第2章 情報屋の流儀
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
証拠があった。アリバイもあった。それでも、負けた。 騎士団副隊長レインは反逆罪の濡れ衣を着せられ、追放された。剣も紋章も奪われた男が最後に掴んだのは——一枚の封蝋と、真実を追う情報屋の女。 正しさは、証明するまで存在しない。
本文
【協力の条件】
脇腹の鈍い痛みで、レインは目を覚ました。
見慣れない天井。薄暗い部屋。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる。だが、壁一面に貼られた紙片——地図や人物相関図——を見て、昨日のことを思い出した。
古書店。情報屋。フィーネ・ロクサール。
高窓から朝日が細く差し込んでいる。簡素なベッドから身を起こすと、傷が軋んだ。包帯は昨夜フィーネが巻いてくれたものだ。
ドアが開いた。
「起きたのね」
フィーネが盆を持って入ってきた。黒パンと干し肉、それに水の入った杯。質素だが、今のレインには十分すぎる朝食だった。
「……すまない」
「お礼はいらないわ。これは取引の前払い」
フィーネは盆をベッド脇の机に置き、向かいの椅子に腰を下ろした。眼鏡の奥の目が、レインを観察するように見つめている。
「条件を話しましょう」
単刀直入だった。レインは黒パンを手に取りながら、警戒を解かずに頷いた。
「三つあるわ」
フィーネは指を立てた。
「一つ、情報は共有する。あなたが掴んだことは私にも教える。私が掴んだことはあなたにも教える。隠し事は禁止」
「……分かった」
「二つ、私のやり方に口を出さない。情報の集め方、接触する相手、そういったことに文句を言わないで。騎士のやり方とは違うこともあるから」
レインは眉をひそめた。だが、反論はしなかった。今の自分に、選り好みをする余裕はない。
「三つ、危険は自己責任。私はあなたを守らない。あなたも私を守る義務はない。それぞれが自分の身は自分で守る」
「……厳しいな」
「情報屋の世界では当たり前よ。甘い期待は命取りになる」
フィーネの声に、経験から来る重みがあった。
レインは黒パンを噛みながら、しばらく考えた。条件自体は、理不尽なものではない。だが、一つだけ聞いておかなければならないことがあった。
「なぜ、俺に協力する」
フィーネは一瞬、沈黙した。それから、窓の外に視線を向けた。
「三年前、私は王立書庫で働いていた」
意外な言葉だった。王立書庫といえば、王国の知識の集積地。そこで働くには、相当な教養と信頼が必要なはずだ。
「ある日、禁書庫の整理を任された。そこで、一通の文書を見つけた。見てはいけないものを」
「何を見た」
「詳しくは、まだ言えない」
フィーネは視線を戻した。その目に、冷静さの奥に隠された——執念のようなものが見えた。
「ただ、その文書を追ったことで、私は追われる身になった。書庫を追い出され、表社会では生きていけなくなった。だからこそ、裏で情報を集めてきた。いつか、真実を暴くために」
「それが、俺の事件と繋がっていると?」
「確信はない。でも、匂いがする」
フィーネは立ち上がり、壁に貼られた紙片の一つを指さした。人物相関図。その中央に、一つの名前があった。
ガルディス・ヴェルムント。
「この男の名前が、私が追っていた文書にも出てきた。三年前から、ずっと」
レインは息を呑んだ。
三年前から。ガルディスは、それだけ長い間、何かを企んでいたというのか。
「……条件を、受け入れる」
他に選択肢はなかった。そして何より、この女が追っているものと、自分が暴こうとしているものが、同じ場所に繋がっているという予感があった。
フィーネは薄く笑った。
「なら、今夜から動きましょう。会わせたい人がいるの」
【酒場の密会】
二日後の夜。
レインはフードを深く被り、城下町の裏通りを歩いていた。隣にはフィーネがいる。彼女の足取りは迷いがなく、この街の裏道を知り尽くしていることが分かった。
「ここよ」
フィーネが足を止めたのは、「錆びた剣亭」という看板を掲げた酒場の前だった。古びた木造の建物。窓から漏れる灯りは薄暗く、あまり繁盛しているようには見えない。
「奥の個室に、待たせてある」
中に入ると、酒と煙草の臭いが鼻をついた。カウンターには数人の客がいたが、誰もレインたちに興味を示さなかった。この手の店では、他人に無関心であることが礼儀なのだろう。
フィーネに導かれ、奥の個室に入る。
蝋燭が一本だけ灯された狭い部屋に、男が一人座っていた。若い。二十代前半か。騎士団の下級兵士が着る簡素な服を着ているが、紋章は外されている。非番か、あるいは——
「レイン副隊長……いや、今はそう呼べないのか」
男の声が震えていた。顔を上げたその目には、恐怖が浮かんでいる。
「トマス」
レインは男の名を呼んだ。第三小隊の下級騎士。真面目だが気が弱く、いつも先輩に怒られていた若者。レインが副隊長として、何度か庇ったことがある。
「久しぶりだな」
「……はい」
トマスは視線を落とした。レインの前に座ることすら、怖がっているようだった。
「俺のことを恨んでいるか?」
「いえ、そんな……」
「なら、なぜ怯えている」
トマスは顔を上げた。その目に、涙が滲んでいた。
「俺も、見張られている気がするんです。あの裁判の後から、ずっと」
レインとフィーネは顔を見合わせた。
「裁判のことを聞きたい」
レインは声を落とした。トマスは頷き、震える声で話し始めた。
「あの裁判、おかしかったんです。証人は三人いたはずなんです」
「三人?」
