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配信19回目 地下街で信号が消える【後編】 ――貸しにしておきます

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/1 📚 シリーズ: 影森ゆらは今日も死ぬ ――死後も無理やり働かされます 📝 9,512文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

影森ゆらは今日も死ぬ ――死後も無理やり働かされます - 配信19回目 地下街で信号が消える【後編】 ――貸しにしておきます

本文

壁を抜けた瞬間、空気が変わった。

 温度ではない。匂いだ。コンクリートと空調の匂いが消えて、湿った石と古い塗料とりょうの匂いが来た。呼吸するたびに、鼻の奥にざらつきが残る。空気そのものが古い。何十年も入れ替えられていない空気を、肺に入れている感覚。

 足元を見る。タイルが違う。今の地下街の均一きんいつなグレーではなく、少し黄色がかった、角の欠けたタイル。昭和の公共施設を思い出す色。足裏に伝わる感触も違う。今の地下街よりざらざらしていて、目地めじが広い。

 通路は続いている。天井が今の地下街より低い。手を伸ばせば届きそうな距離。照明は裸電球はだかでんきゅう。等間隔とうかんかくにぶら下がっていて、そのうちの半分以上は切れている。点いているものも、明るいというより「暗さの中に色がある」くらいの光量。オレンジ色の弱い光が、壁のタイルに丸く映っている。

 壁には案内表示がある。

 矢印。文字。出口の方向。トイレの方向。階段の方向。全部、きちんとしたデザインで、見やすいフォントで、色もはっきりしている。

 だが、全部嘘だ。

「朔夜さくや、聞こえる?」

『聞こえる。映像も来てる。画質は落ちてるが見える。案内表示が残ってるな』

「残ってるけど、これ今の地下街の案内表示じゃない。フォントが違う。色も違う。昔の案内がそのまま生きてる」

『昔の案内が正しい出口を指しているなら使えるが——』

「使えない。昔の出口は今は壁で塞がれてるから。この案内に従ったら行き止まりになるか、もっと奥に行くかのどっちかだよ」

『だろうな。案内表示は無視しろ。ぬいの鼻を使え』

 ぬいが肩の上で鼻をひくつかせている。灰白色かいはくしょくの毛が、裸電球の光でぼんやり光る。

「右が旧メイン通路。左は旧設備通路。人の匂いが右から来とる」

「じゃあ右」

「ただし、右のほうが匂いが濃いぞ。怪異の匂いもや」

「人がいるほうに怪異もいるってこと」

「当然じゃ。人のいるところに集まるのが怪異の性質ばい」

「ぬい、語尾がたまに九州になるの何」

「銭原ぜにはらのうつりじゃ。あの男と話すと移る」

「伝染るんだ」

「口調は伝染る。おぬしも朔夜の口の悪さが移っとるぞ」

「否定できない」

 右へ進む。裸電球の光が途切れるたびに、数メートルの闇を歩く。スマホのライトを点けるが、光の範囲は狭い。壁と床が照らされて、天井は暗いまま。自分の足音が壁に反射して二重に聞こえる。いや——三重?

