婚約者を奪われるはずだった聖女見習いは、追放前夜に冷酷辺境伯の“偽装逃亡”へ巻き込まれる
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 婚約者を奪われるはずだった聖女見習いは、追放前夜に冷酷辺境伯の“偽装逃亡”へ巻き込まれる
本文
冷気。
鐘の音。石畳に散る、白い息。
夜の神殿は青く沈み、尖塔の影が長く長く伸びて、まるで誰かの秘密を足元から絡め取るみたいだった。嫌な感じだ。とても。
その裏門で私は、婚約者に腕を掴まれたまま、追放命令書を胸に押しつけられていた。
「エレノア。君には、辺境修道院へ移ってもらう」
紙の角が肋骨に当たる。地味に痛い。
もっと痛いのは、彼の隣にぴたりと寄り添う新聖女候補、アニスの微笑みだ。柔らかい。可愛い。勝者の顔である。
「君の祈りは古いんだ。神殿は変わる。……わかるだろう」
わかる。
要するに私は、邪魔になったのだ。
私はエレノア。二十一歳。神殿育ちの聖女見習い。
祝福は弱い。愛想も控えめ。だが浄化だけは妙に得意。だから長く使われ、最後に静かに外される。そういう立場の女だった。
「承知しました」
声は出た。ちゃんと。えらい。
なのに喉の奥が熱い。情けない。泣くな、今じゃない。
「聞き分けがよくて助かるよ」
元婚約者――いや、まだ正式には破棄前の婚約者、フェリクス祭司補がほっと息をつく。
その顔を見た瞬間、胸の底がすうっと冷えた。ああ、この人は本当に、私が悲しむかどうかではなく、面倒が減るかどうかしか見ていない。
そのとき。
――ばさり。
黒い外套が、頭上から落ちてきた。
視界が一瞬、闇になる。羊毛の匂い。革の匂い。雪の夜の匂い。
「その紙は、まだ受理されていない」
低い声。冷えた刃みたいな声が、すぐ横で鳴った。
外套を払う。
そこに立っていたのは、神殿にもっとも似つかわしくない男だった。
黒髪。長身。灰銀の瞳。無駄なく美しい顔立ちに、親切という単語だけが絶望的に似合わない。
ラウル・ディアス辺境伯。北域の防衛を預かる若き領主にして、王都では“氷狼伯”なんて呼ばれている人だ。
そして困ったことに。
私の追放先である辺境修道院の、実質的な保護者でもあった。
「……辺境伯様」
フェリクスの顔色が変わる。さっと。見事に。
身分差が音を立てた気がした。
「神殿人事に、世俗の貴族が口を挟むおつもりですか」
「口ではない。手だ」
ラウル様は、私の胸から命令書を抜いた。するり、と。
指先が紙越しに触れそうで、触れない。たったそれだけで、なぜか脈が跳ねた。今その心臓の反応は要らない。
彼は命令書にざっと目を通し、薄く笑う。
「日付が明日だ」
「は?」
「追放は明朝。つまり今夜の彼女はまだ神殿所属だ。私が借りる」
「……はい?」
私も言った。はい? である。
フェリクスが眉を吊り上げる。
「借りる、とは」
「神殿の裏門から、身元不明の者が北塔へ出入りしている」
空気が変わった。
アニスの笑みが凍る。フェリクスの目が泳ぐ。私はそこではじめて気づく。これは偶然の通りすがりではない。
「聖具庫の浄化ができる者が必要だ。彼女を連れて行く」
「しかし、その者は明朝には――」
「明朝までは、おまえのものではない」
ひやり。
言葉そのものは冷たいのに、なぜか胸の奥がじわ、と熱くなる。困る。非常に困る。
フェリクスが何か言い返そうとした、その前に。
(行きなさい)
耳の奥で、声。
神殿の守護像に宿る、古いものの声だ。普段は滅多に喋らないくせに、こういう時だけ妙に断定的。
(あの男のそばにいなさい。今夜だけは)
ぞくり、と首筋が粟立つ。
私は守護像の声を、人に言ったことがない。信じられないからではない。信じられすぎるからだ。聞こえる女は、たいてい囲われる。
「……わかりました。同行します」
私がそう言うと、フェリクスがあからさまに安堵した。
その顔が、最後のひと押しになった。
ラウル様は一度だけ私を見た。
視線は鋭いのに、急かさない。不思議な人だ。
「来い」
短い。
けれど歩幅は、私に合わせて遅くなった。
神殿北塔。閉ざされた回廊。消えかけた燭台。
