笑えない王妃は南王の甘さに溶かされる
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あらすじ
異世界恋愛ショートドラマ - 笑えない王妃は南王の甘さに溶かされる
本文
第一章
ぱしゃん、と甘い果汁が弾けた。
婚礼から三日。南国アウレリアの大広間で、黄金色の果実が私の足元に転がる。次の瞬間、王が玉座から飛び降りてきた。
「今のは予定外だ。だが、転び方はどうだった?」
「……とても見事でした、陛下」
見事に自分で敷いた花びらに足を取られ、王冠まで斜めになっている。なのに顔だけは恐ろしく整っていた。濃い睫毛の影、陽に灼けた肌、白い軍装の肩章。南の海みたいに眩しい男が、子供みたいに私の返答を待っている。
アルシェラ。二十歳。氷の国フィエルダから、和平の証として嫁いできた王妃。
そして目の前の男は、レオンハルト・アウレリア二十六歳。この国の王。戦では冷酷、裁きでは容赦がなく、諸侯が目を伏せるほど苛烈だと聞いていた。……聞いていたのに。
「笑ってはくれないか」
「努力はしています」
「努力の気配が氷原より寒い」
周囲の貴婦人たちがひそひそと息をのむ。王が、王妃に、そんな声音で。甘すぎる。近すぎる。しかも彼は私の前でだけ距離感が壊れる。
私の頬に果汁が一滴、つうと流れた。
それを見た彼の目つきが変わる。ふっと細く、獣じみて。
「触れる」
「……どうぞ」
指先が頬骨の下をなぞった。熱い。南の男の体温は、どうしてこうも容赦がないのだろう。親指で果汁を拭い、そのまま一瞬だけ動きが止まる。唇に運ぶのかと思って、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
けれど彼は、布を受け取って丁寧に拭っただけだった。
自制。いつもそうだ。触れそうで、触れない。奪えそうで、奪わない。なのに目だけがひどく欲しがっている。
「次はもっと面白いものを用意する」
「王の政務は、そのためにあるのでは」
「知っている。だが君が一度も笑わないのは、国家的損失だ」
「大げさです」
「いや。私にとっては国難だ」
この人は、こういうことを平然と言う。
私は笑えない。生まれつきではない。笑わない、と決めたのだ。
雪に埋もれる祖国を背負って、この陽光の国へ来た日。母に言われた。「あちらで安らいではいけない。おまえが笑えば、氷の宮廷は北を捨てたと見なされる」と。敗戦国の王女の笑顔は、簡単に裏切りの旗印になる。だから私は口元を凍らせたまま、ここへ来た。
それでも夜になると、たまに困る。
寝所の回廊まで送ってくる王が、扉の前で立ち止まり、私の手の甲に口づけるふりだけして、しないことに。
今夜もそうだった。
「おやすみ、私の王妃」
「おやすみなさい、陛下」
白い手袋越しに指先が触れただけで、息が浅くなる。彼はそれを知っていて、知っていて離れる。ひどい。
扉が閉まる寸前、廊下の影に道化師がいた。鈴のついた帽子。笑顔の仮面。軽やかな一礼。
けれど私の視線は、その靴先に止まった。
薄く白い粉。海塩ではない。魔石洞窟の内壁にしか付かない、青銀の燐粉。
この宮殿の奥、王家が秘匿する海の洞窟。美しい魔石を産む、南国最大の恵み。そして敵国が喉から手を出すほど欲しがっているもの。
どうして、道化師の靴に。
ぞくり。氷の国で育った感覚が、危険を告げた。
翌朝、私は王の執務室へ向かった。だが扉を開けた瞬間、レオンハルトは書類の山から顔を上げ、真顔で言った。
「来たな。今日は猿を連れて海辺で踊る案を却下された」
「陛下」
「怒っている顔も美しい」
この人は、本当に。
でも次の瞬間、私が黙って差し出した白い粉に、彼の目の色が変わった。熱の奥にある、冷たい刃。その顔を見てしまうと、胸が変に騒ぐ。
「どこで見た」
「昨夜、道化師の靴先に」
「……そうか」
