冷血聖獣長官は厨房娘の弁当を手放せない
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 冷血聖獣長官は厨房娘の弁当を手放せない
本文
第一章
噛まれる、と思った。
白い牙が目の前まで迫って、わたしは熱い蒸籠を抱えたまま固まった。厨房の裏口、雪の匂い、湯気。次の瞬間、巨大な銀毛の聖獣がわたしの胸元ではなく、蒸籠の中の焼きおにぎりへ顔を突っ込んだ。
「待っ――だめ、それ、まだ熱っ」
じゅわっと醤油が焦げる香りが立つ。聖獣は幸せそうに尻尾を振った。神殿じゅうが青ざめる音が、たぶんした。
「……何をしている」
低い声。氷みたいな声。
振り向いた先にいたのは、冬宮聖獣長官ユリウス・ハルトマン。二十九歳。白銀の礼服を一糸も乱さず着こなし、顔立ちまで冷えた刃みたいに整っている男。王都じゅうの令嬢が見惚れて、聖職者たちが背筋を伸ばす相手が、煤けた厨房娘のわたしを見下ろしていた。
終わった。そう思った。
孤児上がりの下働きミレイア、二十歳。聖獣に勝手な物を食べさせた罪で追い出されても文句は言えない。けれどわたしの足元では、傷だらけの幼い聖獣がもう一つ、と鼻先で蒸籠をつついている。空腹で震えていた子だった。見捨てられなかっただけだ。
「申し開きは?」
「……冷えた粥を食べなくて。香りを立てたら、食べるかと思って」
「聖獣の給餌規定を知らないわけではないだろう」
「知ってます。でも、お腹が空いてる顔は、規定でごまかせません」
言い切ってから、自分で青くなる。なんて口を。首が飛ぶ。
けれどユリウス様は怒鳴らなかった。ただわたしの手首を取り、指先に付いた醤油だれを親指でぬぐった。驚いて肩が跳ねる。冷たい指。なのに、触れたところだけ変に熱い。
「火傷している」
「このくらい平気です」
「平気かどうかは、私が見る」
その言い方があまりに当然で、胸がつまる。近い。睫毛の影まで見える距離。聖堂では誰にも触れないと噂の人が、なんで厨房娘の手なんて。
幼い聖獣が、今度は彼の外套をぐいぐい引いた。焼きおにぎりを寄越せと言っているらしい。ユリウス様は一瞬だけ眉を寄せ、それから蒸籠を受け取る。無駄のない所作でひとつ割り、中の具を確かめ、毒見でもするみたいに口に運んだ。
ごくり。わたしの喉が勝手に鳴る。
「……旨いな」
「え」
「聞こえなかったか」
「聞こえましたけど、今、長官様が」
「二度は言わん」
そのくせ残り半分は幼獣の口元へ差し出す。聖獣は嬉しそうにかぶりついた。ついでみたいに見せて、ちゃんと温度を確かめてから。やさしい。あまりにも、隠すのが下手なくらいに。
その日の夜、わたしは処罰ではなく命令を受けた。
「明日から七日間、おまえが聖獣舎の食事を作れ」
「……え?」
「最近、聖獣が儀礼食を食べない。原因を探る」
「わたしが?」
「私の監督下で、だ」
監督下。つまり目の届くところに置く、ということだ。罪人にするなら簡単なのに、そうしない。なのに目は冷たいまま。
扉を出る間際、彼はふと付け加えた。
「明日は弁当にしろ。視察が長引く」
「長官様のぶんも?」
「他に誰がいる」
振り返りもしない背中が、少しだけ速かった。耳が、ほんの少し赤かった気がしたのは、たぶん湯気のせいだ。
――冷たい人ほど、最初のひと口は忘れられない。
第二章
朝霧。馬車。膝の上の重箱。
わたしは揺れる車内で、膝をそろえて縮こまっていた。向かいにはユリウス様。書類を読む横顔はいつも通り冷ややかで、昨夜「卵焼きは甘くするな」と妙に具体的な注文をつけた人と同一人物とは思えない。
「……そんなに見つめるな」
「見てません」
「見ていた」
「お弁当が気になってるのかなって」
「気にしていない」
きっぱり。なのに、その三十秒後には重箱へ視線が落ちる。だめだ、この人、顔が綺麗なのに誤魔化しが下手だ。
