第1章 追放の朝
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
証拠があった。アリバイもあった。それでも、負けた。 騎士団副隊長レインは反逆罪の濡れ衣を着せられ、追放された。剣も紋章も奪われた男が最後に掴んだのは——一枚の封蝋と、真実を追う情報屋の女。 正しさは、証明するまで存在しない。
本文
【牢獄の目覚め】
冷たい石の感触で、意識が浮上した。
背中に当たる床は氷のように冷え、全身が軋むように痛む。レイン・アルヴェストは薄く目を開け、自分がどこにいるのかを思い出そうとした。
王城地下牢。独房。
高窓から差し込む薄明かりが、石壁に弱々しい四角形を描いている。夜明け前だ。鉄格子の向こうには、松明の残り火がかすかに揺れていた。
手首に重みを感じて視線を落とす。鎖だ。錆びた鉄の輪が両手首を繋ぎ、その先は壁の鉄環に固定されている。動けないわけではないが、立ち上がることは許されていない。
身体を起こそうとして、脇腹に鋭い痛みが走った。逮捕の際に受けた傷だ。手当てはされているが、最低限のものだった。胸元に手を当てる。何もない。騎士の紋章は、もう剥がされていた。
——三日前のことが、脳裏に蘇る。
裁判は、茶番だった。
証人として立ったのは、副団長ガルディス・ヴェルムント。白髪交じりの髪を整え、威厳ある騎士の正装に身を包んだ男は、静かな声で証言した。
『レイン・アルヴェストが、敵国の密偵と接触しているところを私は目撃しました』
嘘だ。
レインはその日、国境の哨戒任務に就いていた。王都にいなかった。ガルディスが「目撃した」という場所に、いるはずがなかったのだ。
だが、誰も聞かなかった。レインの反論を、仲間たちの証言を、誰も求めなかった。裁判官はうつむき、陪席の騎士たちは目を逸らした。
『反逆罪により、レイン・アルヴェストを有罪とする』
判決は、最初から決まっていた。
ガルディスは、判決の後でレインに近づき、こう囁いた。
『君には期待していたのだがね、レイン。残念だよ』
その言葉が、今も耳にこびりついている。期待していた? 何を? そしてなぜ、自分を陥れる必要があった?
——だが、一つだけ確かなことがある。
俺は、無実だ。
レインは鎖の重みを感じながら、薄明かりの中で静かに拳を握った。
【追放執行】
足音が近づいてきた。
独房の前で鍵が回る音。鉄格子が開き、二人の騎士が入ってきた。見覚えのある顔だ。第三小隊の、かつての部下たち。
だが、彼らはレインと目を合わせなかった。
「立て」
短く命じられ、レインは壁の鎖を外される。手首の枷はそのままだ。両脇を騎士に挟まれ、独房を出る。地下牢の湿った空気が、朝の冷気に変わっていく。
階段を上がるたびに、光が強くなった。
王城正門に出たとき、レインは一瞬、目を細めた。朝日が眩しい。朝霧が残る石畳の広場に、人だかりができていた。城下町の民衆だ。追放の執行を見物に来たのだろう。
「反逆者だ」
「騎士の恥さらしめ」
「処刑じゃないのか? 甘いな」
罵声が飛ぶ。かつてレインが守っていた人々。任務で何度も助けた民衆。その顔ぶれの中に、知った顔もいたかもしれない。だが、誰もがレインを睨み、唾を吐くような目で見ていた。
——情報操作か。
レインは表情を変えず、広場の中央へ連行された。そこには宣告官が待っていた。羊皮紙を手にした初老の男が、朗々と声を上げる。
「王国騎士団、元第三小隊副隊長、レイン・アルヴェスト」
広場が静まる。
「反逆罪により有罪が確定した。処刑は免じられるものの、王国騎士の資格は剥奪。本日をもって王国より永久に追放とする」
護送の騎士が、レインの前に回った。その手が、レインの胸元に伸びる。
——紋章は、もうないはずだ。
だが、手は胸の布を掴み、力任せに引き裂いた。紋章があった場所を、衆目の前で曝け出すための儀式。かつて誇りを持って身につけていたものの痕跡を、見せつけるように晒す。
屈辱だった。
だが、レインは声を上げなかった。
背筋を伸ばし、正面を見据えたまま、黙って立っていた。
「追放を執行する。二度と王都の門をくぐることは許されない」
背中を押され、城門の外へ出る。石畳が土に変わった瞬間、門が轟音を立てて閉じられた。
振り返らなかった。
レインは、一度も振り返ることなく、土の道を歩き出した。
【スラム街の襲撃】
気づけば、足は城下町の外れに向かっていた。
大通りは歩けない。追放者を見る目、罵声、投げられる石。それを避けて路地裏を選ぶうちに、レインはスラム街に迷い込んでいた。
昼過ぎになっていた。影が長くなり始め、陽光が建物の隙間から斜めに差し込んでいる。狭い路地裏。崩れかけた建物。地面にはゴミが散乱し、汚水の臭いが鼻をつく。人気はない。
——嫌な気配だ。
騎士の訓練は身体に染みついている。背後の空気が変わったことに、レインは歩きながら気づいていた。
三人。
足音の重さと間隔で分かる。追ってきている。そして、距離を詰めている。
路地の突き当たりが見えた瞬間、レインは足を止めた。行き止まり。壁に挟まれた狭い空間。逃げ場がない。
振り返る。