「ぬい、足音が多い」

「わかっとる。こっちのは生きとる足音やない。旧通路の記憶じゃ。昔ここを歩いた人間の靴音が残っとる」

「それ怖いんだけど」

「怖いが、危険ではない。攻撃はしてこん。ただの残響ざんきょうじゃ」

「ただの残響が一番怖いんだよ! 何もしてこない怪異が一番怖いんだよ!」

「うるさいのう。怖がるか黙るかどっちかにせい」

「両方やるから怖がりなんだろ!」

 背後から、別の足音が聞こえた。

 軽い。規則的。なゆの足音——いや、なゆの足音は普段しない。この足音は、わざと鳴らしている。

 振り返ると、なゆが通路の少し後ろを歩いていた。白いコートが暗い通路の中でぼんやり浮かんで見える。

「ついてきたの!?」

「壁の外では業務確認ができませんので」

「外で待ってなさいって言ったよね!?」

「言われていません。言われたのは"邪魔しないで"です。邪魔はしていません」

「屁理屈へりくつの精度が高い!」

『鬼灯。出ろ』

 通話越しの朔夜の声が低い。怒っている。

「夜見さん。私が中にいたほうが、影森さんの生存率は上がります」

『根拠は』

「私、こういう場所は詳しいので。何度も歩いていますから」

『何度も帳面を持って歩いた場所で、生存率が上がると言われても説得力がない』

「帳面を持って歩いたからこそ、どこで人が死ぬかを知っています。死ぬ場所を避ければ、生存率は上がります」

 論理的だ。論理的だが、前提が不穏すぎる。「どこで人が死ぬかを知っている」から安全ガイドができる。死の帳簿ちょうぼ管理者ならではの経験値。嬉しくない。

 朔夜が通話越しに沈黙した。数秒。

『……影森。鬼灯の言うことは半分だけ聞け。全部は信じるな』

「半分ってどの半分」

『方向の指示だけ聞け。感情に関わることは無視しろ』

「感情って何の」

『いいから行け』

 なゆが私の横に並んだ。距離は近くも遠くもなく、手を伸ばせば届くくらい。

「影森さん、この先で通路が分岐します。右に五十メートルほど行くと下り傾斜けいしゃがあって、その先で空間が広くなるはずです」

「なんでわかるの」

「再開発で沈んだ空間には共通するかたちがあります。旧メイン通路は必ず中央広場ひろばに繋がっていて、広場から枝状に通路が伸びています。昔の地下街は、今のように一直線ではなく、放射状ほうしゃじょうに作られていました」

「……詳しいね」

「何度も歩いていますので」

「その"何度も"、全部仕事?」

「全部仕事です」

「仕事以外で地下に来たことは?」

「ありません。地下は、生きている人のための場所ですから」

 言い方が少しだけ寂しかった。気のせいかもしれない。

 ――――――

 なゆの言う通り、通路は分岐し、右に進むと下り傾斜けいしゃがあった。天井がさらに低くなる。壁のタイルが途切れて、むき出しのコンクリートに変わった。裸電球も切れているものが増えて、ほぼ暗闇に近い区間がある。

 下る。下る。傾斜けいしゃは緩やかだが、確実に深くなっている。

 空気がさらに重くなった。匂いが変わっている。石と水の匂い。地下水が近い。壁に水滴が浮いている。指で触ると、冷たい。

「なんか、地下街っていうより洞窟どうくつっぽくなってきた」

「旧通路の深い部分は、昔の地下水路ちかすいろと接しています。この街は川が多いので、地下にも水の道があるんです」

「鬼灯さん、この街の地下に詳しすぎない?」

「帳簿管理に必要な知識です。人が死にやすい場所は、水と境界が近い場所です」

「また不穏な知識」

 ぬいが「止まれ」と言った。

 足を止める。

 目の前に——空間が広がった。

 地下広場。

 旧通路の交差点こうさてんだったらしい場所。天井が少しだけ高くなり、四方向に通路が伸びている。中央に、古いベンチが二つ。壁には色褪せた広告ポスターの跡。剥がれかけた紙の断片。タイル壁の一部が崩れて、その奥にコンクリートの地肌が見えている。

 かつてここに人が集まっていた。待ち合わせをしたり、買い物帰りに座ったり、地図を見たりしていた。その気配が、何十年も経った今もうっすら残っている。残響ではなく、もっと弱い、痕跡こんせきのような。

