召喚士 第3話:潜入
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
第三話 いよいよスラムに調査に乗り出す一行にある噂が耳に入る…。
本文
分厚い雲が空を支配し、どんよりとした夕闇が街を飲み込み始めていた。
体制を整えるため一度帰宅すると、リビングではナイルとロイが報告を待っていたかのように二人を出迎えた。事の顛末を共有しているうちに、学校帰りのクレハとアオイも合流する。
結局、今回の潜入には救護班のナイルとアオイを家に残していくことになった。
「お前は来なくてもよかったのに」
カムイが視線を向けると、クレハは湿った風を連れてくる空を仰ぎながら、静かに、だが意志の強い声で返した。
「いいの。実戦経験も積みたいし……それに、この事件の裏で利用されているスラムの人たちが、放っておけないから」
クレハは養成校に通いながら現場に出て、医療行為の許可まで得ている。
その覚悟に、カムイは短く頷いた。
カムイ、アイ、カズキ、ロイ、そしてクレハ。
全員が動きやすいパンツスタイルに着替え、トップスもスラムの汚れが目立たない質素なものを選んでいる。そこに「召喚士」である証はどこにもない。
犯罪の巣窟であるスラムにおいて、警察や召喚士は「正義」ではなく「敵」でしかない。生半可な身なりで足を踏み入れれば、生きては戻れない場所なのだ。
「全員いるか?」
村の出口でカムイが振り返る。見慣れた顔ぶれが、無言で、だが深く頷いた。
昼間の賑わいが嘘のように、村の人影はまばらだ。不気味な空模様のなか、殺気にも似た緊張感を纏って歩くカムイ隊は、傍目には異様な集団に映ったことだろう。
一行は右へ逸れ、薄暗い道へと足を進める。
一歩、また一歩。
それだけで、ねっとりとした泥の匂いが鼻をつき、空気が鉛のように重くなるのを感じた。
視界を塞ぐようにそびえ立つ、巨大な壁。
その片隅にある小さな通用門は、まるで地獄への入り口のように口を開けていた。
部外者を拒絶し、静寂の中に悪意を潜ませるその門を前に、カムイが小さく呟く。
「行こうか」
標的を刺激しないよう、あくまで「ここに用のある売人」か、あるいは「道に迷った無知な余所者」を装い、堂々と、真っ直ぐに門をくぐる。
その瞬間、建物の影から無数の視線が突き刺さった。
怯え、蔑み、そして剥き出しの敵意。
だが、通用門を抜けた先に広がっていたのは、予想に反した「完全な静寂」だった。
「……これ、はどういうこと?」
アイが震える声で密やかに呟く。
そこに人はいない。気配だけが充満しているのに、広場には誰もいなかった。
視界に入るのは、崩れかけた建物と、布一枚で仕切られた商店の成れの果て。
道端には薄汚れた玩具やカビの生えた食べかけの残骸が散乱し、誰のものかもわからない片方の靴が転がっている。
地面には、息をしているのかも怪しい動物が力なく伏せていた。
だがしかし、どこかの建物の奥で、何かが「息を潜めた音」がした。
だが、それが人なのかどうかは分からなかった。
光を遮る重い曇天の下、死に体のような街の光景が、これ以上ない不気味さで一行を圧倒していた。
「進むかとりあえず」
「そうだな」
カムイの横のカズキが答えた。暖かさを失った風が吹く。
「·····一雨、来そうだね」
クレハが呟き、見上げた先。そこには、先ほどよりも一層色濃くなった黒雲が、まるで一行を飲み込もうとするかのように低く垂れ込めていた。
「本降りになる前に、必要な情報は引き上げたいところだな」
カムイは足を止めることなく、低い声で指示を飛ばす。
「二手に分かれる。ロイはアイを連れて左の路地から。カズキとクレハは俺と来い。何かあれば無線を飛ばせ」
「了解だ。合流はどうする?」
ロイの問いに、カムイはスラムの奥に霞んで見える文字盤の欠けた時計台を指差した。
「三十分後、あの時計台の下だ。いいな」
「わかった。また後でな」
「良い情報を期待しているぞ」
短く言葉を交わすと、五人は吸い込まれるように左右の路地へと別れた。
