公爵様が別の令嬢に口づけしたので家出したら、王都の門を出る前に捕まりました
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 公爵様が別の令嬢に口づけしたので家出したら、王都の門を出る前に捕まりました
本文
「今夜中に、あの娘は切る」
扉の向こうで、恋人の声がした。
聞き間違えるには、低すぎて、冷たすぎた。
私はその場で息を止めた。喉がきゅっと縮む。胸の真ん中に、薄い刃を差し込まれたみたいだった。しかも続けて見てしまったのだ。応接間の半開きの扉の隙間から、リオンが金髪の令嬢の手を取り、その甲に唇を落とすところを。
はい、無理。
無理です。終了です。
昨日まで、あんなに「君だけだ」と言っていたくせに。私の髪を撫でる手つきで、私以外に触るなんて反則でしょう。しかも「切る」って何。恋人を。雑草みたいに。
涙は出なかった。かわりに、頭が妙に冴えた。
よし。じゃあ家出してやる。
私は自室に駆け戻って、旅行鞄に必要最低限を詰めた。財布、下着、頑丈な靴、薬草ナイフ、日焼け止め、非常食の蜂蜜ビスケット。あと腹が立ったので、彼がくれたリボンは置いていく。いや、捨てるのは負けた気がするから机にきっちり畳んで置いた。礼儀は守る。悔しいけど。
私は辺境伯家の末娘で、今は王都の公爵邸に住んでいる。表向きは公爵令息リオン・アルヴェーンの婚約者候補の一人――ではなく、薬草管理係だ。建前がひどい。実際には半年前から恋人だった。隠していたのは、彼の家格が高すぎるから。公爵家の次期当主と、辺境上がりの子爵にも満たない家の娘。釣り合わないなんて、私がいちばん知っている。
知っていた、のに。
裏口に回る途中、侍女のマルタが目を丸くした。
「セシリア様、その鞄は」
「家出」
「軽っ」
「重いと逃げにくいの」
「追われる前提なんですか」
「追ってこなかったら、そのときは泣く」
言った瞬間、胸の奥がずきんとした。
冗談のふりをしたのに、自分で刺さる。最悪だ。
マルタは何か言いたげだったけれど、結局、小さくため息をついて銀貨を二枚握らせてくれた。
「南門は見張りが多いです。西門へ」
「好き」
「戻ってきたら一発ぶっていいですか」
「内容次第で」
そして私は、本当に西門まで逃げ切った。
行ける。いけるかもしれない。少なくとも王都を出て、温泉のある隣町で三日くらい傷心を煮込むことは可能だ。
そう思ったところで、頭上に影が差した。
嫌な予感って、当たる。
見上げた空に、黒い翼竜。
「……うそでしょ」
王都上空を私用で飛ぶな。税金か。いや公爵家の私費か。どっちでも腹立つ。翼竜は門の外の草地に降り、銀灰色の外套を翻した男が降りてくる。顔が良い。腹が立つくらい顔が良い。私の恋人、だった男――リオンだ。
「セシリア」
「来ないでください、裏切り者」
「その一言で済ませるには事情が多い」
「じゃあ長く苦しんでください」
踵を返したのに、三歩で腕を取られた。強くない。けれど絶対に離さないつかみ方だった。手袋越しでも熱い。くやしい。覚えている。この指の温度。
「放して」
「放したらまた逃げるだろう」
「当たり前でしょう。恋人を切る男のそばになんていたくありません」
「……誰を?」
彼の眉がぴくりと動く。演技ならアカデミー賞をあげたい。異世界にあるか知らないけど。
「聞きました。『今夜中に、あの娘は切る』って。しかもその直後に、金髪の令嬢に口づけまでしていた」
「甲にだ」
「部位の問題ですか!?」
「大問題だ。君へのものと同列にされては困る」
顔が熱くなる。
こういうところがずるい。責めているのに、平然と私の心臓を殴ってくる。
でも、そこで流されるほど甘くない。今日は怒っているのだ。ちゃんと。
「じゃあ何ですか。説明してください」
「先に言う。切るのは君じゃない」
「じゃあ誰」
「私にしつこく縁談を持ち込んでいた、ハイルン侯爵家の令嬢だ」
