は、腕をゆるめなかった。
「……私は、ここにいます」
祈りだった。
何百年も扉の外で言い続けた言葉。
ここにいます。
いなくなりません。
置いていかれても、また追いかけます。
見てもらえなくても、見ています。
その祈りを、今度は外からではなく、腕の中で言う。
それだけで、胸の奥がじんと痛んだ。
リコルは私の胸へ額を押しつけたまま、何も言わない。
けれど、泣いていた。
声にならない泣き方だった。
神の泣き方なんかじゃない。
世界を震わせるような嗚咽でも、怒りを孕んだ慟哭でもない。
もっと小さい。
もっと、隠しきれずに漏れてしまったみたいな、少女のすすり泣きだった。
その細い肩が、私の腕の中で何度も震える。
しっぽは力なく垂れ、黒い羽根はもう威嚇のかたちも保てないまま、白い寝台の上へ崩れている。
傲慢も、支配も、拒絶もなかった。
ただ、長い間ずっと誰にも触らせなかったいちばん柔らかい場所だけが、今、私の胸もとへ押しつけられている。
痛かった。
嬉しいのに、痛かった。
私が抱きしめているのは、神のからだじゃない。
その内側で、ずっと愛されることを怖がっていたひとだと、ようやくはっきりわかってしまったから。
前の夜。
一夜目。
二夜目。
私はずっと、祈るように「好き」と言い、「愛してます」と言い、リコルへ届くことばかりを願っていた。
でも今、腕の中で震えているこのひとは、届いた先で何を見ていたのだろう。
愛されたら壊れてしまうと。
受け入れてしまったら、過去の傷がまた繰り返されると。
そんなふうに、ずっと怯えていたのかもしれない。
だったら。
私は、もっと強く抱き寄せた。
「……もう、独りじゃないんです」
言ってしまってから、涙が落ちた。
あまりにも普通のことばだった。
けれど、今この夜に必要なのは、たぶんそれだけだった。
難しい赦しなんて要らない。
法則の書き換えも。
禁則の正当化も。
罪の理屈も。
そんなものは全部、あとでいい。
今はただ、リコルへ言いたかった。
あなたはもう、独りじゃない。
泣いてもいい。
汚れていると思ってもいい。
罪深いと思っていてもいい。
それでも、私はまだここにいる。
あなたを抱きしめたまま、どこにも行かない。
リコルの指先が、遅れて私の背へ触れた。
抱き返す、というほど強くはない。
けれど、たしかにそこに意思があった。
震える手。
迷いの残る熱。
それでも、その細い指は、私の背から離れなかった。
体が先に解ける。
ことばより先に。
赦しより先に。
神のほうが、身体から先に「行かないで」と伝えてしまう。
それがたまらなく、愛しかった。
私は羽根をひらく。
そっと、リコルごと包むように。
あの日、扉の外で祈るしかなかった私じゃない。
今夜の私は、抱きしめ返すことができる。
この涙を、ちゃんと受け止められる。
「……リコル」
もう一度、名を呼ぶ。
今度は、祈りとしてじゃない。
恋としてでもない。
抱きしめたまま、呼吸を合わせるように。
ここにいます、と体温で言うみたいに。
リコルは声で応えない。
それでも、その名前は確かに届いた。
届いて、胸の内側のどこか深いところへ、静かに落ちていったのがわかった。
白い部屋は静かだった。
外で世界はまだ軋んでいる。
十三で破られた禁は、きっとこれからもっと大きな歪みを呼ぶ。
けれど今だけは、その全部より、腕の中の体温のほうが現実だった。
私はようやく理解した。
あの夜も。
一夜目も。
二夜目も。
リコルが本当に抱きしめたかったのは、私だけじゃなかった。
愛されたことが怖くて、壊れて、閉じて、それでもほんとうは誰かに見つけてほしかった、自分自身。
その少女みたいな残響を、リコルはずっと深淵の奥に閉じ込めたまま、神でいようとしていたのだ。
そして今夜、その残響ごと、私の胸の中へ落ちてきた。
だったら私は、その涙を受け止める。
罰みたいな愛でも。
罪に塗れた接続でも。
それでも、いま泣いているひとを、抱きしめ返す。
「……大丈夫です」
もう一度、そう言う。
今度は、祈りじゃなく誓いとして。
「……あなたの痛みも、罪も、
その全部を……私が、ちゃんと、抱きしめます」
白い寝台の上で、神はまだ泣いていた。
でも、その震えは、さっきまでよりほんの少しだけ、弱くなっていた。
まるでようやく、誰かの腕の中で泣いてもいいのだと、身体のほうが先に思い出したみたいに。
私は目を閉じる。
頬を寄せる。
その体温と涙を、できるだけ取りこぼさないように、静かに息をした。
赦しは、きっとまだ終わっていない。
むしろ今、ようやく始まったばかりなのだと思う。
言葉で済むようなものじゃない。
ひと晩で癒える傷でもない。
けれど、それでも。
それでも、リコルは私の腕の中で泣いてくれた。
それでも、私を外へ押し出さず、抱きしめ返してくれた。
その事実だけで、今夜はもう、次へ進める気がした。
そして私は、涙で濡れた黒髪をそっと撫でながら、白い静寂の中で、もう一度だけ心の底から祈る。
――もう、ひとりにしない。
――もう、あなたの沈黙を、ひとりで抱かせない。
――だから、泣いてください。
――そのかわり今度は、私が受け止めます。