三人の男が、路地の入り口を塞いでいた。全員が覆面で顔を隠し、右手に短剣を握っている。
「死ね、反逆者」
言葉は短く、感情がなかった。殺し慣れている者の声だ。
——口封じか。
レインの頭は冷静だった。追放だけでは不十分。生きていては困る誰かがいる。それはつまり、自分が知っている何かが、致命的だということだ。
だが、今は考えている場合ではない。
武器はない。鎧もない。平服の身体一つで、短剣を持った三人と向き合っている。
最初の男が踏み込んできた。
短剣が突き出される。レインは半身をずらして躱し、伸びてきた腕を掴んだ。引き寄せ、肘を喉に叩き込む。男がくぐもった声を上げて崩れ落ちた。
二人目が横から斬りかかる。後ろに跳び退りながら、倒れた男の短剣を拾い上げる。刃を受け止め、弾く。隙を突いて柄で顎を打ち据える。男がよろめいた。追撃の蹴りを入れ、壁に叩きつける。
三人目は、後退していた。
「化け物が……」
吐き捨てるように言って、男は走り出した。逃げる。レインは追いかけようとして、脇腹に鋭い痛みを感じた。傷が開いている。足がもつれ、壁に手をついた。
男の姿が、路地の向こうに消えた。
「……逃がした」
証拠になる覆面を、掴み損ねた。倒れた二人を見る。すでに意識がない。だが、この男たちの動きには覚えがあった。
——騎士団の訓練を受けた動きだ。
追放だけでは済まさない。ガルディスは、俺を殺すつもりだ。
レインは血が滲む脇腹を押さえながら、路地裏を歩き始めた。どこか、身を隠せる場所を探さなければならない。
【情報屋との出会い】
古書店、という文字が目に入った。
崩れかけた建物が並ぶスラム街の一角に、その店だけが妙に静かな佇まいで建っていた。看板は色褪せ、窓は埃で曇っている。だが、灯りがついていた。人がいる。
選択肢はなかった。
レインは脇腹を押さえながら、ドアを押し開けた。
埃っぽい本の匂いが鼻をついた。薄暗い店内に、天井まで届く本棚がいくつも並んでいる。古書、地図、巻物。整理されているようで、どこか混沌とした空間。
奥のカウンターで、女性が顔を上げた。
長い黒髪を無造作に束ね、眼鏡をかけている。年齢は二十代半ばか。冷静な目がレインを捉え、一瞬、僅かに見開かれた。
驚いている。だが、すぐに表情を消した。
「……奥へ」
短く言って、女性はカウンターを出た。レインを招くように、店の奥へ歩いていく。罠かもしれない。だが、他に選択肢がない。レインは血を引きずるようにして、その後を追った。
奥には隠し部屋があった。本棚の裏に、狭いが清潔な空間が広がっている。簡素なベッド、机、椅子。そして、壁一面に貼られた紙片。地図、人物相関図、メモ。情報を扱う者の部屋だと、一目で分かった。
「座って」
女性は椅子を指し示し、棚から包帯と消毒液を取り出した。レインが腰を下ろすと、躊躇なく平服をまくり上げ、傷を確認する。
「縫う必要はないわね。深くはない」
手際よく消毒し、包帯を巻いていく。その動きに淀みがなかった。慣れている。
「……なぜ、俺を助ける」
レインは警戒を解かないまま尋ねた。女性は手を止めず、淡々と答えた。
「あなた、レイン・アルヴェストでしょう。噂は聞いてる」
「噂?」
「王国騎士団の副隊長が反逆罪で追放された。今朝の話よ。城下町中に知れ渡ってる」
包帯を巻き終え、女性は一歩下がった。眼鏡の奥の目が、レインを観察するように見つめている。
「私はフィーネ。フィーネ・ロクサール。この店の主で、表向きは古書商」
「表向き、ということは」
「裏は情報屋。この街で起きていること、起きようとしていること、大体のことは耳に入る」
情報屋。レインは警戒を強めた。情報を売る者は、誰にでも売る。今この瞬間にも、レインの居場所を騎士団に売ろうとしているかもしれない。
だが、フィーネは薄く笑った。
「安心して。騎士団に売るつもりはないわ。……むしろ、その逆」
「逆?」
「あなたの事件、私も興味があるの」
フィーネは椅子に腰を下ろし、足を組んだ。冷静な目の奥に、別の光が宿っていた。興味。いや——執念に近い何か。
「三年前の『あの事件』と、繋がっているかもしれないから」
三年前。レインは記憶を探ったが、心当たりがなかった。三年前、自分は国境の哨戒任務に就いていた。王都で何か大きな事件があっただろうか。
「……三年前の事件とは?」
「それは、また今度」
フィーネは立ち上がり、部屋を出ようとした。ドアの前で振り返り、意味深に付け加える。
「今夜はここで休んで。明日、話しましょう。あなたが知りたいことと、私が知りたいこと——きっと、同じ場所に繋がっているはずだから」
ドアが閉まった。
レインは一人、薄暗い部屋に残された。脇腹の傷が熱を持って疼いている。だが、それ以上に、頭の中で疑問が渦巻いていた。
三年前の事件とは何だ。
そして、なぜそれが俺の濡れ衣と繋がっている?
答えは、まだない。だが、初めて——追放されてから初めて、レインは前に進む道が見えた気がした。
協力者かもしれない相手。あるいは、利用しようとしている敵。どちらにせよ、今は情報が必要だ。
明日。話を聞こう。
そして、必ず——真実を暴く。