辺境伯の屋敷に転がり込んだら、追い出されるはずが追いかけられた件
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 辺境伯の屋敷に転がり込んだら、追い出されるはずが追いかけられた件
本文
「出ていけ」
第一声がそれだった。
扉を開けた瞬間、顔も見ずにそう言われた。私はまだ、荷物を両手に抱えたまま玄関に立っていた。
「えーと」と私は言った。「初めまして?」
「出ていけと言った」
「聞こえてます。でも出ていきません」
沈黙。
辺境伯ゼファー・ドルンハルト、二十九歳。北の最果て、霧の山脈を背負った屋敷の主。黒い軍服のまま書類を持って廊下に出てきた彼は、私を見て、明確に顔をしかめた。
私はルナ、二十二歳。元・王都の仕立て屋の娘。転生チート能力ゼロ。でも腕力だけは前世の体育会系が残っていて、荷物を両手に抱えたまま一時間歩いてきた。
「あなたの父親から、あなたの世話係として派遣されました」
「父は死んでいる」
「……あ」
「十年前に」
「……失礼しました、では——誰の指示で?」
「知りません。出ていけ」
「荷物が重いので、とりあえず中に入れてください」
私は返事を待たずに扉を抜けた。
「おい」
「はい」
「今、勝手に入ったぞ」
「気づいてました」
---
なぜこうなったかというと、三日前に婚約破棄された。
相手は王都の商会の御曹司で、理由は「もっと上の縁談が来た」。それだけ。五年間の約束が、それだけで終わった。
呆然としていたら、幼馴染のアルマが「北の辺境伯が家政婦を募集してる、気分転換に行ってきたら」と求人票を押し付けてきた。
私は次の日、荷物をまとめて馬車に乗っていた。
失うものが何もないと、人間は意外と行動が早い。
---
屋敷の中は、ひどかった。
ひどい、とは汚いのではなく——人の気配がなかった。広い。広すぎる。家具は上等で、埃もない。でも、生活の音がしない。温かい匂いがしない。
「使用人は?」
「いない」
「全員?」
「全員」
「なぜ」
「うるさいから」
なるほど。そういう人か。
「わかりました。では私が全部やります」
「断る」
「でも求人票には——」
「撤回した」
「撤回する前に来ました」
ゼファー様はこめかみを押さえた。
「……頑固だな」
「婚約破棄の翌日に辺境まで来た女ですよ。今更です」
言ってしまった。
彼の目が、一瞬だけ止まった。
「……婚約破棄」
「聞かなかったことにしてください」
「聞かなかったことにはできない」
「できます。耳に蓋をしてください」
「そんな蓋はない」
口が達者だ、この人。
---
その日から、なんとなく居座ることになった。
ゼファー様は毎朝「出ていけ」と言った。私は毎朝「はい」と返事だけして、朝食を作った。
彼は最初の三日間、食堂に来なかった。でも朝食の皿は、毎回空になって台所に戻ってきた。
食べてるじゃないか。
「おいしいですか」と聞いたら、「普通だ」と言われた。
「普通においしい、という意味ですか」
「普通だと言った」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「受け取りました」
彼は書類に目を戻した。耳の先が、少しだけ赤かった。
見えてますよ、それ。
---
二週間が過ぎた頃、問題が起きた。
王都から手紙が届いた。差出人は——元・婚約者の御曹司。
内容は、「やっぱり縁談がダメになった、戻ってきてほしい」。
私は台所でそれを読んで、五秒考えて、薪ストーブに入れた。
「何を燃やした」
背後でゼファー様の声がした。
「手紙です」
「誰からの」
「元・婚約者から」
沈黙。
「……内容は」
「聞きますか?」
「聞かない」
「燃やしたので読めません」
「そうか」
彼は台所の入り口に立ったまま、動かなかった。珍しい。いつもは用があれば言い捨てて去るのに。
「戻らないのか」と、彼は言った。
「戻りません」
「なぜ」
「煮炊きしてしまった後なので」
「料理の話ではないだろう」
「……わかってます」
私は鍋をかき混ぜた。
「五年一緒にいて、上の縁談が来たら即切られる男のところに、戻る理由がありません。それだけです」
「強いな」
「強くないです。ただ——ここが居心地いいので」
言ってから、しまったと思った。
彼は何も言わなかった。でも、台所から出なかった。
夕飯の間中、ずっとそこに立っていた。
……何してるんですか、あなた。
---
一ヶ月が経った頃、王都からアルマが訪ねてきた。
「リリちゃん! 元気? ちなみに辺境伯様ってどんな人——」
アルマは玄関で固まった。
「……誰だ」
ゼファー様が、玄関でアルマを迎えていた。
「えっ、あの、リリの幼馴染で——」
