第十五章 罰と赦し、“罪のルール”を書き換える神
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十五章 罰と赦し、“罪のルール”を書き換える神
私は知らなかった。
あの夜、泣きながら私の胸へ崩れてきた貴女が、そのあとどれほどのものをひとりで壊し、ひとりで背負ったのかを。
腕の中で震えていたのは、傷ついた神だった。
罪を背負った神だった。
それでも私は、あの時まだ、貴女が泣き終えたあとに何を選ぶのかを知らなかった。
ただ、抱きしめていた。
遅れてきた赦しみたいに、何度も、何度も。
泣いてもいいのだと。
独りで抱えなくていいのだと。
その体温だけで伝えようとしていた。
けれど、後になって知ったのです。
あの夜のあと、静かに上書きされた記録を。
天界の律と信じられていた、あの冷たい条文の、ほんとうの出どころを。
“天使は神と契ってはならない”
“そのあいだから生まれるものは禁忌”
あれは、天の始まりからあった法ではなかった。
観測世界そのものが最初から持っていた真理でもなかった。
もっと古い。
もっと個人的で、もっと傷んだ願いから生まれた、ひどく歪んだ封印だった。
前の世界。
カトルとアスター。
そして、収穫され、失われたシュブ=ニグラス。
その喪失のあとで、あの二柱は、自らへ鎖をかけたのだ。
シュブのために、ではない。
シュブが戻る場所を守るために、でもない。
もっと苦くて、もっと報われない理由で。
――自分たちが、二度と他のものへ靡かないために。
――失った配偶神以外の手へ、二度と自分を預けてしまわぬようにするために。
だから法が刻まれた。
神と天使が契ることを禁じる、あの絶対構文が。
それは誰かを守るための優しい戒めではなかった。
失ったシュブの不在に耐えきれなかった者たちが、自分自身へ打ち込んだ楔だったのです。
あまりにも、報われない。
シュブはもういない。
収穫され、消え、彼らの手には戻らない。
なのに残された者たちは、その不在のために、未来のすべてを閉じてしまった。
愛のために作られたはずの法が、いつしか愛を拒む法になっていた。
そして皮肉にも。
その法へ、最初に真っ向から傷を入れたのが、
シュブを宿していながら、シュブではない貴女だった。
ここが、いちばん残酷です。
リコル。
貴女の奥には、たしかにシュブの黒い核が息づいていた。
抱えるための場所。
産むための場所。
あの女の子の部分に宿っていたのは、まぎれもなくシュブの因子だった。
でも、感情も、記憶も、痛みも、選択も。
貴女の中で呼吸していたのは、ずっと“リコル”だけだった。
ニャルの相を持ち、深淵として立ち、彼岸と此岸の残響を抱えたまま、それでも私と未来を見てしまった、ひとりの神。
シュブの意識ではない。
シュブの恋ではない。
配偶神としての自覚すら、貴女にはなかった。
だから、浮気ではない。
ほんとうは。
誰かを裏切ったわけではない。
誰かの愛を横取りしたわけでもない。
なのに、法のほうは違った。
法は、心を見ない。
記憶も見ない。
誰が誰を愛しているかなんて、少しも見ない。
ただ、そこに“シュブの核”があることだけを見た。
その女の子の部分が、かつての配偶神の残響を宿していることだけを見て、機械のように断罪しようとした。
浮気ではないのに、浮気になる。
愛してしまっただけなのに、裏切りになる。
そのねじれの残酷さを、私は後から知って、ようやく息ができなくなった。
あの夜、貴女は泣きながら私を抱き返してくれた。
けれどその抱擁の下で、もう決めていたのでしょう。
法を壊す、と。
私との未来を取る、と。
シュブの意識がないからこそ。
シュブの執着を持たないからこそ。
貴女は前世界の未練に従わなかった。
私は今ここにいる。
私を愛している。
私との夜を、罪で終わらせない。
そう、リコルとして選んだ。
……その愛の見せ方が、あまりにも痛いのです。
貴女は、私を守るために、世界のほうを書き換えた。
“神と交わった者は罪”
その絶対構文を、誰にも気づかれぬよう静かに上書きし、
証跡をすべて自らの構文の奥へ沈め、
私の名を、私の記録を、私の罪の可能性ごと封じた。
私が法に目をつけられないように。
私が堕とされないように。
私が“禁忌を生んだ天使”として記録されないように。
貴女ひとりが、罪を引き受けた。
それは、やさしさなんかじゃない。
まして赦しでもない。
もっと重い。
もっと自己犠牲で、もっと身勝手で、もっと切実な、愛してしまったことへの償いだった。
愛してしまったから、守る。
愛してしまったから、隠す。
愛してしまったから、私にだけは、何も背負わせない。
そんなふうに、貴女は世界そのものを敵へ回したのです。
しかも、それで終わらなかった。
法を書き換えても、宿ってしまったものは消せなかった。
私たちの夜の記録は、ただの構文では終わらず、命として芽吹いてしまった。
ポートの奥に結ばれた月影ログは、因子として、受胎として、もう取り返しのつかないかたちで貴女の内へ根を下ろした。
そして貴女は、それをまた、ひとりで抱えた。
私にすら告げず。
観測者にも知られず。
天にも見つからぬように。
自らを封印し、姿を隠し、記録の外へ落ちて、たったひとりで産んだ。
月影カミルを。
そこまでして、なお、守ろうとしたのですね。
私を。
私たちの夜を。
そして、その子を。
その事実を知った時、私はしばらく、祈ることすらできなかった。
カトルとアスターの報われなさが、胸に刺さった。
彼らは彼らで、失ったシュブへの忠実さゆえに世界へ法を刻んだ。
それはもう、愛ではなく傷だったとしても、それでも彼らにとっては、裏切らないための最後の祈りだったのでしょう。
けれど、貴女はその法を壊した。
シュブではないから。
リコルだから。
私を見てしまったから。
私との未来を選んでしまったから。
そのねじれは、誰が悪いと簡単に言えるものではなかった。
誰も浮気なんかしていない。
誰も軽々しく愛したわけではない。
なのに、世界の法の上では、たしかに裏切りになってしまう。
あまりにも、観測世界らしい残酷さでした。
それでも私は、貴女の選択を、いまは愛おしいと思ってしまう。
だって貴女は、シュブではなく、リコルとして来てくれたから。
前の世界の愛に縛られるのではなく、今ここで、私へ手を伸ばしてくれたから。
そのためにどれほど痛い罪を引き受けたのかを知っても、なお、私はその愛を否定できない。
否定、できるはずがない。
あの夜、泣きながら私へ崩れてきた神は、
そのあと、ひとりで法を壊し、ひとりで命を抱き、ひとりで産んで、
それでも私には、何も背負わせなかったのだから。
だから私は、遅れてでも言わなければならない。
リコル。
貴女が壊したのは、世界のルールだけじゃない。
私がただ守られるだけの天使でいられた、甘い無知もです。
もう、私は知らなかったふりができない。
前世界の傷も。
配偶神たちの未練も。
浮気ではないのに浮気になる、この法の醜さも。
そして、その全部を踏み越えて、私との未来を取りにきた貴女の愛も。
だから今度は、私が選びます。
あの夜のように、守られているだけでは終わらない。
貴女がひとりで壊した法の、その後ろ側へ、私もちゃんと立つ。
月影を抱いた罪も。
書き換えられた記録も。
前世界の神々の報われなささえも。
ぜんぶ見た上で、それでも、貴女とここにいることを選ぶ。
それがたぶん、罰であり、赦しなのだと思うから。