途端、肌を刺すような殺気と、粘りつくような剥き出しの敵意が急激に膨れ上がる。
潜んでいた気配もまた、二手に分かれた一行を追うように二分された。だが、ロイはその緊張感を楽しむかのように、薄く口角を上げた。
「·····歓迎されてるな、アイ。大人しく話を聞いてくれる連中じゃなさそうだ」
アイは何も答えず、肩掛けマントのフードを深く目深に被り直した。
自分たちに向けられる禍々しい気配。それを真っ向から受け止めるように、二人は薄暗い迷路の奥へと、音もなく走り出した。
同じ頃。
ひび割れたステンドグラスから差し込む光が、教会の礼拝堂をまだらに照らしていた。エリナは窓の外、急速に色を失っていく空を眺め、ぽつりと呟いた。
「····一雨、来そうですね」
溜息混じりの言葉に、背後で硬質な金属音が応える。
祭壇前の椅子に腰掛け、牧師の法衣を纏ったリッドが、愛剣の手入れをしながら視線だけを窓に向けた。
「ああ……。どうする?」
「あいつ、帰ってきませんね。私の『声』にも、梨の礫です」
エリナは困惑したような、けれどどこか作り物めいた笑みを浮かべてリッドを振り返った。
「もしかすると、あのまま遊びに行ってしまったのかもしれませんね」
その言葉を聞いた瞬間、リッドは剣を置き、弾かれたように身を乗り出した。
「おい、お前!それ、本気で言ってんのか」
リッドの声には、隠しきれない嫌悪と焦燥が混じっている。だがエリナは、その反応を受け流すように軽やかに笑った。
「アハハ、冗談ですよ。····でも、雨も降りそうですし、早く終わらせて帰りましょう。あと数人ですし、私一人でも大丈夫ですよ」
「大丈夫なわけねえだろ。お前今度はあいつに何を言われた?」
「リッド様は、いつも通りここで待っていてください。私一人で行ってきますから」
固辞するエリナの頭に、リッドが大きな掌をポンと置いた。
「バカを言うな。俺も行く」
「でも、教会を空けるわけには·····」
「少しくらいなら大丈夫だろ。ここには鍵もかかってる·····。それに、女一人であんな場所に行かせられるかよ」
ぶっきらぼうな優しさ。だが、今のエリナにとってその温もりは、かえって自分の「汚れ」を自覚させるものだったのかもしれない。
エリナの顔から笑みが消え、不機嫌な色が瞳に宿った。
「······やめてください。眠らせますよ、本当に」
「ちぇっ、可愛くねえな」
リッドは気まずそうに口を尖らせると、踵を返して祭壇横の扉へと消えていった。
一人残されたエリナは、静まり返った礼拝堂でもう一度溜息をつく。
教会の空気に、彼女の吐き出した言葉が溶けて、消えた。
「……何も、起きないといいけれど」
胸のざわつきを打ち消すように、エリナは自分の両頬をパチンと叩く。
そして祭壇の裏から、使い込まれたマントと一本の短剣を取り出した。
カムイたちと別れて数分。アイとロイが足を踏み入れたのは、道幅がさらに狭まり、腐った残飯と泥の匂いが立ち込める袋小路だった。
「·····アイ、来るぜ」
ロイが低く短く告げた。
その瞬間、左右の建物の影、そして頭上の腐りかけたベランダから、数人の男たちが躍り出た。手にしているのは錆びついた鉈や、不格好な鉄パイプ。
「死ね! この死神野郎がぁ!!」
先頭の男がロイに襲いかかる。普段のロイなら、背負ったロングソードで一閃するところだ。しかしここはスラム街。そんなもの持ち合わせていない。ロイは迷わず腰の後ろから二本の短剣を引き抜いた。
「チッ、狭いな·····」
足元のぬかるみにわざと踏み込み、跳ね上げた泥で相手の視界を潰す。
ロイは短剣を逆手に持ち替え、男の懐へ潜り込む。
鉈を振るう隙さえ与えず、短剣の柄で男の顎を叩き上げ、返す刃で別の男の武器を弾き飛ばす。踊るような身のこなし。
長剣使いとは思えぬ、精密で泥臭い近接戦闘だった。
一方、アイの元にも三人の男が殺到していた。
「そのツラ、もう見飽きたんだよ! 聖母のふりして、俺たちの仲間をどこへやった!!」
アイは魔法の詠唱を····しなかった。