途中、彼は一度もこちらを振り返らない。なのに、角を曲がるたび人ひとり分、きっちり前に出る。風よけみたいに。護衛みたいに。……建前だけの借り出しのくせに、ずるい。
「辺境伯様」
「ラウルでいい」
「よくありません」
「では好きに呼べ」
「困らせるおつもりですか」
「最初からそう見えるか」
見える。
けれど彼の横顔は無表情で、冗談なのか本気なのか少しもわからない。
北塔の聖具庫前で、彼は立ち止まった。
床に、薄い銀粉が撒かれている。見慣れた浄化封じだ。祈りの気配を鈍らせる細工。私にしかわからない程度の、ごく微細な汚れ。
「……あ」
「気づいたか」
「はい。これ、外から持ち込まれたものです。神殿のものではありません」
ラウル様が、かすかに目を細める。
その反応でわかった。彼は答え合わせをしている。私を試していたのだ。
「私を疑っておいででしたか」
「半分」
「残り半分は」
「見込んでいた」
心臓が、どく、と鳴る。
こういう言い方は卑怯だと思う。冷たい顔で言うから、余計に。
私は銀粉を指でなぞり、浄化の式を落とした。
ぴし、と空気が鳴る。扉の向こうから、淀んだ気配があふれた。誰かが禁制の祈具を動かしている。
「中にいます」
「何人だ」
「三……いえ、四」
言い終える前に、ラウル様が扉を開けた。迷いがない。
中では黒衣の男たちが聖具箱を運び出そうとしていた。ひとりは祭司補の印章付き。つまり内通者がいる。
「ちっ」
「捕まえろ!」
どたん、がしゃん、ばき。
美しい聖具庫は一瞬で修羅場になった。
私は壁際へ下がる。邪魔にならないように。
なのに、逃げたひとりがこちらへ来た。短剣。速い。嫌な軌道。
「エレノア!」
ラウル様の声が鋭く飛ぶ。
同時に、腕が引かれた。
強くはない。けれど抗えない。
背中が彼の胸へぶつかる寸前で止まる。外套の中に囲い込まれるみたいに。熱い。硬い。息が近い。心臓がうるさい。自分のが。
短剣は床に落ちた。
ラウル様が投げた短剣で弾かれていた。いつのまに。
「無茶をするな」
「していません、巻き込まれました」
「口が回るなら無事だな」
「誰のせいで」
「私のせいなら後で詫びる」
その“後で”が妙に耳に残る。
後で、がある前提なのだ。私と彼に。
騒ぎはすぐ収まった。
黒衣の男たちは騎士に押さえられ、内通者の祭司補の名も出た。フェリクス。やはり。
新聖女候補アニスは、彼に言われるまま書簡を運んでいただけらしい。悪意は薄い。だからこそ、始末が悪い。
「これで追放は撤回ですね」
私がそう言うと、ラウル様は沈黙した。
嫌な予感。すごくする。
「……何ですか、その間は」
「撤回はされる」
「では」
「代わりに君は“証人”になる」
「最悪です」
証人。
つまり神殿に残って、内通の証言をして、恨みも買う。静かに消える予定だった私には重すぎる役だ。
「嫌なら北へ来い」
さらり。
私は目を瞬く。
「証人の保護を名目に、辺境伯領で預かる」
「それ、保護の名目で囲う雑なやり方では」
「そう聞こえるなら失敗だな」
彼は初めて、ほんの少しだけ困った顔をした。
珍しい。びっくりするほど。
「君をすぐ私の側に置きたいわけではない」
「……はい」
「置けば、私が油断する」
意味がわからない。
いや、半分わかる。わかりたくない方向で。
回廊の窓から月明かりが差し、彼の横顔を白く切り取る。綺麗だ。悔しいくらいに。
「神殿に残れば、おまえはまた便利に使われる。北へ来れば、証人として守れる。だが」
一歩、彼が近づく。
近い。まだ触れない。けれど、指先ひとつ動けば外套の端が重なる距離。もどかしい。息が浅くなる。
「北に来れば、今度は私の噂がつく」
「氷狼伯の愛妾、とかですか」
「もっと品のない言い方をされる」
「最低ですね」
「ああ」
なのに彼は平然としている。
私は平然としていられない。頬が熱い。なんでだ。
(選びなさい)
また、耳の奥で守護像の声。
うるさい。今それを言うな。
「……辺境伯様」
「ラウル」
「まだそれを言いますか」
「諦めが悪い質だ」
知っている。たぶん。
今夜だけでわかった。
「一つだけ、聞かせてください」