 広場の隅に、人がいた。

 作業着姿の男。五十代くらい。清掃用具を抱えたまま、壁にもたれて座っている。目は開いているが、焦点しょうてんが合っていない。三日間、ここにいる。

「大丈夫ですか!」

 駆け寄る。男の手を握る。冷たい。でも脈はある。生きている。

「……出口が……」

「え?」

「案内表示の通りに……歩いたのに……出口に着かない……。何回歩いても……同じ場所に……」

「大丈夫。迎えに来ました。出られますから」

「案内が……嘘を……」

 案内表示に従って歩き続けた結果、旧通路の奥に引き込まれた。出口だと思った方向は全部行き止まりか、同じ広場に戻ってくる。三日間、ここで座り込んでいた。水は壁の水滴を舐めて凌しのいだらしい。食料はない。

 男を立ち上がらせる。体力は消耗しょうもうしているが、支えれば歩ける。

「おぬし、この男、だいぶ境界に引っ張られとるぞ」

「引っ張られてるって?」

「三日もおったから、半分こっち側に馴染みかけとる。早く出さんと、この男も旧通路の住人になりかねん」

「急ごう」

 ぬいが鼻をひくつかせる。

「帰り道は……来た道を戻るのがいちばん確実じゃが」

「でも来た道、けっこう長かったよ。この人連れて上り坂を戻れる?」

「もたもたしとると、あれが来るぞ」

「あれ?」

 ぬいが耳を立てた。広場の四方の通路を順番に見回す。

「案内表示。こっちに来とる」

 広場の東側の通路の奥——暗闇の中に、光が見えた。

 案内表示の光だ。

 矢印。出口→。

 さっきまで消えていたはずの案内表示が、通路の壁に浮かび上がっている。白い光。蛍光灯の色。見やすい。わかりやすい。

 そして、矢印がこちらを向いている。

「……来た」

「あれが本体じゃ。旧通路そのものの記憶が怪異化したもんや。"ここは地下街である"という記憶が、"正しい案内表示"を再生しようとしとる。ただし、あれの"正しい"は昔の地下街のもんじゃ。あの矢印に従ったら——」

「永遠に古い通路を歩き続ける」

「そうじゃ」

 案内表示が一つ、二つ、三つと増えていく。通路の壁を埋めるように。出口→。出口→。出口→。全部同じ方向を指している。広場の奥へ。もっと深くへ。

「逃げるぞ。来た道を戻る」

 男を支えて走り出す。広場の西側の通路——来た道。上り傾斜けいしゃ。

 なゆが後ろについている。白いコートが暗い通路の中で揺れる。

 走る。男が重い。足がもつれる。傾斜けいしゃがきつい。裸電球が明滅めいめつする。

 背後で、案内表示の光が追いかけてくる。

 壁に次々と表示が浮かび上がる。出口→。でも矢印の方向は、私たちが走っている方向とは逆。戻れ、と言っている。奥へ来い、と言っている。

「見るな! 案内を見るな!」

 ぬいが叫ぶ。

「あれを見たら従いたくなる! 光に引かれるのが人間の性質じゃ! 目を逸らせ!」

「見てない! 見てないけど光が視界に入る!」

「なら目を閉じて走れ!」

「目を閉じて走ったらぶつかるだろ!」

「ぶつかるか死ぬかの二択じゃ!」

「どっちも嫌!」

 案内表示の光がさらに明るくなった。白い光。蛍光灯の光。見慣れた光。安心する光。暗い地下通路の中で、あの光だけがまともに見える。

 ——あの光の方向に行けば、出口がある。

 そう思ってしまった。一瞬だけ。でもその一瞬で、足が止まった。

「影森!」

 ぬいの声が聞こえる。朔夜の声が通話越しに聞こえる。なゆの声が——

「|見るな!」

 なゆが叫んだ。

 丁寧語ではなかった。短く、鋭く、命令形。

 でも遅い。

 私の目が案内表示を見てしまった。矢印の先。出口→。その文字の奥に、光の通路が見える。明るくて、広くて、人の気配がする。出口だ。あそこに行けば出られる。行かなきゃ。行かなきゃ——

