氷鐘の夜に花嫁行列から逃げた代筆師は、冷酷公爵の“偽の婚約誓約書”を書かされる
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 氷鐘の夜に花嫁行列から逃げた代筆師は、冷酷公爵の“偽の婚約誓約書”を書かされる
本文
冷たい。
鐘の音が、雪まじりの夜気を細く裂いていく。
白い息。絹の裾。磨かれた回廊の床を、私は花嫁靴のまま全力で走っていた。
しかも背後から、「花嫁候補が逃げたぞ!」という実にありがたくない怒号つきで。
なので今夜の私は、たぶん運命に追われる側ではなく、書き直す側だ。
王都大神殿の北回廊。
私はネリサ・フィオル。二十四歳。没落子爵家の娘で、今は神殿付きの代筆師だ。美しい誓約書、呪的効力を持つ婚姻証文、王族の儀礼文……そういう、人の人生を決める紙ばかり書いている。
そして今夜、私自身がその紙に書かれそうになって、逃げた。
「止まりなさい、ネリサ!」
神官長の声が飛ぶ。
嫌だ。止まったら終わる。
というのも今夜、私は病に倒れた聖女の代役として“花嫁候補の列”に立たされ、王弟殿下との政略婚の候補にねじ込まれたのである。代筆師なのに。なぜ。以上説明は長くなったが、神殿は人手不足のとき、たまに正気を失う。
角を曲がった瞬間。
どん。
硬い胸板。黒い外套。
私は見事に誰かへ激突し、そのまま反動で後ろへ転びかけ――
ふわ、と。
腰が支えられた。
「……ずいぶん勇ましい花嫁だな」
低い声。
静かで、意地が悪くて、耳に触れた途端ぞくりとする声。
見上げれば、夜そのものみたいな男がいた。
銀灰の瞳。端正すぎる口元。肩に白い雪が一片だけ残っている。
ユリヴァルト公爵。二十九歳。王国北辺を守る“白狼公爵”。王族ですら少し声を選んで話す相手。
最悪だ。
よりによって、いちばん逃げ切れない男に捕まった。
「離してください」
「追手付きのご令嬢に?」
「今夜だけはご令嬢ではありません」
「なるほど。では何だ」
「被害者です!」
言い切った。
公爵の眉が、ほんの少しだけ動く。
その直後、回廊の向こうから、わらわらと神官と衛兵の足音。
やばい。近い。
私は反射で公爵の外套の陰に潜り込んだ。
やってから気づく。近い。近すぎる。香が。冬の木と鉄みたいな、冷たいのに落ち着かない匂いがする。
「……命知らずだな、君は」
頭の上で、彼が小さく息を吐く。
呆れているくせに、どこか笑っている音。
追手が来る。
公爵は一歩だけ動き、私を完全に壁際へ隠した。広い肩が前へ出る。たったそれだけで、世界が遮られる。
「ユリヴァルト公爵閣下! こちらへ花嫁候補が――」
「見ていない」
短い。
冷たい。
そして、問答無用。
衛兵たちが言葉を呑む気配がした。
すごい。権力って、すごい。
足音が去るまで、私は息もまともにできなかった。
公爵の指が、私の腰の少し上で止まっている。触れているのに、抱き寄せてはいない。落ちない程度にしか支えない、その距離が、むしろ心臓に悪い。
「もう行った」
「……はい」
「だが君はまだ私にしがみついている」
はっとして飛びのいた。
ぼん、と頬が熱くなる。頭のてっぺんから湯気が上がりそうだ。
「し、失礼しました」
「謝罪は後でいい。代わりに説明を」
逃げられない。
目がそう言っていた。銀灰の、きれいで、少しも逃がす気のない目。
仕方なく、私は事情を話した。聖女の代役にされたこと。病弱な兄の薬代のため、神殿を辞められないこと。今夜の候補入りが急すぎたこと。
そして最後に、小さく言った。
「……私、王弟殿下の花嫁になりたくありません」
「なぜ」
その問いは、意外なくらい柔らかかった。
「好きでもない人の名を、自分の筆で誓約書に書きたくないからです」
公爵の目が、ほんのわずかに細くなる。
何かを測るみたいに。
それから彼は、私の左手首を取った。す、と。滑らかに。
近い。
鼓動が、どく、どく、と自分の耳の裏で鳴る。
「代筆師」
「は、はい」
「ならば今夜、ひとつ契約を結べ」
彼が差し出したのは、一枚の封蝋付き羊皮紙だった。
婚約誓約書。だが名欄は空白。
「私の偽の婚約者になれ」
「……はい?」
間抜けな声が出た。
当然である。
「王弟の候補から外れるには、より強い縁談の既成事実が要る。私なら足りる」
「た、足りますけど、足りすぎです!」
「嫌か」
嫌では、ない。
困るだけで。ものすごく。
「条件がございます」
「言え」
「偽は偽のまま。触れるのは必要最低限。人前で甘い演技は……あまり上手くありません」
「心得た」
「それと、期間は春まで」
「短いな」
「充分長いです!」
ぴしゃりと言い返したら、公爵の口元が初めて、ほんの少しだけ上がった。
笑うんだ、この人。
その事実だけで、胸が妙にきしむ。
契約は成立した。
翌日から私は、公爵邸で“仮の婚約者”として振る舞うことになった。