彼は立ち上がり、机を回って私の前に来た。低く身を屈める。鼻先が触れそうな距離。柑橘と海風の匂い。鼓動がうるさい。
「この話は、誰にも?」
「していません」
「賢い」
囁きが耳に近すぎて、肩が跳ねた。彼はそれを見て、口元だけで笑う。
「なら、君に頼みがある。私と洞窟へ来てほしい」
「囮に?」
「違う。私の隣にいてほしい」
その言い方は、ずるい。建前の衣を着せて、真ん中だけ素肌みたいだ。
私はうなずいた。
笑えないかわりに、役には立てる。北の王女は、氷と鉱脈の見分けに長けている。魔石の癖も、きっと読める。
ただ、そのときはまだ知らなかった。
道化師の笑い声の裏に、国を裂く刃が潜んでいて。
そして南の王が、私に笑ってほしい理由を、まだ一つも口にしていないことを。
――次に彼が近づくのは、からかうためではなく、守るためだ。
第二章
海は青い。青すぎて、怖い。
王家の船が白い航跡を引いて進むたび、潮風が頬を打つ。洞窟の入口は断崖の裂け目に隠れ、満ちる光の下ではただの影にしか見えなかった。
「寒くないか」
「南国でその問いは贅沢です」
「君は氷の国の姫だろう」
「ええ。ですが、陛下の外套は重いです」
重い。香りも、ぬくもりも。
船に乗った途端、彼は自分の外套を私の肩にかけた。潮風が強いから、と言って。私は断ったのに、聞かない。結び目まで自分で整え、ついでのように髪を耳へ払った指が、耳朶をかすめた。
びり、と変な熱が走る。
周囲には護衛もいる。なのに彼は、私の前だと時々、世界を忘れる。
洞窟へ入ると、空気が変わった。ひやり、と湿り、壁一面に埋まった魔石が蒼く脈を打つ。海の底の星空。水音が反響し、遠くで鈴が鳴った気がした。
「道化師だ」
私が囁くと、レオンハルトは無言で頷いた。
奥へ進むにつれ、私は違和感を拾っていく。削られた痕。わずかな縄の擦れ。魔石の配置を記した印。盗掘の下見だ。それも、洞窟の“息”を知る者の仕事。魔石は下手に触れれば共鳴して崩れる。なのに犯人は、まだ大規模に手を出していない。
「盗むのではなく」
「何だ」
「爆ぜさせる気です。この洞窟ごと」
「……続けろ」
王の声が低く沈む。好きだ、と場違いに思った。こういうときの彼は恐ろしく冷たい。けれど私の言葉を一つも遮らず、最後まで聞く。
「洞窟が崩れれば、海流が変わる。魔石脈も死にます。敵国は手に入れられなくても、この国の喉を潰せる」
そのとき。鈴の音が、はっきり響いた。
道化師が現れた。笑う仮面。派手な衣装。けれど声だけは平坦で、ぞっとするほど大人しい。
「さすが氷の王妃。笑わないぶん、よく見ていらっしゃる」
護衛が剣を抜く。だが道化師は一歩下がり、洞窟の壁へ手をかざした。青い魔石が不穏に明滅する。
「動かないでいただきたい。ここは少し機嫌を損ねやすい」
緊張がぴんと張る。私の手首を、レオンハルトが後ろでつかんだ。強くない。けれど絶対に離さない握り方だった。親指が、手首の内側を一度だけなぞる。落ち着け、と言うみたいに。
「要求は」
王が問う。
「北との和平を破棄し、氷の王妃をこちらへ」
「断る」
「即答ですか」
道化師の視線が私に向く。仮面越しなのに、生臭い興味がある。
「では取引を。王妃を返せば、洞窟は救われる。どうせこの方は敗戦国の飾りでしょう?」
その瞬間、レオンハルトの空気が変わった。
熱が消えた。光も。代わりに、底のない海みたいな静けさが落ちる。
「私の前で、私の妃を値踏みするな」
低い。凪いでいるのに、ぞっとする。
私は胸の奥が詰まって、息を呑んだ。嬉しい、などという柔らかい言葉では追いつかない。けれど浮かれた瞬間、足元で小さく魔石が鳴った。危ない。
「陛下、下がって」
「アルシェラ?」
「この音は連鎖です!」