「ルナなら今、屋根の修繕中です」
「……屋根?」
「北側の瓦が二枚ずれていたので、登ると言い張った。止めたが聞かなかった」
「……あの子相変わらず……」
私が屋根から降りてくると、アルマがすごい顔で私を見ていた。
「ねえリリ、なんか、辺境伯様が普通に家の説明してくれたんだけど」
「そうでしたか」
「『止めたが』って言ってたよ? 心配してたってことだよね?」
「……深読みです」
「あとなんか私のことジロジロ見てたんだけど」
「客人だから確認したんでしょう」
「リリのことが心配で確認したんじゃないの?」
「違います」
「……絶対違わないよ」
---
アルマが帰り際、ゼファー様に言った。
「ルナ、王都でお嫁さんの話が来てますよ。御曹司より家格も上の方で。どうするか迷ってるみたいで——」
私の背骨が、ぴんと伸びた。
アルマ。お前は何を言っている。
「へええ」とアルマは続けた。「辺境まで来ちゃったから断りにくいって言ってましたけど、返事次第ではすぐ王都に戻るかもですよ! 辺境伯様さえよければですけど!」
ゼファー様は、何も言わなかった。
ああ、やっぱり何も言わないか。そりゃそうだ。私はただの自称家政婦で、求人を無視して転がり込んだだけで——
「断れ」
低い声だった。
「……え?」アルマが目を丸くした。
「その縁談は断れ、と言った」
「え、あ、でも、えっと——理由は?」
ゼファー様はアルマから私に視線を移した。
「屋根を修繕できる嫁が、そうそういると思うか」
「……それ、理由になってますか!?」
「なる」
「ならないと思います!!」
私は思わず叫んだ。
「じゃあ別の理由がある」
「聞かせてください」
「……毎朝の飯が、普通以上においしい」
……それ一ヶ月前も「普通だ」って言いましたよね!!
「それだけですか!?」
「それだけじゃない」
「じゃあ言ってください!!」
彼は少しの間、私を見ていた。アルマが固唾を飲んでいた。馬車の御者も固唾を飲んでいた。
「……お前が燃やした手紙の内容を、私は三日間気になって眠れなかった」
場が静止した。
「辺境伯様!!」アルマが叫んだ。「それ告白じゃないですか!!」
「違う」
「どう聞いても告白です!!」
「心配していただけだ」
「心配も告白の一種です!!」
「うるさい」
「うるさくない!!」
私は今、どういう顔をしているのか自分でわからなかった。顔が熱い。背中も熱い。
「……あの」と私は言った。
「なんだ」
「三日間、眠れなかったんですか」
「……そうは言っていない」
「言いました。今」
彼は視線を逸らした。今度は耳だけじゃなく、首まで赤かった。
この人、そういう人だったのか。
「ゼファー様」
「なんだ」
「縁談、断ります」
「そうしろ」
「でも」
「でも?」
「理由がほしいです。屋根修繕と飯以外の」
長い沈黙。アルマが祈るような顔をしていた。
「……いなくなると、困る」
「もう少し具体的に」
「うるさい奴だ」
「教えてくれるまで聞きます」
「……朝、台所から音がしないと——」
言いかけて、止まった。
「なんですか」
「……起きる気がしない」
アルマが天を仰いだ。私も少し天を仰いだ。
「それ、私がいなくなると困るってことですよね」
「そう言った」
「……わかりました」
「断るか」
「断ります。縁談を」
「……そうか」
「でも」
「また『でも』か」
「条件があります」
彼の眉が上がった。
「……条件」
「私をちゃんと口説いてください。屋根修繕と飯と、眠れなかった話だけじゃ、王都の縁談断る理由として弱い」
「……今、断ると言ったばかりだろう」
「断ける理由が欲しいんです。胸を張って」
また沈黙。
ゼファー様は深く息を吐いた。
「……面倒くさい女だ」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「受け取りました」
彼はしばらく黙って、それから、
「今夜、食堂で飯を食う」
と言った。
「はい」
「一緒に、食う」
「……はい」
「それで足りるか」
私は少し考えた。
「今夜は足りません。でも始まりとしては、十分です」
アルマが後ろで小さくガッツポーズをしていた。
御者も小さくガッツポーズをしていた。
ゼファー様はそれを見て、深く、深く、ため息をついた。
---
その夜の食卓は、二人だった。ゼファー様は無口で、私は少し喋りすぎた。でも最後に、「明日も作れ」と言われた。
明日も、という言葉の重さを、私はしばらく噛んでいた。
これが求婚なのかどうかは、まだわからない。でも——たぶん、そういう方向に向かっている。
向かっていると、信じることにした。
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