一人の男が振り下ろした棍棒を紙一重でかわす。同時に男の腕を掴んで重心を崩し、その勢いのまま掌底をみぞおちへ叩き込んだ。
ゴフッ、と空気が漏れる音と共に男が崩れ落ちる。
「魔法専攻だからって、甘くみないで。殴れないとは言っていないわよ」
アイは冷たく言い放つ。魔導士としての精密な魔力制御は、身体能力の強化と「力の流し」にも応用できる。襲いかかる男たちの動きが、アイにはスローモーションのように見えていた。
二人目の男の回し蹴りを腕一本でブロックし、そのまま軸足を払って転倒させる。最後の一人の喉元に、アイの手が指先を揃えた「貫手」の形でピタリと止まった。
「ねぇ聞いていい?あんた今、私を誰と間違えたの?」
その声の温度が、一気に氷点下まで下がった。
ロイに叩きのめされ、地面を這いずっていた男が、アイを見上げてガチガチと歯を鳴らす。
「····ひ、ヒィッ······!」
男が絶叫に近い声を上げたのは、アイの言葉に怯えたからではない。
アイの「目」だ。
フードの奥で、アイの瞳がかつてないほどの嫌悪と怒りを湛え、深淵のような暗い光を放っていた。
「答えなさい。誰が『聖母のふり』をしているの? 誰が、あなたたちの仲間を消したの?」
「お、女だよ·····聖母みたいに笑う、女だ·····! いつも死神みたいな男を連れて、この奥の教会から······っ!」
「教会·····」
アイの視線がさらに鋭く、突き刺さるような冷たさを帯びる。その本気の睨みに、男は恐怖のあまり失禁し、白目を剥いて気絶した。
ロイが短剣の血を拭いながら、一歩引いた位置で肩をすくめる。
「おいアイ。その顔カズキの前では見せない方がいいぜ。······俺まで寿命が縮まりそうだ」
アイは無言で立ち上がり、フードをさらに深く被り直した。握りしめた拳が、怒りで微かに震えている。
「ロイ、カムイに連絡。吐き気がするような偽物の尻尾捕まえに行くわよ」
二人の背後で、ついに一粒の雨が地面を叩く。
カムイ、カズキ、クレハの三人が足を踏み入れたのは、地下にある酒場『吹き溜まり』だった。
階段を下りるなり、割れた瓶の破片を踏む音が、静まり返った店内に嫌な響きを落とす。
「·····何の用だ、余所者」
カウンターの奥から、煮え切らない殺気が漂ってきた。店内にいた数人の男たちが一斉に立ち上がる。だが、その瞳にあるのは略奪者の凶暴さではない。追い詰められた獣のような、剥き出しの“恐怖”だった。
「こっ、これ以上、仲間を連れて行かせねえ!」
沈黙の重圧に耐えきれなくなった一人の男が叫び、震える手で錆びた短剣を突き出した。それを合図に、三人の男がカムイたちに躍りかかる。
「カズキ、手を出すな」
カムイは短く命じると、あえて一歩前へ出た。
襲いくる男の腕を最小限の動きで受け流し、その勢いのまま手首を極めて地面に組み伏せる。背後から振り下ろされた鉄パイプは、見ることさえせずに半歩避けて、男の膝裏を軽く蹴り抜いた。
「ぐわっ·····!」
「う、動くんじゃねえ!」
最後の一人がクレハを狙おうとした瞬間。カムイがその男の喉元に、いつの間にか手にしていた銀貨をパチンと弾き当てた。
「·····そこまでだ」
わずか数秒。カムイは息一つ乱さず、男たちの包囲を完全に無力化していた。
彼は地面に伏せさせた男の頭を静かに抑え込み、氷のような声で告げる。
「悪いが、俺たちは『連れて行く側』じゃない。連れて行った奴らを、追っている側だ」
その冷徹な、だが嘘のない言葉に、男たちの動きがピタリと止まった。
「追ってる·····? あいつらをか····?」
男が顔を上げる。すがるような、それでいて呪わしそうな声を絞り出した。
「ああ。····何をされた。言ってみろ」
静かだが重みのある言葉。信じていいのか、という躊躇すら抱かせるほど、彼らの恐怖は根深いようだった。沈黙の長さにしびれを切らし、カズキが一歩前へ出ようとした時、ざらついた声で男が話し出す。
「あ·····あいつらだ。最近、この辺りに現れる男女の二人組。男は死神みたいに愛想がなくて、女の方は·····反吐が出るほど綺麗に笑うんだ」