私は彼の腕を引いた。次の瞬間、蒼い閃光が走る。魔石の棘が床から噴き上がった。護衛の悲鳴。崩れ落ちる岩片。私は咄嗟に洞窟の壁へ掌を押し当て、北国の鉱脈術式を口の中で結んだ。冷気が走る。青い脈動が白く鈍り、連鎖が一瞬だけ止まる。
「走って!」
「君を置いてか」
「一緒に走るんです!」
彼は笑った。こんなときに。けれどすぐ私の腰を抱き寄せ、ほとんど持ち上げるようにして走った。近い。近すぎる。胸板が背に当たり、息が耳元で弾ける。危機の最中なのに、体のほうが勝手に震えて困る。
崩落の外へ出たあとも、彼はしばらく私を離さなかった。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「……少し、指先が」
「見せろ」
手袋を外される。指先が赤いだけなのに、彼は眉を寄せた。海風の中でその指を唇へ近づけ、触れる寸前で止まる。代わりに額へ押し当てた。
「次からは、私より先に無茶をするな」
「陛下こそ」
「私は王だ。無茶は職務だ」
「横暴です」
「夫でもある」
その一言に、胸が高く鳴った。
だが甘さは続かなかった。洞窟の奥で見つかったのは、北の紋章を刻んだ合図札。まるで、私の祖国が黒幕だと言うみたいに。
王宮へ戻る舟の上で、家臣たちの視線が変わる。刺さる。冷える。私は外套の裾を握りしめた。
レオンハルトは何も言わない。ただ隣に立ち、甲板の風上に私を置いた。人目につかない角度で、袖の内側から小指だけを絡めてくる。
誰にも見えない。なのに逃がさない。
……ひどい人だ。
でも、そのひどさに、救われてしまう。
――次に突きつけられるのは疑いではない。選べという残酷な優しさだ。
第三章
別離は、やけに静かに来た。
翌朝、私の机には祖国の封書があった。青白い蝋印。母の筆跡。短い文だ。
「笑うな。南に心を置くな。さもなくば北は見捨てられる」
紙が震えた。指ではなく、たぶん心臓のせいで。
その日の夕刻、謁見の間に全臣下が集められた。道化師もいた。仮面の下で、きっと嗤っている。
レオンハルトは玉座に座り、冷え切った声で告げた。
「王妃アルシェラを、しばらく離宮へ移す」
ざわめきが走る。私は息を止めた。
ああ、そうか。北の紋章が出た以上、疑いを払うために切り離すのだ。守るためかもしれない。国のためかもしれない。わかっている。わかっているのに、胸の真ん中だけが、氷より冷たく割れていく。
彼は一度もこちらを見なかった。
だから私は、自分から前へ出た。
「承知いたしました、陛下」
道化師の肩が、ほんの少しだけ揺れた。愉快なのだろう。王妃は見捨てられた、と。
離宮へ向かう馬車の中で、私は膝の上の手を固く組んでいた。笑えない。泣けない。ただ唇だけが、いつものように動かない。
夜。窓辺に鈴の音。
「お迎えにあがりました、氷の王妃」
道化師だった。やはり来た。離宮移送は、餌だ。
私は外套を羽織り、彼について庭へ降りた。月下の回廊。海へ続く小門。道化師は仮面を外し、別の国の紋章入り短剣を見せた。
「賢い方で助かります。あなたが来れば、北は助かる」
「その嘘を、何人に売ったの」
「王も、北も、使えるものは使う。それだけです」
刃が私の喉へ寄る。冷たい。けれど次の瞬間、夜気を裂いて剣光が走った。
短剣が弾かれる。
「私の妃から、刃を離せ」
レオンハルトだった。
暗闇から近衛が現れ、道化師を取り囲む。囮。離宮行きも、公開の切り離しも、すべて仕掛けだったのだ。
私は安堵より先に、腹が立った。
「……言ってくださればよかったのに」
「言えば、君はその顔をしなかった」
王は私の前まで来て、初めてまっすぐ見た。苦い、けれどどうしようもなく優しい目で。
「私は君に、疑われたかった」
「ひどい方」
「知っている」
その隙に道化師が走った。海への小門へ。だが私の怒りは、まだ冷えていない。
私は足元の水盤から氷紋を引き、薄い氷の糸を投げた。北王家の術。月光を含んだ糸は道化師の足首に絡み、転ばせる。鈴がじゃらりと悲鳴みたいに鳴った。
