プロローグ・戦士の館は本日も混雑中
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
北欧神話の戦士の館ヴァルハラ。 そこは本来、戦場で勇敢に死んだ戦士たちがオーディンのもとへ集いラグナロクに備えて宴と鍛錬を続ける栄光の広間であった。 しかし近代以降、戦争はあまりにも複雑になった。 剣と盾で倒れた者だけでなく砲兵、戦車兵、航空兵、潜水艦乗り、参謀、軍需官僚、宣伝担当、独裁者、戦争犯罪者まで、次々と「自分も戦士である」と名乗って押し寄せてくる。 その結果ヴァルハラは荘厳な戦士の館であると同時に、死者受入、武勇審査、席次管理、戦争責任調査、異界間移送協議を行う巨大官僚機構と化していた。 これは戦士たちの栄光と酒と反省文が入り混じる、ヴァルハラ版あの世事務処理コメディである。
本文
黄金の扉は朝から軋んでいた。
ヴァルハラ。
戦場で勇敢に倒れた戦士たちが集う、オーディンの館。
そこでは昼ごとに戦士たちが剣を交え、夕べには傷も癒え、広間に戻って肉を食らい、酒を飲み、ラグナロクの日まで誉れ高き宴を続ける。
少なくとも、ミストはそう聞いていた。
新任ヴァルキリーである彼女は、配属通知を受け取った日から胸を高鳴らせていた。
戦場を駆け、勇者を選び、白馬に乗って雲を裂き、戦士の魂を高らかにヴァルハラへ導く。
そういう仕事だと思っていた。
だから彼女は初出勤の日、磨き上げた鎧を身につけ、槍の穂先を朝日に輝かせ、神妙な面持ちで黄金の大門の前に立った。
そして、扉が開いた。
中から聞こえてきたのは、戦士たちの雄叫びではなかった。
「整理番号281番から290番の方、武勇審査窓口へお進みください」
神々しい広間に、事務的な声が響いていた。
ミストは瞬きをした。
もう一度、瞬きをした。
黄金の柱。巨大な梁。天井から吊られた戦勝の旗。壁には無数の盾と剣。広間の奥には玉座。
そこまでは、たしかに彼女の想像したヴァルハラだった。
しかし足元には赤い誘導ロープが張られ、受付窓口が並び、柱の間には「初回受入」「再審査」「異議申立」「神話圏照会」「戦争責任関係者はこちら」などの札が掲げられていた。
戦士たちは列を作っていた。
毛皮をまとったヴァイキング。鎖帷子の騎士。軍服姿の兵士。飛行服の男。戦車兵らしい油まみれの顔。どこかの砲兵。潜水艦乗り。軍帽を抱えた老将。
その全員が、手に書類を持っていた。
ミストは小声でつぶやいた。
「……ここ、ヴァルハラですよね」
隣にいた受付係のヴァルキリーが、羽根ペンを動かしたまま答えた。
「はい。ヴァルハラ戦死者審査局です」
「戦死者……審査局」
「正式には、オーディン直轄死者受入及び武勇審査統合管理機構ヴァルハラ戦死者審査局ですが、長いので局で結構です」
ミストは、初日に聞くにはあまりにも嫌な正式名称を聞いた気がした。
その時、広間の奥から、一人のヴァルキリーが歩いてきた。
銀色の鎧に濃紺の外套。長い髪をきっちり結い、片手には分厚い綴じ帳を抱えている。
彼女が歩くだけで、騒がしかった列が少し静かになった。
受付係が背筋を伸ばす。
「ブリュンヒルデ管理官」
ミストも慌てて姿勢を正した。
ブリュンヒルデは、ミストの前で立ち止まった。
「新任のミストですね」
「はい。本日付で配属されました。よろしくお願いいたします」
「よろしい。まずは誤解を解きます」
「誤解、ですか」
「あなたはおそらく、戦場で英雄を選び、華々しくこの館へ導く仕事を想像しているでしょう」
「はい」
「それは業務の一部です」
「一部」
「全体の二割にも満たない場合があります」
ミストの表情が固まった。
ブリュンヒルデは、綴じ帳を開いた。
「古代は簡単でした。剣を持って倒れた。盾を抱えて倒れた。敵に背を向けなかった。はい、戦士です。審査も早かった」
彼女は淡々とページをめくった。
