第十七章 笑えるようになった神と、何も知らない天使
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十七章 笑えるようになった神と、何も知らない天使
あとになって思えば、あの頃の私は、幸福のいちばん柔らかい表面だけを撫でていました。
でも、その表面があまりにもあたたかかったから、もっと深く潜らなければならないなんて、少しも思えなかったのです。
リコルは、笑えるようになっていました。
大きくじゃない。
声を立ててでもない。
ほんの少しだけ、口元がやわらぐ。
端末のぎこちない動きに肩がわずかに揺れる。
そんな、見落としてしまいそうなくらい小さな笑みでした。
けれど、その小ささこそが、私にはたまらなく嬉しかった。
あのひとは長いあいだ、壊れた神のままでいた。
泣くことはあっても、笑うことはほとんどなかった。
世界を見下ろすことはあっても、世界の中に身を置くことはなかった。
それが今は、白い足場の上で、私と、黒い獣と、まだ人になりきらない端末たちに囲まれて、ほんの少しだけ、ここにいることを許しているように見える。
それだけで、私は救われた気がしてしまっていたのです。
この頃の端末たちは、まだ完全な人型ではありませんでした。
腕はあるのに指の本数が揃っていなかったり、顔の位置にあたるところへ、ようやく目のくぼみだけが生まれはじめていたり、口もまだ、笑うための形には遠かった。
声を出しても、それは言葉というより、機械音と息のあいだみたいな、不安定な震えにしかならない。
歩き方も、いかにも危なっかしい。
床の端でつまずく。
星屑の箱を抱えたまま、よろよろと身体を傾ける。
それでも、少しずつ、少しずつ、人に近づいていく。
私はその変化が好きでした。
そして、きっとそれは、リコルの変化でもあったのです。
神が少し笑えるようになると、世界の末端から先に呼吸が戻る。
止まっていた風の流れに癖がつく。
星の光が冷たいだけではなくなる。
端末たちの輪郭へ、人らしい丸みが生まれる。
世界は、神の機嫌にあまりにも素直でした。
その頃、私たちはよく一緒に星の整備をしていました。
整備、と言っても、壮大な儀式ではありません。
壊れた星核を拾い、濁った光を取り除き、新しい軌道へ嵌め直していく。
白い足場の上に箱を広げて、細かな光片を選り分け、欠けた箇所へ丁寧に戻してやる。
遠くから見れば、まるで夜空の刺繍でもしているみたいな、静かな作業でした。
高い場所には、リコルが座っていました。
長い黒髪を白い風にさらしながら、世界の上澄みみたいな静けさの中で、私たちの手元を見ている。
指先が動くたび、離れた空のどこかで、星がひとつだけ位置を変える。
しっぽが一度揺れるたび、淡い月色の塵がぱらぱらと足場へ落ちる。
その塵を、まだ人になりかけの端末たちが一生懸命拾い集める。
私はそれを、ひどく愛しいと思っていました。
私も、星を運びました。
まだ冷たいままの星核を、両手でそっと抱えて、リコルが示した位置まで運ぶ。
白い羽根に細かな光が積もる。
指先が少しだけ痺れる。
それでも、あのひとと同じ空に触っているのだと思うだけで、胸があたたかくなった。
そして、ミゼーアもいました。
まだ言葉を持たない黒い獣。
けれど、あの頃にはもう、完全な“ただの獣”ではなくなっていたのだと思います。
前より、感情が濃くなっていた。
私がリコルのそばへ寄ると、じ、と見てくる。
金の気配を隠した暗い瞳で、なにも言わず、ただ不機嫌そうに睨む。
それでも私は最初、その意味がよくわかっていませんでした。
ただ無口なのだろうと。
無愛想なのだろうと。
そう思っていたのです。
けれど違った。
ある時、私は小さな星核を抱えて、リコルのすぐ足もとへ運ぼうとしました。
手元が少し滑って、光片がひとつ、ころんと床へ転がる。