視察先の聖獣舎では、王族の守護獣である黒たてがみの獅子たちまで食欲をなくしていた。餌桶には薄い薬臭さ。嫌な匂い。わたしが鼻をしかめると、ユリウス様はそれだけで気づいたようにこちらを見た。
「何かわかるか」
「香りが死んでます。乾いてるだけじゃない。もっと……こう、舌の奥がしびれる感じ」
「やはりか」
彼は短く吐いて、給餌係たちを下がらせた。わたしを庇うように一歩前へ出る。誰の前でも平等に冷たいはずなのに、わたしの前では盾になるのが早い。困る。そんなの、期待するに決まっている。
昼、視察は長引き、雪まで降ってきた。冷え切った指で風呂敷を解こうとすると、ユリウス様が無言でわたしの手を包み込んだ。大きい。硬い。剣を握る手なのに、指先だけ異様に慎重だ。
「長官様?」
「開けられないだろう」
「……はい」
はい、なんて素直に返してしまってから恥ずかしくなる。彼はわたしの指を温めるみたいに一度だけ撫でて離した。それだけなのに、心臓がうるさい。
重箱を開けば、焼き鮭のおにぎり、鶏の照り焼き、出汁巻き、冬菜のお浸し。前世の記憶のかけらから拾った、ちょっと懐かしい味。ユリウス様は周囲の騎士には簡素な携行食を命じておきながら、わたしの弁当だけは自分の隣で食べさせた。
「こちらへ」
「でも、みなさんが」
「聞こえなかったか」
有無を言わせない声。なのに、お浸しを一口食べたあとだけ睫毛がゆるむ。わたしは見逃さない。
「おいしいですか」
「……悪くない」
「出ました、“悪くない”」
「褒めている」
そのあと、彼は獅子型聖獣へわたしの作った肉団子を与えた。聖獣はがつがつ食べた。歓声が上がる。わたしまで嬉しくなって笑うと、ユリウス様は人目のある場所なのに、ほんの一瞬だけわたしの頬に付いた米粒を指で取った。あまりにも自然で、遅れてから熱が来る。
けれど夕刻。王宮から視察団が着く。先頭に立つのは、公爵家の令嬢セシリア様。美しくて、気高くて、誰が見てもユリウス様の隣に似合う人。
「父が申しておりましたの。近々、冬宮と公爵家は縁を結ぶと」
にこやかな声が、胸の柔らかいところへすっと刺さる。わたしの手の中で空の弁当箱が軽く鳴った。指先が白くなる。おかしい。別に、わたしは何でもない厨房娘なのに。
その夜、薬臭さの元が公爵家御用達の穀物庫から出たと知れた。わたしが証言台へ呼ばれかけたとき、ユリウス様は先に口を開く。
「厨房娘ミレイアは明日付で冬宮を去る。以後、この件から外せ」
頭が真っ白になった。
庇ってくれているのか、切り捨てたのか。わからない。わからないまま、彼は一度もこちらを見ない。
でも別れ際、誰もいない廊下の角でだけ、彼はわたしの弁当箱を返さなかった。
「これは預かる」
「返してください」
「嫌だ」
「子どもですか」
「そうかもしれん」
低い囁き。近すぎる吐息。指先が弁当箱の紐を握る力だけ、妙に幼くて必死だった。
――手放すふりをして、手放せないものほど、胸に残る。
第三章
夜半。雪鳴り。
冬宮を去れと言われたのに、わたしは聖獣舎へ戻っていた。返してもらえなかった弁当箱を取りに――半分は口実で、半分は本気。残り半分は、会いたかったからだ。ほんとうに、困る。
けれど聖獣舎の奥で見たのは、血だった。
セシリア様の護衛たちが、暴れた聖獣を装って幼獣を傷つけ、公爵家の穀物庫の証拠を燃やそうとしている。喉の奥が熱くなる。怖い。足が震える。でも、逃げたらあの子たちが死ぬ。
わたしは携えてきた味噌だれの肉団子を床へ投げた。香りがぶわっと広がり、興奮した聖獣たちの鼻先が一斉にこちらを向く。食べものに意識を逸らせる、その一瞬がほしかった。
「ミレイア!」
鋭い声。振り向く前に、黒い外套がわたしを包んだ。ユリウス様だ。彼はわたしを背へ庇い、抜いた剣で護衛の刃を弾く。火花。雪より冷たい眼差し。