 足が動いた。案内の方向へ。奥へ。

 ぬいが「だめじゃ!」と叫んで私の耳に噛みついた。痛い。でも止まらない。

 清掃員の男も、案内表示を見てしまっている。男の体が私の手から離れ、ふらふらと矢印の方向へ歩き出す。

「おじさん、だめ! そっちじゃない!」

 手を伸ばす。男の腕を掴む。引き戻す。でも男のほうが重い。

 案内表示の光が目の前まで来た。

 通路の壁一面が白い光に包まれている。蛍光灯。案内板。矢印。出口。全部が正しく見える。全部が嘘。

 なゆが私と男の間に割って入った。白い手をかざす。手のひらから——光ではないが、光のようなものが漏れた。男の目が閉じる。意識が案内表示から切り離される。男がぐったりと崩れる。なゆが片手で男を支えた。

「影森さん、目を閉じて!」

「閉じ——」

 間に合わなかった。

 案内表示の光が、私の目から入ってきて、頭の中に直接流れ込んだ。地図。通路。矢印。方向。全部が書き換えられる。どっちが上でどっちが下か。どっちが出口でどっちが奥か。全部が逆転する。

 足が動く。勝手に。案内の方向へ。奥へ。

「影森さん!」

 なゆの声が遠い。

 通路の奥から、冷たい手が伸びてきた。白い手。細い指。壁から伸びる腕。旧通路の——記憶の中に残っていた、最後の住人の手。

 首に巻きついた。

「っ——」

 冷たい。息ができない。

 ぬいが噛みついている。爪を立てている。でも軽すぎる。振り払われる。

「あ……」

 朔夜の声が聞こえる。通話越し。遠い。

『影森! 映像が——切れ——』

 最後に見えたのは、なゆの顔だった。

 笑っていなかった。

 初めて見る表情。穏やかでも事務的でもない。ただ——手を伸ばそうとしていた。

 視界が暗くなった。

 ――――――

 真っ暗。

 音がない。匂いもない。温度もない。

 あ、死んだな、と思った。

 慣れてきている自分が嫌だ。何回目だっけ。帳面に正の字が増える。また一本。

 暗闇の中で、白い手帳が見えた。

 誰かが持っている。白い指。きれいな手。

 なゆだ。

 私のそばに立っている。立っている、というか、この暗闇の中に一緒にいる。生死の境目のような、どこでもない場所。

「影森さん」

 声は穏やかだった。でもいつもの笑顔はなかった。

「……死んだ?」

「はい」

「何回目?」

 なゆが手帳を開いた。正の字を数える。

「八回目です」

「増えたなぁ」

「増えましたね」

 なゆがペンを出した。細い銀色のペン。正の字を一本、書き足そうとする。

 ——止まった。

 ペン先が紙の上で止まっている。

「書かないの?」

「……」

「書かないと、帳簿が合わないんじゃないの」

 なゆが私を見た。薄い琥珀こはく色の瞳。暗闇の中でかすかに光っている。

「影森さん」

「うん」

「今回は——貸しにしておきます」

「え?」

「帳簿には記録しますが、清算せいさん対象には含めません。猶予ゆうよ枠の特別処理です」

「そんなのできるの?」

「私の裁量さいりょう範囲内です。ただし、一度だけ。次はありません」

「なんで」

 なゆは少し考えた。この人が考える時間を取るのは珍しい。いつもは即答するか、答えないかのどちらかだ。

「……あの通路の中で、あなたは清掃員の方を庇いました。自分が逃げれば助かったのに、男の人を引き戻そうとして、逃げ遅れた」

「それ、私がバカだっただけじゃん」

「はい。帳簿上は、非合理的ひごうりてきな行動による死亡です」

「ひどい分類」

「ですが」

 なゆが手帳を閉じた。

「非合理的な行動で死ぬ人は、帳簿管理をしていると、ごくまれにいます。自分が逃げれば助かるのに、誰かのために残って死ぬ人。帳簿上は"処理しづらい案件"です」

「処理しづらい」

「はい。なぜなら、その死は本人の選択だから。奪われたのではなく、使ったんです。命を。誰かのために」