「……は?」
風が止まったみたいに、耳がしんとした。
彼は私の手首をつかんだまま、低く続ける。
「今日、正式に断るつもりだった。あの令嬢の父親が、君の実家の借財を肩代わりにして縁談を押し込んできたから」
「え」
「君には言えなかった。君はきっと、自分のせいで家に迷惑がかかると思う」
思うに決まっている。
今この瞬間だって思っている。胃のあたりが冷たくなった。
「甲への口づけは、断りの前の社交儀礼だ。向こうが最後の面談を望んだ。君に誤解される可能性は考えたが、まさか家出するとは」
「しますよ! 恋人の声で『切る』なんて聞いたら!」
「だから誰を切る話なのか確認してから逃げろ」
もっともで腹が立つ。
私は黙り込んで、視線をそらした。草の匂いがした。夕方の風が頬に冷たい。
リオンの指先が、つかむ力を少しだけ緩める。
「……それと、もうひとつ」
「まだあるんですか」
「今夜、父に話すつもりだった」
心臓がどくんと鳴った。
嫌な予感と、期待は、似た場所を刺す。
「何を」
「君を薬草管理係としてではなく、私の伴侶候補として迎えたいと」
息が、今度は別の意味で止まる。
目の前が少し白くなった。さっきまで怒っていたのに、そんなの卑怯だ。順番が悪い。最悪だ。
「……でも、私は辺境の娘で」
「知っている」
「公爵家にはもっと相応しい方が」
「知っている」
「なのに?」
「それでも君がいい」
短く、断ち切るように言われて、胸の奥がぐらついた。
この人はこういうときだけ、信じられないくらいまっすぐだ。
「君が私の屋敷の薬草庫を勝手に並べ替えたときから、ずっと面倒だった」
「告白の語彙がひどい」
「面倒なくらい目で追った。面倒なくらい他の男に腹が立った。面倒なくらい、君がいない部屋は静かすぎる」
笑いそうになるのに、先に涙がにじんだ。
悔しい。さっきまで家出する気満々だったのに。
「セシリア、君はよく自分から逃げる。家格からも、好意からも」
「……逃げたのは今、あなたからです」
「追った」
即答だった。
その一言が、いちばん効いた。
私は唇を噛んだ。泣き顔なんて見せたくないのに、視界がもうだめだ。ぼやける。ほんとうに、ほんとうにずるい。
「すぐ自分のものにするみたいに言わないでください」
「しない」
彼ははっきり言った。
そのあと、珍しく少しだけ困った顔をする。
「だから追いついた今、改めて頼む。今夜だけでも戻って、私の話を最後まで聞いてほしい。父への話も、君の家への手当ても、全部建前なしで説明する」
「……それは、命令?」
「懇願だ」
公爵令息がそんな顔をするのは反則だ。
しかも往来の外れ、夕暮れの草地で。翼竜まで黙って見ている。なんなのこの状況。逃亡劇の締めとして絵面が強すぎる。
私は鼻をすすって、彼の外套の裾をつまんだ。
「三つ条件があります」
「言って」
「ひとつ、もう聞き間違えそうな言い方をしない」
「努力する」
「ふたつ、別の令嬢の手に口づけするなら先に私に許可を取る」
「それは二度とない」
「みっつ――」
ここで急に喉が詰まった。
言いたいのに、恥ずかしくて、声が裏返りそうになる。
「みっつ?」
「……追いかけてくるなら、最後までにしてください」
リオンが目を見開く。
次の瞬間、どうしようもなく甘い顔で笑った。
「最初からそのつもりだ」
それから彼は、いきなり抱きしめたりはしなかった。
ただ、私の震えていた指先を、自分の手袋の中にそっと包んだだけだ。帰り道のあいだじゅう、離さずに。
王都の門が夕焼けの中で赤く見えた。
家出は失敗。完全敗北。けれど少なくとも、捕まったのは檻に戻されるためじゃない。
隣に戻るためだ。
あとでマルタには一発ぶたれた。
内容次第と言ったから、約束どおりである。
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