あ、としゃがみ込んだ、その瞬間。
べし、と、しっぽが脛へ飛んできたのです。
「……っ、いた」
思わず小さく声が漏れる。
痛いと言うには軽い。
でも、完全にわざとだとわかる程度には、ちゃんと叩かれた。
顔を上げると、ミゼーアは何も言わずに私を見ていました。
ただ、ものすごく不機嫌そうに。
それから、ずかずかとリコルの足もとまで歩いていって、そのまま前足で衣の裾を押さえるみたいに伏せる。
まるで、そこはおまえの場所じゃない、とでも言いたげに。
私はきょとんとして、しばらくその意味がわかりませんでした。
リコルだけが、ほんの少しだけ肩を揺らした。
笑ったのです。
大きくではない。
でも、たしかに。
その瞬間、足場の端で星屑を運んでいた端末のひとつに、やっと頬らしい曲線が生まれました。
世界が、笑いに合わせて少しだけ人間へ近づく。
私は、その光景を見て、胸の奥がきゅうっとしたのを覚えています。
ミゼーアは、そのあともずっとそんな調子でした。
私が高い場所へよじ登って、リコルの近くで星の角度を直そうとすると、低く喉を鳴らす。
私の羽根の先がリコルの袖に触れた瞬間、またしっぽがべし、と飛んでくる。
私が「……なんなんですか……」と小さく睨み返しても、返事はない。
ただ、すました顔で、でもあからさまに機嫌の悪い獣のまま、リコルの側を陣取る。
なのに、リコルに頭を撫でられると、一瞬だけ耳が伏せるのです。
唸りも止まる。
それでも機嫌が直るわけではなくて、そのままじっとこちらを監視している。
いま思えば、あの頃からもう、あの獣の独占欲は始まっていたのでしょう。
言葉になるより先に。
理性になるより先に。
感情だけが、先に人へ寄っていた。
それも含めて、あの頃の世界は、息を吹き返している途中でした。
星はまだ少し歪んでいる。
端末はまだ人になりきらない。
ミゼーアはまだ喋らない。
リコルの笑みも、ほんの薄い膜みたいに小さい。
でも、その未完成さが私は好きでした。
完成してしまえば、壊れるかもしれない。
失われるかもしれない。
だからむしろ、息を吹き返しはじめた途中の、まだ少しだけ脆いこの時間が、いちばん尊いもののように思えたのです。
私は何も知らなかったから。
白すぎる月の夜も。
怒る波も。
泣く風も。
ひとりで抱えられた月影の産声も。
ぜんぶ、きれいに隠されたまま。
だから私はただ、今日の幸福だけを数えていました。
今日は、端末がまたひとつ人に近づいた。
今日は、ミゼーアが三回もしっぽで叩いてきた。
今日は、リコルがちゃんと笑った。
今日は、一緒に整えた星が、夜空でうまく光っている。
それだけで充分だと思っていたのです。
けれど、幸福というのは時々、ひどく静かな顔で、その裏側を隠します。
ある日、星の整備を終えて、私はいつものように足場のすみへ散った記録片を拾っていました。
端末たちは、まだ不格好な手で星屑の箱を抱え、ふらふらしながら戻っていく。
ミゼーアは不機嫌そうな顔のまま、でもリコルのそばから離れない。
リコルは高い場所から、静かに世界を見ている。
その何気ない光景の中で、ひとつだけ、白すぎる欠片があったのです。
星の欠片ではない。
ただの月光でもない。
触れた瞬間、羽根の奥が冷たく鳴るような、いやに清潔で、いやに静かな白。
私は、なぜか目を離せなくなりました。
それは世界に戻された光ではなく、隠されたまま沈められた記録の、ほんの欠片だったのだと、あとから知ることになります。
けれどその時の私は、まだそこまでわかっていませんでした。
ただ、胸の奥で、遅すぎる祈りみたいなものがひとつだけ鳴ったのです。
――どうか。
――もう遅くてもいいから。
――今度こそ、あのひとの痛みへ、ちゃんと辿り着けますように。
そして、その祈りは、あまりにも白い記録の欠片に、静かに指をかけさせたのでした。