「大げさだよ。そんなかっこいいもんじゃない」

「かっこよくはないです。帳簿的にも非効率です。でも」

 なゆが微笑んだ。今までとは少し違う笑顔。事務的ではない。もっと——柔らかい。

「だから、貸しにしておきます」

「……ありがとう。なのかな」

「ありがとう、で大丈夫ですよ」

「じゃあ、ありがとう」

「どういたしまして。——では、戻してもらってください」

「え?」

「蘇生そせいは夜見さんの仕事です。私の管轄かんかつではありません」

「管轄が分かれてるんだ」

「分業ぶんぎょうです」

「お役所仕事だね」

「帳簿管理は常にお役所仕事です」

 暗闇が少しだけ明るくなった。遠くから、光が差してくる。

 朔夜の蘇生そせいだ。

 ――――――

「がっ……!」

 空気が肺に流れ込む。痛い。冷たい。全部戻ってくる。体の重さ、首の痛み、床のタイルの感触。

 咳き込む。

「げほっ、げほっ……」

「応急おうきゅう蘇生そせい。緊急対応きんきゅうたいおう料金」

 朔夜の声。低い。怒っている。いつもの「赤字だ」とは違うトーン。本気で怒っている。

「映像が切れた」

「……ごめん」

「ごめんで済むか。あと十秒遅れてたら間に合わなかった」

「でも、おじさんは……」

「鬼灯が外に出した。お前が死んだ後、鬼灯があの男を抱えて壁まで走った。俺が"境界切断ボーダー・カット"で壁を開けた。男は出た。お前は——中に残ってた」

「なゆ……鬼灯さんが、おじさんを?」

「ああ。そのあと壁を開け直して、お前の体を引きずり出した。蘇生そせいは俺がかけた」

 つまり、なゆが清掃員を救出して、なゆが私の体を回収して、朔夜が蘇生そせいした。

 なゆがいなかったら、男も私もあの通路の中に残っていた。

「…………」

「何か言え」

「……鬼灯さんに、お礼言わなきゃ」

「お礼」

「だって助けてもらった」

 朔夜の顔が——嫉妬ではなく、もっと複雑な何かを浮かべた。怒り。安堵あんど。苛立いらだち。それと、たぶん、ほんの少しだけの悔しさ。自分が中にいれば助けられた、という。

「……蘇生そせい費は通常の倍だ」

「倍!?」

「緊急対応料金だ。壁を二回開けた分も含む」

「私が死んだの私のせいじゃないんだけど!」

「案内表示を見たのはお前だ」

「見るなって言われても光ってたら見るでしょ!」

「見るなと言われて見る人間は、教育コストの高い労働者だ」

「教育コストで命を語るな!」

 ぬいが私の胸元から這い出してきた。潰されかけていたらしい。毛がぺしゃんこになっている。

「おぬし、今回も死んだのう」

「うん」

「学習せんのう」

「学習しても避けられない死がある」

「それを言い訳と呼ぶのじゃ」

「言い訳じゃないよ。物理的に無理だったの」

「まあ、生きとるからよい。あと、わしの毛並みを戻す方法を考えてくれ。潰れた」

「自分でなんとかして」

 ――――――

 旧通路の怪異は、朔夜が外から"霊路閉鎖ライン・クローズ"で通路の接続を断ち、"再帰封止ループ・ロック"で案内表示の再生を止めた。完全消滅ではない。根っこは残っている。だが、案内表示が現行通路に浸食しんしょくするのは止められた。

「根本的に潰すには、旧通路の記憶ごと焼く必要がある。"記録焼却ログ・イレイズ"クラスだ」

「今は無理なの?」

「金が足りない。管理会社の予算では一時封止が限界。完全焼却は別案件として再依頼してもらう」

「つまり、またこの案件に来る可能性がある」

「ある。地下は深いからな」

 清掃員の男は槙野に引き渡した。三日ぶりの地上。朝日が差している。男は「報酬は入りますか」と管理会社の担当者に聞いていた。担当者は「入ります」と答えた。この人は報酬がもらえる。闇バイトの子はもらえなかったのに。世の中は理不尽だが、今回は少しだけまともな理不尽だ。