「私を、笑えない飾りだと思った?」
道化師は呻く。近衛が取り押さえる。
そこでようやく静かになった庭で、レオンハルトが息をついた。安堵の息。王ではなく、一人の男のもの。
「本当に、君は」
「何です」
「私の予想より、ずっと強い」
彼が近づく。今度はもう、周囲が見ていても構わない顔で。
「アルシェラ。あの日、君が笑わなかった理由を、私はずっと勘違いしていた」
「……」
「私が嫌われているのだと」
「違います」
即答してしまってから、遅れて熱が上がる。しまった、と思ったときには、彼の瞳がひどく明るくなっていた。
「では、なぜ」
「笑えば、北を捨てたと思われるからです」
夜風が止まったみたいだった。
私は封書のことも、母の言葉も、全部話した。最後まで。自分でも驚くほど静かに。彼は一度も遮らず、聞き終えてから、ただ一歩だけ近づいた。
「なら、君はもう笑わなくていい」
「……え?」
「君の笑顔を、国の旗印になどさせない。北への支援は続ける。公開でな。君が笑おうが泣こうが、誰にも文句は言わせない」
王の言葉は命令の形をしていた。なのに、私のためだけに作られた逃げ道みたいに温かい。
「私は、君に何かを強いたくて笑わせたかったわけじゃない」
「では」
「ただ見たかった。私の前で、安心した顔を」
その一言が、駄目だった。
胸の奥で張りつめていたものが、ふっと緩む。あまりに長く凍らせていたせいで、ほどけ方が下手だった。喉が熱くなって、目の端がじわりと滲む。
それでも、先に来たのは涙ではなかった。
口元が、ゆるんだ。
ほんのわずか。たぶん、他人にはわからないくらいの、小さな小さな変化。
けれどレオンハルトは、雷に打たれたみたいな顔をした。次の瞬間、片手で目元を覆って、空を仰ぐ。
「陛下?」
「待て。今のは反則だ」
「何がです」
「その程度で私を殺す気か」
私は、そこで初めて、声を立てて笑ってしまった。
鈴みたいに。たぶん少しだけ、泣きながら。
彼は呆然と見つめ、それから堪えきれずに私を抱き寄せた。強い腕。熱い胸。けれど唇は、やはり触れない。額を押しつけ、鼻先をかすめるだけ。焦らすみたいに、大事にするみたいに。
「人前だぞ」
「陛下が始めたのでしょう」
「そうだな。なら責任を取る」
彼は私の手を取り、臣下たちが見守る庭の真ん中で高らかに告げた。
「北への魔石支援を正式に再開する。王妃の進言によるものだ。彼女を侮る者は、私を侮るのと同じと心得よ」
道化師は連行され、敵国の工作も暴かれた。洞窟は守られ、北へは食糧と暖炉石が送られることになった。
その夜、寝所の扉の前で、彼はいつものように私を送ってきた。
でも、今夜は少し違う。
「おやすみ、アルシェラ」
「おやすみなさい、レオンハルト様」
名前を呼ぶと、彼の喉が小さく鳴った。
「……もう一度」
「だめです」
「なぜ」
「調子に乗るので」
言い終える前に、手首をそっと引かれる。扉と彼の腕に挟まれた狭い空間。吐息が近い。睫毛の影まで見える。
「君が笑うと、私はひどく弱くなる」
「知っています」
「なら加減してくれ」
「できません」
彼は、とうとう困ったように笑った。戦場で誰も見たことがないだろう、甘くて情けない顔で。
そして今度こそ、手の甲ではなく、指先に口づけた。
熱い。じん、と痺れて、そこから全身へ広がっていく。南の夜はやわらかいのに、胸の奥だけは嵐だ。
笑えない王妃だった私を、彼は無理に変えなかった。
ただ、笑っても壊れない場所を、先に作ってしまったのだ。
ずるい王様だと思う。
だからたぶん、これから先も私はたくさん困る。
彼が近いだけで。声が甘いだけで。触れそうで触れない、その一瞬だけで。
けれどもう、困ることは少しも不幸ではない。
だって私は知ってしまったから。
誰にも見せない熱で、あの冷たい王が、ずっと私を選び続けていることを。