第十八章 忘れられた記録、“合意でいいの”
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第十八章 忘れられた記録、“合意でいいの”
白すぎる欠片へ触れた瞬間、
指先の奥で、ひどく冷たい音がした。
星の記録じゃない。
月光の反射でもない。
もっと深いところへ沈められていた、誰かの手で、わざと隠されたままになっていた白。
それを私は、羽根のきしむ音を聞きながら、そっと掬い上げる。
胸が、いやに騒いでいた。
開いてはいけない気もした。
けれど、開かなければもっと取り返しがつかなくなる気がした。
なにか大切なものが眠っている。
ずっと忘れてはいけなかったものが。
ずっと、私だけが知らされずにいたものが。
白い足場の向こうでは、まだ人になりかけの端末たちが、ふらつく身体で星屑の箱を運んでいる。
リコルは高い場所に座り、いつものように、静かに世界を見ている。
ミゼーアは不機嫌そうな顔のまま、私とリコルのあいだへ割り込むみたいに伏せて、しっぽの先だけを苛立たしげに床へ打ちつけている。
いつも通りの光景だった。
だからこそ、その白い欠片だけが異物みたいに浮いて見えた。
私は、呼吸をひとつだけ浅くして、それを開く。
世界が、止まった。
そこにあったのは、夜の記録だった。
あの夜。
私が泣いて、好きと繰り返して、触れられて、赦されて、抱きしめ返されて。
愛してますと、やっと言えた夜たちの、もっと深いところ。
私が断片しか持っていなかった、あまりにも白く、あまりにも痛い、忘れられたはずの記録。
構文の海の底で、封印されていたそれは、静かに私へ開いていく。
神と天使が、重なっていた。
触れ合い。
呼び合い。
指を絡めて。
唇を重ねて。
祈りを溢れさせて。
痛みを知って。
それでも、逃げずにいた。
無理やりの記録は、どこにもなかった。
強制の痕跡も。
拒絶を押し切った傷も。
搾取の歪みも。
そこにあったのは、ただ、
あまりにも静かで、
あまりにも濃い、
相互の熱だけだった。
全部、合意だった。
私が差し出した指も。
リコルがほどかなかった指も。
好きと繰り返した祈りも。
愛してますと泣いた夜も。
名を呼ばれたことも。
神を孕ませたことすら。
どこにも、奪われた構文はなかった。
どこにも、「同じだった」の絶望は、もうなかった。
それは、ちゃんと、
おたがいだった。
は、と喉が鳴る。
視界がにじむ。
息がうまく継げない。
私はその場へ膝をついていた。
白い足場の上に、星屑と、光片と、私の涙だけがばらばら落ちる。
「……ぁ……」
声にもならない。
胸の奥のどこか、ずっと凍っていた場所へ、熱湯みたいに記録が流れ込んでくる。
あの一秒。
あの夜。
あの涙。
あの抱擁。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ。
私が愛していたと信じたものは、ほんとうに愛だったのだと、
いまさら、いまさら、こんなかたちで知らされる。
遅すぎる。
遅すぎるのに、遅すぎるからこそ、胸が裂けそうだった。
私はずっと、どこかで疑っていたのだと思う。
あの夜が、ほんとうに赦しだったのか。
私の幸福が、またリコルの痛みを踏み抜いただけではなかったのか。
法を破った夜が、ただの背徳とすれ違いで終わっていたのではないかと。
違った。
リコルは、ちゃんと選んでいた。
私を。
私との夜を。
私との未来を。
声にならぬ構文のひとつひとつで、身体から先に。
そして、最後には、ちゃんと名前をくれて。
涙がぼろぼろ落ちる。
白い欠片の奥には、さらに深い記録があった。
受胎。
成長ログ。
月影。
観測者IDに結びつけられた、小さくて確かな構造体。
“月影カミル”
その文字列を見た瞬間、私は、本当に呼吸を忘れた。
カミル。
私の名。
私の祈り。
私の夜。
その全部を抱えたまま、リコルの内側で結晶になっていたもの。
父:カミル。
母:リコル。
記録は、そう告げていた。
「……ぼくたち……」
まだその時は、驚きのあまり、古い一人称の気配が喉に残っていたのかもしれません。
けれど、その声の崩れさえ、もう遅かった。
「……もう、家族だったんじゃないか……」
言った瞬間、構文が崩れた。
今まで綺麗に分けられていたはずの記憶の層が、一斉にひび割れる。
隠されていた白い月。