 槙野が男を車に乗せながら、私を見た。

「影森。怪我は」

「死にました」

「…………」

「蘇生そせいされたので大丈夫です」

「その報告の仕方をやめろ。俺の胃が持たない」

「すみません」

 槙野は本当に胃が痛そうだった。この人を巻き込んで申し訳ない気持ちがある。でも他に報告の仕方がわからない。

 ――――――

 朝方。地下街の出口。空が白み始めている。

 なゆがまだいた。

 出口の横の自販機の前に立っている。白い髪が朝の光を拾って、薄い藤色に見える。コートに汚れひとつない。旧通路の中を走って、男を抱えて壁まで運んで、私の体を引きずり出して——それでこの清潔さ。人間じゃないことがよくわかる。

 私はなゆの前に立った。

「ありがとう。おじさんを助けてくれて」

「業務の延長です」

「私の体を運んでくれたのも?」

「帳簿に記載した対象の遺体いたいを放置するわけにはいきませんので」

「遺体って言わないで。蘇生そせいされたし」

「失礼しました。一時的に停止していた肉体、です」

「それも嫌な言い方だよ」

 なゆが少しだけ笑った。いつもの事務的な笑顔ではない。もう少しだけ——人間寄りの笑い方。

「……さっき、中で、"貸しにしておきます"って言ったよね」

「言いました」

「あれ、大丈夫なの? 帳簿上」

「大丈夫ではありません。私の裁量さいりょうを少し超えています。上に報告すれば問題になります」

「じゃあなんで」

「…………」

「なんで貸しにしてくれたの」

 なゆが自販機のボタンを押した。温かいお茶が出てきた。それを私に渡す。

「のどが渇いているでしょう。蘇生そせい直後は脱水だっすいしやすいですから」

「質問をお茶で流さないで」

「流していません。優先順位の問題です。まず水分、次に説明」

「じゃあ説明して」

「…………非合理的な死に方をする人を、帳面に書くのが嫌だったんです」

「嫌」

「はい。嫌、です。業務用語にはない感情ですが」

「それって——」

 なゆが別のボタンも押した。もう一本。缶コーヒー。ブラック。

「こちらは夜見さんに」

「え、朔夜にも買うの?」

「一晩中外で待機されていましたから。蘇生そせいもされましたし」

「……なゆ……鬼灯さん、なんで朔夜にまで気を遣うの。朔夜、あなたのこと嫌ってるのに」

「嫌われていることは知っています。でも、影森さんの蘇生そせいをしているのは夜見さんです。影森さんが生きて帰ってこられるのは、夜見さんのおかげです。それは事実ですから」