「命令を破ったな」
「そちらこそ、追い払った人を巻き込まないでください」
「巻き込むつもりはなかった」
「では、どうしてあんなことを」
「おまえを公爵家の目から外すためだ」
低く、短く。斬り結ぶ合間にそれだけ落ちる。嘘じゃない声だった。
わたしは外套の裾を握ったまま、幼獣を抱き寄せる。毛並みが震えている。可哀想に。怒りで胸が焼ける。
証拠は、残っていた。ユリウス様が“わたしを遠ざける”と言った直後に、密かに穀物庫を封じ、護衛たちを泳がせていたのだ。公爵家ごと摘発するために。わたしを傷つけない位置へ押しやるために。
「……じゃあ、婚約の話は」
「政略の打診だ。断った」
「いつ」
「おまえの卵焼きを食べた日の夜に」
心臓が止まりそうになった。そんな大事なことを、そんな言い方で。
戦いが終わり、護衛たちが縛られる。静寂。雪の白さが戻る。わたしは幼獣を下ろし、ユリウス様の袖を見た。裂けている。血が滲む。
「怪我……!」
「浅い」
「平気かどうかは、わたしが見ます」
言い返してやると、彼が一瞬だけ目を見開く。珍しい。すぐにいつもの無表情へ戻るけれど、口元だけわずかにゆるんだ。
手当てのために聖獣舎の小部屋へ入る。狭い。暖炉の火が近い。距離が近い。布を裂いて腕に巻くわたしの指が震えると、ユリウス様はその手首をそっと押さえた。
「怖かったか」
「……あとからきました」
「そうだろうな」
責めない。笑わない。ただ親指で手首の内側を一度撫でる。その脈を確かめるみたいに。だめだ、そんなの。泣きたくなる。
「どうして、弁当箱を返してくれなかったんですか」
「返したら、二度と来ないと思った」
火が、ぱち、と鳴った。
その一言のあとに長い沈黙が落ちる。彼はいつもみたいに器用に隠せていない。わたしを見る目が、あまりにもまっすぐで、熱くて、もう逃げ道がない。
「私の立場では、おまえを傍へ置く理由が要る。聖獣の給餌係、厨房監督、毒味役……何でも考えた」
「……ずいぶん物騒です」
「一番ましな案だ」
少し笑ってしまった。泣きそうだったのに。ずるい。
すると彼はそっと身を屈め、額が触れそうなところで止まる。触れない。けれど吐息は落ちる。甘い拷問みたいな距離。
「ミレイア。冬宮へ戻れ」
「職務命令ですか」
「半分は」
「残り半分は?」
「言わせるな」
その代わり、彼は懐から弁当箱を出した。きれいに拭かれ、紐まで結び直されている。返すくせに、離しがたいみたいに最後まで指が名残を惜しんだ。
わたしはそれを受け取らず、代わりに小さな包みを差し出した。今夜、来る途中で握ったばかりの梅おにぎりだ。
「明日のお弁当です」
「今、食べても?」
「どうぞ」
彼はわたしの目を見たまま、ひと口かじった。喉が動く。次の瞬間、長い指がわたしの顎の下をそっと持ち上げた。近い。近すぎる。
「……旨い」
「知ってます」
「そうか」
低く笑ったあと、彼はおにぎりを半分に割り、わたしの唇のすぐ前まで運ぶ。触れそうで触れない。待たされる。ずるい人だ。けれど、ちゃんとわたしが食べるまで目を逸らさない。
外では助けた幼獣が、満足そうに丸くなって眠っていた。事件は片づいた。公爵家も失墜した。それでもいきなり何かが決まるわけじゃない。冬宮に戻ったって、わたしはまだ厨房娘だし、彼は冷たい顔の長官のままだ。
ただ、翌朝から彼は公式には無愛想なまま、誰も見ていない廊下では必ずわたしの弁当袋を自分で持った。
重くもないのに。わたしの手が空くように。
そして聖獣たちは、わたしのごはんを食べるたびに、うれしそうに尻尾を振った。
冬の宮に満ちるのは、雪の匂いと、出汁の湯気と、まだ誰にも言わない熱。
それで十分だと思った。
……少なくとも、次のお弁当までは。