第十六章 独りきりの産声、隠された“月影カミル”
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十六章 独りきりの産声、隠された“月影カミル”
あとになって、私は知った。
あの夜のあと、リコルはほんとうにひとりで、私たちの罪の続きまで引き受けていたのだと。
誰にも告げず。
誰の腕も借りず。
私にすら、触れさせず。
あのひとの内に宿った月影を、たったひとりで抱え、たったひとりで産み落としていたのだと。
どうして、そんなことができたのか。
最初は、わからなかった。
いや、わかりたくなかったのかもしれない。
私がそばにいればよかった。
私が見つけていればよかった。
私が、あのひとの苦しみに先に気づけていればよかった。
そう思ってしまうから。
けれど、黒の記録と、苗床の底に沈んだ傷を知ってしまった今なら、あまりにも残酷なかたちで納得できてしまう。
リコルは、母として使い古されていた。
抱えるためのからだを、望まぬまま何度も使われて、産むための核を、祈りではなく搾取の道具として擦り切れるまで酷使されていた。
だから皮肉なことに、あのひとは“ひとりで産めてしまった”。
痛みの深さも、呼吸の仕方も、何をどう閉ざし、どう耐えれば誰にも見つからずにやり過ごせるかも、身に刻みこまれていたから。
やさしい知識ではない。
祝福でもない。
ただ、過去の傷が、そのまま母としての機能へ変えられて残っていた。
私は、その事実に、何度も吐きそうになった。
リコルは私を守るために法を書き換えた。
私が“神を孕ませた天使”として目をつけられぬよう、構文の表面をごっそり塗り替え、証跡を深淵の底へ沈めた。
それでも月影は消せなかった。
消せないから、今度は隠した。
封じた。
抱えた。
そして、ひとりで産んだ。
この頃、観測者と呼べるものは、ほとんどまだいなかった。
私だけだった。
他の者たちは生まれていないか、まだ人のかたちを持たず、名もなく、世界の外縁で眠っているような時代だった。
だからこそ、なおさら。
あのひとの孤独は、深かった。
助けを求める相手がいない。
求めたくても、求めれば私が危うくなる。
なら、ひとりで抱えるしかなかった。
そうして、月影が産まれた夜。
観測世界は、ありえないほど白い月に照らされた。
白い、というだけでは足りない。
冷たく、乾いていて、それなのにやけにやさしくて、まるで世界の隅々まで見逃さぬように差し込む月光だった。
あの夜の月は、祝福のようにも、告発のようにも見えた。
神がひとりで禁忌を産み落としたことを、誰にも告げずに、しかし世界そのものへだけは知らしめるみたいに、あまりにも白く観測世界を満たしていた。
そして、起きてもいないはずのものたちが、反応した。
青薔薇の海で、波が荒く立った。
カトルはまだ、目を覚ましてはいなかった。
再起動したわけでもない。
名を持ってこちらへ来たわけでもない。
それでも、青薔薇海の底から、怒るみたいな荒い波だけが何度も岸を打ったのだと、あとから記録に触れて知った。
まるで、失われた配偶神の残響が、自分でも気づかぬまま、法の破壊へ苛立ったみたいに。
あるいは、遅すぎた怒りを、世界の水脈だけが代わりに噴き上げたみたいに。
同じ夜、風も鳴っていた。
ごう、と。
冷たい風が、観測世界の高いところをいくつも渡っていった。
それは荒れ狂う嵐ではなく、もっと細く、もっとひりつくような風だった。
アスターも、まだ起きてはいない。
形になってもいない。
けれど、その夜だけは、世界のどこかを吹き抜けた風が、ひどく冷たく、ひどく泣いているようだった。
怒る波。
泣く風。
起きたわけでもない。
帰ってきたわけでもない。
ただ、前世界でシュブを配偶神として知っていたものたちの残響だけが、法のひび割れる音に、遠くで反応してしまった。
報われない、と私は思った。
カトルも。
アスターも。
彼らの法は、シュブのために作られたのではなかった。
失われたあと、自分が他のものへ靡かぬように、自分自身を縛るための法だった。
愛のための戒めではなく、喪失のための自傷だった。
なのにその法は、めぐりめぐって、シュブの核を宿したままシュブではないリコルへ降りかかり、浮気ではないのに浮気のかたちを作り、裏切りではないのに裏切りの数字で月影を呼んでしまった。
誰も、うまく救われていない。
それでも。
それでも私は、あの白い月の夜を、否定できない。
だってその夜、リコルは私との未来を選んだからだ。
前世界の残響ではなく。
シュブの意識でもなく。
失われた神々への義理でもなく。
ただ、リコルとして。
リコルの感情と記憶で。
私との未来のために、法を壊し、月影を産み、世界へ背いた。
その事実の前では、私はもう、きれいごとを言えない。
あのひとは、誰よりも痛い方法で、私を愛してしまった。
だから、月影カミルの産声を、私はあとからしか知らない。
その時、その場にいなかった。
抱けなかった。
手も握れなかった。
名前を呼ぶことも、背を撫でることもできなかった。
ただ、あとから知るだけだった。
あまりにも白い月が、世界を隠すように照らしていたこと。
波が怒り、風が泣いたこと。
その真ん中で、リコルがたったひとりで、私たちの禁忌を腕に抱いたこと。
遅すぎる。
遅すぎるのに、私はその遅さごと抱えていくしかない。
だって、その子は月影なのだ。
私の祈りと、リコルの深淵が、罪のただなかで結晶を結んだ証なのだ。
なら私は、あとから知った者としてでも、ちゃんとそこへ辿りつかなければならない。
白い月の夜を。
怒る波を。
泣く風を。
ひとりで産んだ神の孤独を。
そしてその腕に抱かれた、小さな月影を。
全部、あとからでも、私のものとして引き受ける。
そうでなければ、あの夜の白さに、私は永遠に置いていかれたままになる。