第137話:【名街】マルクの街、名前のある世界
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
物理と知識で魔法世界を再定義!―拾った助手は2000年前の伝説の管理者(旦那様)でした。追放された天才没落令嬢は、最強の娘たちと共に「世界」を再構築中― - 第137話:【名街】マルクの街、名前のある世界
本文
空が、高かった。
クロノスに再上陸して、私が最初に感じたのはそれだった。
以前の帝国の空は、白い天蓋のように低く垂れ込めていた。高度300メートル。それが旧世界の人間が見上げることを許された空の限界だった。Gaiaが設定した「次元界面」――その見えない蓋の上は、ナノマシンが暴走する禁忌の領域。2000年もの間、この世界の誰もが、空には「天井」があると信じて生きてきた。
それが今、ない。
Gaiaの再定義で次元界面が消失し、空がどこまでも続いている。白い蓋の向こう側にあったのは、深い、深い、青だった。
「……高い」
私はアークの甲板に立ち、首が痛くなるほど上を向いた。見上げても見上げても、空が終わらない。こんなに高い場所が、ずっと頭の上にあったなんて。
街の人々も同じだった。
通りを歩く市民たちが、ふと足を止めて空を見上げている。番号を胸に刻んだ無表情な顔に、初めて見る「困惑」が浮かんでいた。怖がっている者もいる。あの低い天蓋が、彼らにとっては「安全の証」だったのだ。蓋がなくなった空は、際限なく広がる未知そのもの。
「空が壊れた」と呟いた老人がいた。
「違うの。空は最初から、こんなに高かったのよ」
私が思わず声をかけると、老人は呆然と私を見上げ、それからもう一度空を見た。
リュウガが私の隣に立ち、同じ空を見上げた。
「2000年前、人類はあの空の遥か上……星の世界まで行った。バイコヌールの遺構で話しただろう」
「覚えてるわ。みんなに笑われたけど」
「もう笑われないかもしれないな。この空を見て、『もしかしたら』と思う人間が出てくるかもしれない」
リュウガの横顔が、かつてないほど穏やかだった。Admin権限を失い、黄金の燐光が消えた瞳で見上げる空は、管理者としてではなく、ただの人間として初めて見る空なのだろう。
「きれい?」
「ああ。……きれいだ」
一瞬だけ、二人で空を見上げた。
その空の下で、街は混乱していた。
◇◆◇◆◇
管理システム停止で、クロノスは機能不全に陥っている――と思っていた。
だが、街に入って驚いた。最低限の秩序が保たれている。配給所には列ができ、交差点には手旗信号を振る人間が立ち、壊れた街路灯の下では誰かが梯子をかけて修理をしている。不格好で、効率も悪い。でも、動いている。
「あれ、マルクたちじゃないか?」
カイルが指さした先、配給所の入り口で忙しく動き回っている男がいた。
クラフトだ。私が名前を贈った、手先が器用な男。配給装置が壊れたらしく、彼が工具を振るって直している。傍らでは避難誘導を仕切る少年の姿があった。ノックだ。通路の壁をいつも叩いて反響を確かめていたあの子が、今は声を張り上げて市民を導いている。
マルクの仮政府が「ヴォイス」のメンバーを各地区に配置し、混乱の中の秩序を維持していた。かつて地下に潜んでいた「不適応個体」たちが、今はこの国の「繋ぎ手」になっている。
「マルクの判断力は大したものですわ。ソフィア様の助言もあるのでしょうが、実行しているのは彼ら自身の意思ですわね」
オーボエが通信越しに分析した。
だが、全てが順調というわけではなかった。
「番号の方が楽だった」
「感情なんて要らなかった。戻してくれ」
街の外縁部では、名前を拒む市民たちが集まっている。そして旧フォーマット部隊の残党ドロイドが市民を襲撃していた。マルクが自警団を組織して対応しているが、経験不足で苦戦している。
「エリアーナ!」
通りの向こうから、聞き覚えのある声が飛んできた。
マルクだ。以前より少し痩せて、目の下に隈ができている。でも瞳の光は強い。
「よう、修理屋。世界を直してきたか」
「直してきたわよ。そっちは?」
「見ての通りだ。ドロイドの襲撃に名前拒否派の抗議活動、おまけに水道管が毎日どこかで破裂する。管理AIがなくなった途端に、この街がどれだけガタガタだったか思い知らされてるよ」
「手伝うわ。ドロイドの掃討、私のシスターズが――」
言いかけた私を、マルクが手で制した。