男の言葉に、カズキが眉をひそめる。
「……そうだ…笑うんだよ」
男の声が震える。
「助けてくれるって顔で……なのに、目だけが笑ってないんだ」
「聖母のふりをして、安心させたところを拐っている……ということか」
「ああ……。昨夜も、俺俺のダチが『あっちの教会なら、まともな食い物と寝床がある』ってあの女に誘われて、出ていった。あの笑顔に騙されちゃいけねえ!·····ありゃ、悪魔の誘いだ!」
男の手が恐怖でガタガタと震え出す。
カムイは男を解放し、静かに立ち上がった。
「教会、か·····カズキ、クレハ。行くぞ」
店を出ようとするカムイの耳に、アイからの集合の合図が入る。カズキとクレハを見ると、二人とも力強く頷いた。
「ありがとな」
男たちへ背中越しに手をひらひらと振ると、カムイ達は雨の降り始めた階段を迷いなく駆け上がっていった。
約束の三十分。降り始めた小雨が、熱を持った体をじわじわと冷やしていく。
文字盤の半分が欠け、止まったままの時計台。その下で、ロイとアイはカムイ達の到着を待っていた。
「······遅いな。何かあったか」
ロイが少し心配そうに暗闇を見つめる。
その時、水飛沫を上げて三つの影が走ってきた。
「悪い、少し手こずった」
カムイが軽く手を挙げる。その手にはまだ、男たちを制圧した際の名残が微かに漂っていた。
「アイ! 無事だったか?」
カズキが駆け寄ろうとした、その瞬間。
フードの下で妖しく光るアイの「目」を見たカズキは、思わず足を止めた。
「·····アイ?」
そこには、普段の彼女からは想像もつかない、深淵のような「嫌悪」を湛えた瞳があった。あまりの鋭さに、後ろにいたクレハも思わず息を呑む。
「ど、どうしたんだよ」
その横で、ロイがニヤリと笑いながらアイの肩を叩いた。
「おいアイ。いつまでそんな顔してんだよ。カズキの前では見せない方がいいって話さなかったか?」」
「っ·····!」
ロイの言葉に我に返ったアイの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。怒りか、羞恥か、それとも恋心か。アイはカズキからバッと目を逸らすと、吐き捨てるように言った。
「·····かっ、関係ないわ! それよりカムイ、情報よ。犯人は『教会』にいる。聖母のフリをした、最低な女よ」
アイの言葉の激しさに、カムイは静かに目を細めた。
「·····奇遇だな。こっちも同じ結論だ。あの教会は、もはや聖域じゃない。ただの毒蜘蛛の巣だ」
カムイの言葉で、全員の空気が一変する。
頭を突き合わせ、それぞれに得た情報の詳細を開示し合う一行。その最中、クレハは時計台へと向かうフードを目深に被った人間を目に留めた。
辺りは既に暗く、雨のせいでよく見えない。雨粒に濡れたメガネがさらに視界を悪くしていた。
クレハはカムイ達の輪からそっと離れ、先ほど人が消えた場所へとゆっくり向かう。すると、茂みの方から別の大きな足音が響き、クレハは咄嗟に時計台の壁に張り付いて身を隠した。
足音の主は、死角にいるクレハに気づくことなく時計台の中へ消えていく。入口からそっと覗き込むと、「エリナ!」と誰かを呼ぶ声が上へと響いた。
クレハはカムイ達を振り返る。
彼らは話し合いに集中しており、こちらには気づいていない。ヘタをすると、彼らに逃げられる可能性がある。
(…今行かなきゃ、また誰か消えるかもしれない)
目の奥に力が宿る。そう判断したクレハは単身、暗い時計台の階段へと足を踏み入れた。
時計塔の最上階。風が吹き荒び、雨が叩きつける剥き出しの踊り場。
エリナは耳を塞ぎ、冷たい床に蹲っていた。
脳内に直接響くライムの「声」が、下卑た笑いと欲望にまみれ、彼女の精神をゴリゴリと削り取っていく。
『……なぁエリナ。今回の獲物の女、結構いい声で鳴いたぜ? お前も聞きたいか?』
(やめなさい!……仕事中だっていってるでしょ!)
『冷てぇなぁ。俺たちが組めば最強だろ? お前の「笑顔」で釣って、俺の「牙」で喰う。最高に楽しいじゃねぇか……』
(今は違うでしょ! この野蛮人!)
