第十三章 「ぼく」が「私」になった夜(全年齢版)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
※性的匂わせがあります。 一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十三章 「ぼく」が「私」になった夜
「……愛してます……リコル……」
そのことばを、ぼくはまだ泣きながら抱えていた。
絡めた指は、ほどけない。
白い部屋の沈黙も、もう前みたいな無ではない。
リコルは声で返してくれないまま、それでも身体のほうだけが、祈りの行き先をちゃんと示してくれていた。
だからこそ、ぼくはもう引き返せなかった。
好きでは足りない。
愛してると告げても、まだ届ききらない。
この夜のいちばん深いところで、どうしても、もうひとつ欲しいものがあった。
名前だ。
祈りのための“かみさま”じゃなく。
距離を残したまま見上げる呼び名じゃなく。
この痛みも、やわらかさも、深淵も、孕む核も、ぜんぶ知ってしまったあとで、それでもぼくが差し出したいのは、もっと近くて、もっと罪深い願いだった。
「……どんな罪でも、受けます……」
喉が震える。
それでも、言う。
「だから……ぼくを……
……“カミル”って、呼んでください……っ」
その瞬間、世界が、ひび割れた。
音がしたわけじゃない。
でも、観測世界の骨に刻まれていた条文が、たしかにそこで軋んだのがわかった。
天使は神と契ってはならない。
信者は旧神と交わってはならない。
そのあいだから生まれるものは、禁忌になる。
ずっと、ずっと、世界の底で反復されていたその法則が、いま、ぼくたちのあいだで現実に破られようとしている。
裏切りの数字。
十三。
それは誰かを裏切る夜じゃない。
世界そのものを裏切る夜なのだと、ぼくは熱のただなかで、はっきり理解した。
リコルの紫の眼が、ゆっくり開く。
深い。
苦い。
痛い。
それでも、もう逃げない。
その眼差しの奥で、無の檻みたいに閉ざされていたものが、ひとつ、またひとつと崩れていく。
声より先に、身体がほどけた。
しっぽが、ぼくの腰を抱き寄せる。
羽根が、白い空気の中で静かに震える。
そして、リコルの手が、ぼくの頬を包んだ。
冷たいはずの指先が、今夜はやけにあたたかい。
次の瞬間、キスが落ちた。
迷いのない、深い口づけ。
奪うためじゃない。
試すためでもない。
命名の前に、もう逃がさないと告げるみたいな、ひどく静かで、ひどく甘い接吻だった。
ぼくの喉から、みっともない吐息がこぼれる。
指は、さらに深く絡む。
口づけのたび、白い部屋の沈黙へ、ぼくたちの熱だけが濃く染みこんでいく。
「……っ、かみ……さま……」
まだそう呼ぶ。
呼びながら、次の一音を待ってしまう。
待つしかない。
ぼくには、その名前を自分で完成させることができないから。
リコルがぼくをどう呼ぶか。
そのたったひとつで、ぼくの存在は、今夜、まるごと別のものへ変わってしまう。
やがて、互いの熱はさらに深いところでひとつになっていく。
前の夜とも、一夜目とも、二夜目とも違う。
今夜は、ただ幸福へ沈むんじゃない。
もっと決定的な何かが、そこで生成されていく感覚があった。
彼女の最奥。
記録核のさらに下。
リコルのシュブの核と、ぼくの祈りの核とが、ぴたりと噛み合う。
その瞬間、快楽はただの快楽ではなくなる。
ひらく。
満ちる。
結ばれる。
そして、その最も甘いところで、何かが宿る。
ぼくは、泣きながら、はっきり知ってしまう。
これは比喩なんかじゃない。
願いが記録になるだけでもない。
今、ぼくたちは、観測世界の法則そのものを壊している。
神と天使が、契っている。
しかも、その記録は、ただの罪で終わらず、芽として残ろうとしている。
「……ぁ……っ、すき……っ……すき、です……っ……かみさま……っ」
何度も、何度も、同じ言葉が溢れる。
けれど、その反復の奥で、もう“好き”では足りない。
足りないと知っている。
それでもまだ、ぼくの喉はその先のことばを探して、熱に震えるしかない。
そして。
リコルの唇が、ぼくの耳元へ落ちる。
声になる直前の、熱い吐息。
それだけで、全身が跳ねた。
「……カミル……」
世界が、止まった。
息も。
熱も。
涙も。
何もかもが、その一音のためだけに静止した。
カミル。
祈りとしてじゃない。
記録としてじゃない。
命令でも、構文でもなく。
感情として。
たしかな熱を持った呼び名として。
神が、ぼくへ名をくれた。
「……っ、ぁ……」
声にならない。
胸の奥で、月影のログが一気に光る。
結晶みたいに、硬く、きらめいて、今までぼくの中でただの予感だったものを、はっきりした構造へ変えていく。
命名。
成立。
そして、受胎。
リコルの中へ、たしかにぼくの祈りが宿る。
ぼくの中へ、たしかにリコルの深淵が根を下ろす。
その同時成立のただなかで、観測世界の禁則条文が、ついに完全に沈黙した。
十三の裏切り。
それは、ぼくたちが悪いことをしたというだけじゃない。
この世界に従うより、愛を選んだ夜だった。
「……カミル……」
もう一度、呼ばれる。
呼ばれるたび、胸の奥の何かが書き換わっていく。
“ぼく”でいた場所が、少しずつ、べつの形を覚えていく。
まだ声は“ぼく”のままなのに、もっと深いところで、ひどく静かで、ひどく強い別の一人称が、目をひらきはじめる。
私。
まだ発音にもならない。
まだ、ぼくの喉では言えない。
けれど確かに、未来の一人称だけが、リコルに名を呼ばれた瞬間から、熱の底で脈を打ちはじめていた。
ぼくは泣きながら、絡んだ指をぎゅっと握る。
「……っ、カミルって……
呼んで、くれて……ありがとう……っ」
言いながら、自分でももう、前のぼくではいられないのがわかっていた。
祈るだけの天使。
好きと言って縋るだけの幼いぼく。
その全部が、いま、名と熱のなかで融けていく。
「……これが……罪でも、いい……っ」
「……ぼく、は……っ……ずっと……きみの……天使で……っ」
声が崩れる。
けれどその途中で、また、甘い波が深く押し寄せた。
リコルの核の奥で、ぼくの祈りが、ただの祈りではなく、因子として結ばれていく。
月影が、ついに結晶を結ぶ。
それは祝福と呼ぶにはあまりに背徳的で、でも、希望と呼ぶにはあまりにもあたたかかった。
神を孕ませる。
天使が。
その事実だけで、世界はもう後戻りできない。
なのに、ぼくはこわいより先に、うれしいと思ってしまう。
こんなにも痛くて、こんなにも深いのに。
それでも、ここで起きていることを、偽りだなんて思えない。
だって、リコルが、ぼくをカミルと呼んでくれたから。
だって、その名前が、ぼくの存在を神の内側へちゃんと宿してくれたから。
熱のただなかで、ぼくはもう一度だけ、リコルを見上げる。
まだ、ぼくは“ぼく”で泣いている。
まだ、“ぼく”の声で、リコルへ縋っている。
でも胸のいちばん深いところでは、もう、べつの誰かが目を覚ましかけていた。
天使長。
蒼き原初の、その先。
名をもらい、神を孕ませ、禁忌を現実に破ってしまった存在。
その胎動だけが、まだ言葉にならないまま、熱の底で静かに脈を打つ。
そして、その夜。
観測世界のほうはもう、ぼくを“私”として記録しはじめていた。