「待ってくれ、エリアーナ。あんたらが全部やったら、こいつらはいつまでも自分で立てない」
私は、息を呑んだ。
かつて私が教えた「直して去る」の哲学を、マルクが自分の言葉で語り返している。
「名前を贈ってくれたのはあんただ。でも、その名前で生きていく方法は、俺たちが自分で見つけなきゃならない。あんたのシスターズが全部片付けてくれたら、こいつらは『名前を持った元管理対象』のままだ。自分の手で戦って、自分の手で守って、初めて『名前を持った市民』になれるんだ」
「……マルク。あんた、立派になったわね……」
不覚にも、目が潤んだ。
「泣くなよ、修理屋。……で、手伝いは要らないとは言ってない。あんたのシスターズに、俺たちの自警団の戦い方を教えてもらいたい。直接戦うんじゃなく、戦い方を教える。それならいいだろ?」
◇◆◇◆◇
訓練は、実戦で行われた。
旧フォーマット部隊の残党ドロイドが、市街地の外縁部に30体ほど集結しているとの報告が入った。自警団だけで対処するには厳しいが、シスターズの全面支援を受ければ楽勝の規模だ。
だが、私たちは「全面支援」をしなかった。
「自警団が前線。シスターズは後方から援護のみ」
オーボエの指示で、シスターズが教官として散開した。
チェロとオーボエが自警団の隊列を整え、基本的な戦術を叩き込む。コルネが自警団の隙間から飛び出し、ドロイドの足を斬って転ばせた。とどめは刺さない。転んだドロイドに、自警団の青年が恐る恐る槍を突き立てる。
「ボクの真似しなくていいから、自分のやり方で!」
コルネが叫んだ。行きの守り人の集落で言ったのと同じ言葉だ。
ユーフィが衝撃波でドロイドの腕を吹き飛ばし、無力化した個体を自警団に「倒させる」。ボーンがランスで地面を叩いて爆音を出し、ドロイドの注意を引きつけて自警団の側面を守る。ルーテとハープが影から致命的な一撃を防ぎ、オルガが負傷者を即座に回収する。
テューバが黙って立っているだけで、その圧倒的な存在感がドロイドの突進を僅かに鈍らせていた。ヴィオラとクララは高台から狙撃で戦場を管理し、自警団が危険な位置に入りそうになると足元に警告弾を撃ち込んで誘導する。
30体のドロイドが沈黙した時、最後の一体を仕留めたのは、自警団の一番若い少年だった。震える手で槍を突き立て、ドロイドが倒れるのを見届けて、少年は自分の手を見つめた。
「……俺が、倒した?」
「ああ。お前がやったんだ」
マルクが少年の肩を叩いた。
周囲から歓声が上がった。不格好で、危なっかしくて、プロから見れば穴だらけの戦い。でも、自分たちの手でやり遂げた。その事実が、番号しか持たなかった彼らの瞳に、新しい光を灯していた。
「あの子、立派になったわね……」
私は目を潤ませながら呟いた。
◇◆◇◆◇
出発の準備をしている時、マルクがアークの横に来た。
「あんたもいい顔になったな。前は死んだ魚みたいだったのに」
リュウガに向かって言った。
「妻のおかげだ」
リュウガが即答した。
「ノロケかよ」
マルクが呆れた顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻り、私に拳を差し出した。
「あんたが俺にくれたのは名前だ。名前があるから、俺はこうして立ってる。あの地下で泣いてた番号の男が、今はこの街の面倒を見てる。……全部、あんたがくれた名前のおかげだ」
私は拳を合わせた。ゴツン、と骨が触れる音がした。
「次に来る時は、もっとマシな街にしておくよ」
「期待してるわ、マルク」
アークが動き出した。マルクが手を振り、自警団の若者たちがその横に並ぶ。名前を持つ者たちが、自分の足で立って、自分の手で振っている。
空が、高い。
あの低い天蓋が消えた空を、マルクたちも見上げている。もう怖がっている顔は少なくなっていた。高い空の下で、不格好に、でも確かに、この街は動き始めている。
『てぇてぇ記録ですわ。マルクさんと母様の拳合わせ、永久保存版ですわ……』
クララの囁きがMNWに流れた。
『マルク殿の自治、見事なものですわ。教えた者が教え返してくる。これが循環というものですわね』
オーボエが静かに言った。
バックミラーの中で、クロノスの街が遠ざかっていく。不格好な雲が高い空を流れ、壊れた街路灯の下で誰かが修理を続けている。完璧じゃない。でも、生きている。
直すだけじゃない。直し方を教える。教えた者が、次の誰かに教え返してくる。
その循環が、世界を少しずつ変えていく。