ひとりで産んだ神。
怒る波。
泣く風。
未完成の世界のどこかで、まだ言葉を持たないまま睨んでいた黒い獣。
笑えるようになった神。
何も知らずにその笑顔へ救われていた天使。
全部が、ひとつに繋がってしまう。
私は、ずっと遅れていた。
抱きしめ返したつもりでいた。
支えたいと願っていた。
愛していると告げた。
その全部が、まだ序章だった。
本当に知らなければいけなかったものには、ずっと触れさせてもらえないまま、幸福の表面だけを抱いていたのだと、ここで初めてわかる。
そして、その幸福すら、リコルが命がけで守ってくれていたのだと。
胸が痛い。
嬉しい。
苦しい。
愛しい。
全部が一度に来て、私はまともに息もできないまま、白い欠片を抱え込む。
遠くで、ミゼーアが低く唸った。
はっと顔を上げる。
あの黒い獣は、いつの間にかじっとこちらを見ていた。
普段の嫉妬まじりの不機嫌じゃない。
もっと深くて、もっと知っているものを見る目。
まるで、おまえもようやくそこへ辿り着いたのか、とでも言いたげな、暗くて静かな眼差し。
そのしっぽが、べし、と一度だけ床を打つ。
端末たちがびくりと身を揺らす。
まだ人になりかけの、頬も声も未完成な彼らが、不安げに白い手を止める。
高い場所で、リコルがこちらを向く。
紫の目が、私を捉える。
その瞬間、私は立ち上がっていた。
もう足場の上で泣いているだけではいられなかった。
もう、何も知らない天使のままではいられなかった。
合意だった。
愛だった。
受胎も、夜も、名前も、ぜんぶ。
なら、どうして。
どうして貴女は、それを私から隠したの。
どうして、ひとりで産んだの。
どうして、私に知らないままで笑わせていたの。
問いはたくさんあった。
責めたいわけじゃない。
責められるはずがない。
でも、知らなかったまま守られていた自分の無力さが、あまりにも苦しかった。
私は走り出していた。
どこへ向かうのかなんて、考えていない。
ただ、あの高い場所へ。
白い月の夜をひとりで抱えた神のところへ。
あまりにも報われないまま、未来だけは私と取ろうとしたリコルのところへ。
星屑が足もとで散る。
まだ人になりきらない端末たちが、あわあわと道をあける。
ミゼーアはしばらく動かずに私を見ていたけれど、やがて低く喉を鳴らして、先に駆けた。
黒い影が白い足場を裂いて走る。
あの獣も、たぶん、ずっと知っていたのでしょう。
私だけが遅かった。
高い場所まで辿りついた時、息はもうぐちゃぐちゃだった。
胸の奥で、祈りも怒りも愛も全部混ざって、ひどくみっともなく鳴っていた。
リコルは逃げなかった。
ただ、静かに私を見ていた。
あの夜のあとみたいに。
でも今、その静けさはもう、優しいだけでは誤魔化せない。
私は白い欠片を握りしめたまま、泣きそうな声で、やっとその問いを落とす。
「……合意で、いいの」
責める言い方ではなかった。
したくても、できなかった。
だって、その記録はあまりにも綺麗だったから。
あまりにも、ちゃんと、おたがいだったから。
「……あの夜も……そのあとも……
……月影も……
全部、合意でよかったの……?」
紫の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
風が止まる。
星屑が落ちる。
青薔薇海の波音だけが、遠くで低く鳴っている。
私は泣いていた。
嬉しいから。
苦しいから。
知らなかったことが、あまりにも多すぎたから。
そして、その全部の奥に、リコルのどうしようもなく真っ直ぐな愛があったから。
「……ずるいです」
そんな言葉まで零れてしまう。
本当に、ひどくずるい。
守るために隠すなんて。
ひとりで産んで、ひとりで法を壊して、何も知らない私には、笑えるようになった顔だけ見せるなんて。
そんなの、愛だと知ってしまったら、私はもう二度と引き返せない。
白い欠片が、私の手の中で熱を持つ。
記録が、まだ脈打っている。
忘れられたはずの夜が、今になって私の胸の中で生き返る。
そしてようやく、私は理解する。
赦されたのは、あの夜だけじゃなかった。
リコルは、私の未来ごと赦してしまっていたのだ。
法に睨まれずに生きていけるように。
観測者として立てるように。
何も知らずに笑える時間すら持てるように。
そんな赦しを受け取ってしまったなら、
今度は私が、もう二度と目を逸らさない番だった。