私は息を整える。
これは大事だ。とても。
「どうして、あの場で私を助けたんですか。浄化役なら他にもいたでしょう」
沈黙。
長い。わざとか。わざとだな、この人。
「二番目の理由は、君が最適だったからだ」
「では一番目は」
「言えば、今夜の建前が崩れる」
どくん。
ひどい。意地悪。わかっているのに言わない。
「では、聞かなかったことにします」
「そうしろ」
それなのに。
彼の手が、私の頬のすぐ横まで上がる。触れない。髪にさえ触れない。けれど逃がさない壁みたいに、そこにある。
「ただし、一つ訂正する」
低い声。近い。
視線が絡む。逃げられない。
「助けたんじゃない。先に連れ出した」
「……は?」
「奪われる前に」
心臓が、盛大に転ぶ。
ぼてっ、と。音がした気がした。私の中で。
それが一段目のオチだった。
私は追放される娘ではなく、神殿と内通者に都合よく使い潰される前に、先に連れ出された側だったのだ。
けれど、まだ終わらない。
翌朝。
神殿は騒然となった。フェリクスは拘束。追放命令は無効。私は証人として王命の保護下――になるはずだった。
なのに、王の使者が告げたのは別の話だった。
「エレノア殿には、北辺巡礼路再建の監査役を命じる。ラウル辺境伯の協力のもと、現地にて任に当たれ」
……監査役?
私が目を丸くしていると、使者はにこりと笑った。
「王太子殿下のご意向です。“神殿に返すな。あの辺境伯なら、ようやく本気で困るだろうから面白い”と」
最低である。王族の感想が。
使者が去ったあと、私はゆっくりラウル様を見た。
彼は珍しく眉間を押さえている。困っている。ほんとうに困っている。
「……ご存じでした?」
「昨日の時点では知らない」
「では今のお気持ちは」
「非常に不本意だ」
「まあ」
「王命は断れない」
「ええ」
「だから君を北へ連れて行く」
「はい」
ここまで聞けば、また建前なのだと思うだろう。
私も、半分そう思った。
でも。
彼は一度、きっちり目を閉じてから言った。
「不本意なのは、命令されて君を連れて行くことだ。……私としては、私の意思で頼みたかった」
静か。
でも、その静けさの下にある熱は、昨夜よりずっと隠せていなかった。
「エレノア。北へ来てくれ」
初めてだ。
命令でも提案でもなく、お願いだった。
「監査役として。証人として。修道院の浄化師として。好きな肩書きを選べ」
「ずいぶん多いですね」
「最後の一つだけ、まだ言っていない」
「何ですか」
彼は少しだけ視線を逸らし、すぐ戻した。
覚悟を決めた人の目だった。
「……私が、帰る場所として望む人として」
息が、止まった。
それから遅れて、全身が熱を思い出す。指先まで。耳まで。喉まで。
最後の反転はそこだった。
私は保護されるのではない。選ばれるだけでもない。彼の帰る場所として、請われている。
ずるい。
優しい。意地悪。甘い。全部まとめて、ひどい。
だから私は、少しだけ顎を上げた。
最後に優位に立つのは、今夜くらい私でいい。
「でしたら、条件があります」
「聞こう」
「北へ着くまで、勝手に庇わないでください。私は自分で立てます」
「……善処する」
「それと」
「まだあるのか」
「あります。触れそうで触れない距離で人を困らせるの、たぶん癖ですよね。あれ、禁止です」
「難しい要求だ」
「認めましたね?」
ほんの一瞬。
ラウル様の口元が、悔しそうに、でも嬉しそうに緩んだ。
「では訂正する。禁止は無理だ。努力する」
「減点です」
「北へ着いたら挽回する」
そんな約束の仕方があるか。
あるのか。あるらしい。困る。
神殿の尖塔の上で、朝の鐘が鳴る。
追放の鐘ではない。出立の鐘だ。
私は彼の差し出した手を見た。大きい。けれど急がない手。
少し迷って、わざと一拍置いてから、自分の指を乗せる。
触れた。
ほんの一瞬だけ。なのに、胸の奥がじゅわ、と甘く疼いた。
ああもう。
辺境の冬は、たぶんとても寒い。
けれど――この人の隣は、少し困るくらい、あたたかい。
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