『……今いいとこなんだよ。……あんまり俺を怒らせるなよ、姉貴』
「……っ、ほんっとうざい! なんなのよ、あんたは!!」
エリナの叫びが、夜の闇と雨音に吸い込まれる。
そこへ、荒い息を切らして階段を駆け上がってきたリッドが飛び込んできた。
「エリナ! 大丈夫か!?」
「リッド様……っ、あいつ、また……!」
よろめいたエリナを支えようと、リッドが手を伸ばす。しかし、エリナはそれを強く振り払った。荒く呼吸を繰り返していた彼女が突然顔を上げ、驚愕と恐怖が張り付いた表情でリッドの背後を睨みつける。
「リ、リッド様……誰に、つけられたんですか」
「え……?」
一見、誰もいない広場。しかし、その微かな気配をエリナは逃さなかった。崩れた壁の影から、小さな声が漏れる。
「······男女二人。もしかして、君たち······」
振り返るリッドの目線の先。ずぶ濡れになりながらも、強い光を宿した瞳で二人を見据えるクレハが立っていた。
「······君たちが、みんなを連れ去っていた『死神』と『聖母』····」
クレハの手が震えながらも召喚の予備動作に入る。
その時、下からカムイたちの焦燥に満ちた叫び声が響き渡った。
「クレハ! どこだ!」
「こっここだよ!カムイ!!」
無線に手を伸ばすよりも早く、クレハが下に向かって声を張り上げた。
――バレた。
ライムへの怒り、そして「見つかった」という極限の恐怖。
張り詰めていたエリナの精神力が限界を迎え、膨大な魔力が無意識に暴走を起こした。
爆発的な突風が巻き起こり、瓦礫を吹き飛ばす。雨粒は凶器となってクレハやリッドすらも打ち据えた。クレハは吹き飛ばされまいと、近場の壁を必死に握りしめる。
風が収まった一瞬、目を開けてエリナを見つめた。恐怖に苛まれ、蒼白になった彼女の顔に、「聖母」の面影など微塵もなかった。
「ねぇ·····君は·····」
クレハが話しかけようと立ち上がった瞬間。度重なる衝撃で元々脆くなっていた足場が、悲鳴を上げて粉砕した。
「あ……っ」
声を上げる間もなく、クレハの体が宙に浮く。
「え。……うそ! やめて! いかないで! そんなつもりじゃない!!」
顔を上げたエリナの目に、クレハの体が暗い地上へと傾いていく映像が焼き付く。
視界が歪む。
クレハの姿と過去に連れてきた“誰か”の姿が重なった。
エリナは喉が裂けるほどの悲鳴を上げ、反射的に駆け出した。闇へと落ちていくクレハに向かって、必死に手を伸ばす。
「クレハッ!!」
階段を駆け上がってきたカムイが目にしたのは、夜闇へ吸い込まれるように落ちていく仲間と、呆然と手を伸ばし絶望するエリナの姿だった。
カムイは迷わず虚空へ飛び降り、空中でクレハの体を抱きとめる。だが、落下を完全に殺しきることはできず、二人は下の階の屋根の一部に激突し、さらに下へと転がり落ちていった。
エリナの絶望的な叫び声で、リッドが我に返る。
剣を抜き、カムイたちへ追撃を仕掛けようとしたその時。二人の背後に、冷え切った空気と共に「一人の女」が音もなく現れた。
「·····そこまでよ、二人とも。随分と派手に遊んでくれたわね」
漆黒のドレスを纏い、感情を一切感じさせない瞳をした組織の幹部。彼女の冷たい手が、リッドとエリナの肩に置かれる。
「作戦は中止。拠点とあなたたちの顔が割れた以上、あなたたちは『回収』よ」
その声には、怒りも苛立ちもなかった。ただ「処理」を告げる音だった。
「待て! まだあいつらを····!」
リッドの抗議を無視し、女が指を鳴らす。
力なく項垂れる二人を蔑むように見下ろすと、女の口元が呪文を紡ぐ。瞬時に風の膜が二人を包み込み、雨の降る曇天の空へと幻のように姿を消した。
地上に落ちる手前。
ロイが咄嗟に張った空気のクッションが、クレハとカムイの致命的な激突を防いでいた。
「いってぇ·····」
呟きながら、カムイは最上階を見上げる。落下する瞬間に見えた、あの女の絶望に満ちた顔。だが今はもう、そこには誰もいない。
「……消えた? なんなんだ、あいつら」
「カムイ! クレハは無事か!」
叫びながら近づいてくるカズキの声に、カムイは腕の中のクレハを見つめる。クレハは意識を失い、その額からは赤い血が雨水に混じって冷たく流れていた。
「あの女·····!」
空気のクッションには乗らず、ただその光景の一部始終を下から見つめていたアイの目は、抑えきれない静かな怒りに震えていた。
「追うか?」
ロイの問いに、カムイは首を振る。
「いや、いい。追ってもきっともういない。それに····この雨だ。クレハもいる·····一度、家に帰ろう」
静かに。沸き立つ感情を奥底へ押し込めるように、カムイは呟く。
「次は·····絶対に、逃がさない」
鋭い視線の先には、闇に沈むスラムと、全てを洗い流すかのように冷たく降り続く雨だけが残されていた