「はい。ガルディス様と、あと二人。第二小隊のマルコとエリオ。二人とも、副隊長が……あなたが、敵国の密偵と接触しているのを見たと言っていました」
嘘だ。レインはその日、国境にいた。誰かと接触などしていない。
「だが、裁判で証言したのはガルディスだけだったはずだ」
「そうなんです。裁判の前日に、二人とも姿を消しました。病気だとか、急な任務だとか、そう聞きましたけど……」
トマスは声を潜めた。
「俺は、消されたんだと思います」
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、壁に影を躍らせる。
「マルコとエリオ、今どこにいるか分かるか」
「マルコは、城下町の外れに家があるはずです。エリオは……分かりません。本当に姿を消してしまって」
フィーネがメモを取っている。レインは立ち上がった。
「ありがとう、トマス。危険を冒して来てくれた」
「副隊長」
トマスがレインの袖を掴んだ。
「俺は……俺は、あなたが反逆者だなんて思っていません。第三小隊のみんな、本当は分かっているんです。でも、誰も声を上げられない。ガルディス様が怖くて」
レインは、トマスの手を軽く握り返した。
「分かっている。お前のせいじゃない」
それだけ言って、レインは個室を出た。
【死者の家】
翌日の昼。
レインとフィーネは、城下町の外れにある小さな家の前に立っていた。石造りの質素な建物。庭には雑草が伸び、手入れされた様子がない。
「ここがマルコの家か」
「住民台帳ではそうなっているわ」
フィーネが周囲を見回す。人通りはほとんどない。近くの家も、窓が閉まっている。
レインはドアをノックした。返事がない。もう一度。やはり、返事がない。
ドアノブに手をかける。鍵は開いていた。
「……入るぞ」
ドアを押し開けた瞬間、臭いが鼻をついた。
血の臭い。
レインは反射的に身構えた。背後でフィーネが息を呑むのが聞こえる。
玄関から続く短い廊下。その先に、小さな居間がある。薄暗い。窓には布が掛けられ、光が遮られている。
居間の中央に、何かが倒れていた。
人だ。
レインは足を踏み入れた。床に広がった黒い染み。乾きかけた血。そして、仰向けに倒れた男の姿。喉が深く切り裂かれている。
「マルコ……」
顔に見覚えがあった。第二小隊の騎士。裁判の証人になるはずだった男。
もう、息はない。身体は冷たく、死後少なくとも一日は経っているように見えた。
「……遅かった」
レインは拳を握りしめた。もう一日早く。いや、半日でも早く動いていれば。
「レイン」
フィーネの声が、感情を押し殺したように聞こえた。
「感傷に浸っている時間はないわ。この現場を調べる」
「だが、彼は——」
「死んでいる人間からは、何も聞けない。でも、残されたものからは聞ける」
フィーネは死体を避けて部屋に入り、冷静に周囲を観察し始めた。壁、床、家具。その目は、情報屋のものだった。
「プロの仕事ね。傷は一撃。騎士団の暗殺者……いえ、暗殺を請け負う部門がある」
「そんなものが存在するのか」
「表向きは存在しない。でも、私は知っている」
フィーネの声が、わずかに硬くなった。三年前の事件と、何か関係があるのだろう。
「もう一人の証人、エリオも危ないわ。いえ、もう消されているかもしれない」
レインは死体の傍らに膝をついた。マルコの顔は、苦悶の表情を浮かべていた。最期に、何を思ったのだろう。何を言おうとしていたのだろう。
「……すまない」
小さく呟いた。この男を巻き込んだのは、ガルディスだ。だが、救えなかったのは自分だ。
その責任を、レインは背負うことにした。
【手紙の断片】
「レイン、こっちを見て」
フィーネの声で、レインは顔を上げた。
彼女は部屋の隅にしゃがみ込み、床板の一枚に手をかけていた。板が浮いている。隙間がある。
「隠し場所ね。こういうのは、情報屋の勘で分かるの」
フィーネが床板を持ち上げると、その下に小さな空間があった。中に、何かが入っている。
紙だ。
フィーネが取り出したのは、手紙の断片だった。大部分が破られ、燃やされた痕跡もある。だが、いくつかの切れ端が残っていた。
「誰かが処分しようとしたけど、完全には消せなかった」
レインは傍らに膝をつき、断片を覗き込んだ。インクは薄れているが、いくつかの単語が読み取れる。
「……『計画』」
「ここにも。『北の砦』」
フィーネが別の断片を指さした。そして、最も状態の良い切れ端を持ち上げる。
「これを見て」
封蝋だ。手紙の封を閉じていた蝋の欠片。その表面に、紋章が刻まれている。
見覚えのある紋章。
二頭の獅子が剣を交差させた意匠。ガルディス・ヴェルムント家の家紋。
「間違いない。これはガルディスからの手紙だ」
レインの声が震えた。怒りではない。確信だ。ガルディスは証人に手紙を送っていた。そして、証人を消した。計画的に、周到に。
「『計画』『北の砦』……。これが何を意味するのか、まだ分からないけど」
フィーネが断片を慎重に集め、懐にしまう。
「少なくとも、ガルディスがただの偽証者じゃないことは確かね。もっと大きな何かを企んでいる」
その時だった。
窓の外で、足音がした。複数。規則的な歩調。
——騎士団の巡回だ。
レインとフィーネは同時に顔を見合わせた。動きを止め、息を潜める。
足音が近づいてくる。そして、窓の外で止まった。
「おい、この家……ドアが開いてるぞ」
男の声。若い騎士の声だ。
「中を確認するか?」
「ああ。最近、この辺りで不審者の目撃情報があった。反逆者かもしれん」
レインは腰を浮かせた。逃げなければ。だが、出口はドアしかない。窓は——
騎士が窓から中を覗き込んだ。
目が合った。
「——見つけたぞ! 反逆者だ!」
叫び声が上がった。