「……」

「私は帳面に書く側で、夜見さんは帳面を書き直す側です。立場は違いますが、影森さんのことを見ているのは——」

 なゆが言いかけて、止めた。手帳を胸元にしまった。

「お茶、冷めますよ」

「今いいところだったのに」

「いいところではありません。業務外の発言は控えます」

「都合のいい時だけ業務に戻らないで!」

 朔夜が地下街の出口から出てきた。疲れた顔。一晩中、壁の外で封域ふういきを維持していた。

 私となゆが自販機の前で並んでいるのを見て、足が止まった。

「……何してる」

「お茶もらった」

「誰に」

「鬼灯さんに」

 朔夜の目がなゆに向いた。なゆは缶コーヒーを差し出した。

「夜見さん、お疲れ様です。ブラックでよろしいですか?」

「…………」

「お嫌いでしたか?」

「嫌いだ」

「コーヒーが?」

「お前が」

「承知しました。コーヒーはここに置いておきますね」

 なゆが自販機の横に缶を置いた。朝の光の中で、白い手がすっと引かれる。動作がきれいだ。無駄がない。

 朔夜は缶を見て、数秒黙って、それから拾い上げた。

「……拾うのかよ」

 ぬいが呟いた。私も思った。

 朔夜は缶を開けながら歩き出した。

「帰るぞ」

「うん」

「鬼灯。もう帰れ」

「帰ります。業務は終了しましたので」

「二度と来るな」

「次に影森さんが案件に入られた時に、また参ります」

「来るな」

「業務ですので」

 朔夜の背中が一段と険しくなる。

 十メートルほど歩いたところで、朔夜がぼそっと言った。

「あいつから物をもらうな」

「お茶だよ。百二十円の」

「金額の問題じゃない」

「じゃあ何の問題」

「…………」

 答えない。でもその横顔は、地下街の怪異を相手にしている時より、ずっと険しかった。

 缶コーヒーは飲んでいた。嫌いと言いながら飲んでいる。この男は。

 ――――――

 事務所に戻って、後処理。

 朔夜は管理会社に請求書を送り、真琴まことに「アーカイブ用映像の切り出し」を依頼した。非公開記録だが、一部は編集して配信素材にするらしい。

「今回、ゆらちゃん死んだんですね」

 真琴の声が、通話越しに平坦だ。もう慣れている。慣れないでほしい。

「死にました」

「何が原因ですか」

「案内表示を見た」

「案内表示で死ぬバイト、労基に相談したほうがいいですよ」

「労基に行ったら怪異案件のほうを先に問題にされそう」

「それはそう」

 ぬいがソファの上から呟いた。

「おぬし、今回鬼灯がおらんかったら、おっさんもおぬしも終わっとったぞ」

「……わかってる」

「あやつが男を運び出して、おぬしの体も引っ張り出した。朔夜は外からしか手が出せんかった。中に入って動いたのは鬼灯だけや」

「わかってるよ」

「わかっておるなら、ひとつだけ言うとくぞ」

 ぬいが琥珀こはく色の目を、まっすぐ私に向けた。小さな体。ふわふわの毛。でも目だけが、今、鋭い。

「あやつは"貸しにしておく"と言うたんやろ」

「……なんで知ってるの」

「おぬしが死んどった間、おぬしの体のそばにあやつがおった。手帳を開いて、ペンを持って、でも書かんかった。しばらくそうしとって、手帳を閉じた。それからおぬしを壁まで運んだ」

「……見てたんだ」

「見とった。あのな、おぬし」

「うん」

「帳面に書かんかった理由が、業務じゃなくなっとる」

 朔夜は何も言わなかった。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。缶コーヒーの空き缶を握り潰して、ゴミ箱に投げた。入った。

 私はお茶の缶を見た。自販機で百二十円。鬼灯なゆが買ってくれた、温かいお茶。

 あの人は「貸しにしておく」と言った。帳簿に書かなかった。業務規定を曲げた。

 なぜか。

 「非合理的な死に方をする人を帳面に書くのが嫌だった」。

 嫌。

 死を数え続けてきた存在が、ひとつだけ数えたくなかった。

 それは業務じゃない。

 ぬいの言う通りだ。

 あの人の帳面に、私の名前がある。正の字が並んでいる。でも今回の一本だけが——書かれていない。

 空白。

 その空白が、百二十円のお茶より、ずっと重い。

 ――帳簿の余白は、減っている。

 でも今回だけ、一本分の猶予ゆうよができた。

 鬼灯なゆが、私にくれた猶予ゆうよ。

 「次はありません」とあの人は言った。

 次は、死ねない。

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作者について

勇者ヨシ君

勇者ヨシ君

愛知県安城市で「ギルド酒場るすと」というゲームバーをやりながら、小説を書いています。 レトロゲーム、ボードゲーム、シーシャ、酒場の空気感が好きです。 異世界×ゲーム×酒場の作品や、 ホラー×...

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