噂は一日で王都を駆け巡った。神殿の逃亡花嫁を白狼公爵が拾った。拾ったって何。犬猫じゃない。
けれどユリヴァルトは、契約を驚くほど律儀に守った。
人前では手を差し出す。階段では腰に手を添えるふりをする。夜会では必ず隣を空ける。
だが二人きりになると、一歩ぶん距離を取る。絶対に越えない。越えさせない。
それが、少し痛い。
私ばかり意識しているみたいで。
「閣下は、本当にお優しいのですね」
ある晩、書斎で私が呟くと、彼は書類から目を上げもしなかった。
「優しくはない」
「では親切で」
「それも違う」
「では、なぜ」
さら、とペン先が止まる。
沈黙。
暖炉の火が、ぱち、と鳴る。
「君は字がうまい」
「……はい?」
「私の名を、美しく書いた」
それだけ。
それだけなのに、顔が熱い。何その褒め方。ずるい。
だが痛い場面は、その後に来た。
神殿へ残した荷物を取りに戻ったとき、私は神官長と王弟の会話を聞いてしまったのだ。
「公爵が欲しいのは娘ではなく、古文書庫への出入り権でしょう」
「代筆師なら封印庫の鍵言葉を知っている。利用価値は高い」
足が止まる。
血の気が引く。すう、と。
そうか。
私はまた、選ばれたのではなく、使われただけなのか。
確かに私は知っている。王家婚姻録の封印を解く筆記呪。没落してなお、代筆師として神殿に置かれているのは、その技術があるからだ。
だから公爵は。
だからあの契約は。
帰りの馬車で、私は一言も喋れなかった。
向かいの彼は何も聞かなかった。聞かないくせに、膝の上の指先だけが、いつもよりきつく組まれている。
「誤解している顔だな」
屋敷に着いて、最初の言葉がそれだった。
「しておりません」
「嘘が下手だ」
「閣下ほどでは」
言い返したのに、声が掠れた。
悔しい。ばれている。
「ならば答える。私は君に封印庫を開かせる気はない」
「ですが神殿では――」
「他人の推測だ」
彼が一歩、近づく。
私は一歩、下がる。
壁。終わった。
逃げ場を失ったのに、彼はそれ以上来ない。指一本ぶん。吐息が届きそうで届かない、そのぎりぎりで止まる。
「君が望まぬことを、私は契約に混ぜていない」
「では、なぜ私を」
聞いてしまった。
本当は、聞きたくなかったのに。
彼の睫毛が、一度だけ伏せられる。珍しく、迷うみたいに。
「……最初は、君を王弟から外すためだ」
やはり。
胸の奥が、ひやりとする。
「だが、それだけなら他の女でもよかった」
息が止まる。
「神殿で逃げながらも、誓約書だけは自分で書きたくないと言っただろう」
低い声。
近い。
心臓がうるさい。
「私は十年前、同じ言葉を聞いたことがある」
「十年前……?」
「冬の施療院で、薬代の代わりに契約書を書かされそうになって泣いていた少女がいた」
思い出す。
白い廊下。雪。薬草の匂い。兄を抱えていた幼い私。
そこへ外套を掛けてくれた、無口な年上の少年。
「まさか」
「そのまさかだ」
最後のどんでん返しは、そこだった。
私だけが覚えていなかった。私の人生の底で、たしかに一度、この人に救われていた。
「君は泣きながら言った。『好きでもない名前の横に、自分の名前を書きたくない』と。私はその生意気な台詞を、ずっと忘れなかった」
ずっと。
その二文字が、やけに重い。
「だが身分が足りなかった。私はまだ家督前の次男で、君を囲う力もなかった」
囲う。
その単語に、ぞく、とする。
「だから今まで待った。君が選べる立場になるまで」
彼の手が上がる。
頬へ。
けれど、触れない。あとひと息のところで止まる。
「……閣下は、ずるいです」
「知っている」
「最初からそう言えばよかったのに」
「言えば、君は逃げただろう」
否定できない。
大いに逃げた。
「今も逃げるか」
問い。
静かな圧。
でも、選ぶのは私に委ねられている。最初から最後まで、その形だけは崩さないまま。
私は、息を吸った。
それから自分で、最後の一歩を詰めた。
「……春まで、でしたね。契約」
「ああ」
「では更新を希望します」
初めて。
ユリヴァルトの目が、はっきり揺れた。
「条件は」
「次の誓約書は、偽ではなく」
言い切る前に、指先が絡め取られる。
強くはない。逃がさないだけの力で。
「それ以上は私に言わせろ、ネリサ」
いつの間にか、閣下ではなく名前で呼ばれていた。
遅い。ずるい。甘い。
その夜、正式な婚約はまだ結ばなかった。
ただ、彼は私の代筆机の前に新しい羊皮紙を置き、こう言ったのだ。
「今度は君の望む言葉で書け。私が署名する」
だから私は、少しだけ意地悪を返した。
「では、最後の署名だけ空けておきます」
「なぜ」
「そこは、私があなたを選んだあとに埋める場所です」
一拍。
二拍。
それから白狼公爵は、まるで負けたみたいに、静かに笑った。
――春は、たぶんすぐ来る。
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