「しかし時代が下るにつれ、戦争は複雑化しました。弓兵、騎兵、砲兵、銃兵、戦車兵、航空兵、潜水艦乗り、参謀、通信兵、軍医、軍需担当、政治指導者、宣伝担当、戦争を始めた者、戦争で儲けた者、戦場に一度も出ていないのに自称戦士として来る者」
そこで彼女は、受付列の一角を見た。
「そして、書類を読まない者」
その一言で、列の中の大柄なヴァイキングがびくりと肩を揺らした。
彼の手には、明らかに未記入の申請書があった。
ブリュンヒルデは目を細めた。
「発言申請書以前に、入館申請書が白紙です」
ヴァイキングは胸を張った。
「我は東の海で三十人を斬った」
「記入欄はここです」
「我の斧が証明する」
「斧は添付資料ではありません」
「だが斧だぞ」
「斧は添付資料ではありません」
広間に小さな笑いが起きた。
ヴァイキングはしぶしぶ受付机に戻った。
ミストは、その一連のやりとりを見て、ようやく理解し始めていた。
ここは戦士の館である。
ただし、かなり事務的な戦士の館だった。
ブリュンヒルデはミストを連れて、広間の各部署を案内した。
まずは戦死者受入課。
ここでは、死者が本当に戦場で死亡したのか、どの戦争のどの局面で倒れたのか、所属はどこか、信仰圏はどこに属するかが確認されていた。
受付の横には大きな札が掲げられている。
「戦死と事故死は別区分です」
ミストは思わず尋ねた。
「事故死の方も来るんですか」
「来ます。非常に来ます」
「非常に」
「武器の手入れ中、馬から落ちた、酒場の喧嘩、訓練中の誤射、砲弾を記念品にしようとして爆発、戦車の下敷き、飛行機のプロペラに接触」
ブリュンヒルデは言った。
「その全員が一度は言います。あれも戦場の一部だと」
「なるほど……」
「なるほどではありません。分類してください」
次に武勇審査係。
そこでは古代の槍兵と近代の歩兵が言い争っていた。
「盾も持たず遠くから撃つのは戦士ではない」
槍兵が言う。
歩兵は肩をすくめた。
「こっちは機関銃と砲撃の中を進んだんだ。盾があればむしろ持ちたかった」
審査係のヴァルキリーが、二人の間に判子を置いた。
「武勇の形式は時代により異なります。両名とも追加資料を提出してください」
「追加資料とは」
「戦況図、所属部隊記録、目撃証言、死亡時状況、可能ならば敵味方双方の記録」
槍兵が呻いた。
「死んでからの方が面倒だな」
歩兵がうなずいた。
「そこは同意する」
ミストは小さく息を呑んだ。
戦士たちが互いの時代を否定し合い、それをヴァルキリーたちが書類で調停している。
神話というより、歴史の役場だった。
次に宴会秩序維持班。
ここはかなり騒がしかった。
広間の一角で、ヴァイキング、騎士、戦車兵、航空兵が同じ卓を囲んでいた。
何か揉めているらしい。
「空から落とすなど卑怯ではないか」
騎士が言う。
「それを言うなら、馬で歩兵を踏むのも大概だろ」
航空兵が言い返す。
戦車兵がジョッキを掲げた。
「踏むなら装甲で踏め」
ヴァイキングが笑った。
「ならば我は斧で踏む」
「斧で踏むとは何ですか」
秩序維持班のヴァルキリーが机を叩いた。
「時代間武勇論争は三杯目までです。四杯目以降は演習場でお願いします」
全員が黙った。
どうやら規則として定着しているらしかった。
ミストはますます不安になってきた。
「ブリュンヒルデ管理官」
「何です」
「私は、本当にここでやっていけるでしょうか」
ブリュンヒルデは即答しなかった。
少しだけ歩みを止め、広間を見渡した。
その視線の先には、騒ぐ戦士たちがいた。
古い時代の者も、新しい時代の者もいた。
笑っている者。怒っている者。黙って座っている者。書類に向き合う者。まだ自分が死んだことを受け入れられず、受付の前で立ち尽くす者。
ブリュンヒルデは静かに言った。
「ここには、栄光だけが来るわけではありません」
ミストは彼女を見上げた。
「恐怖も、後悔も、責任も、言い訳も、誇りも、全部来ます。だから審査が必要です」
その声は冷たくはなかった。
ただ、長い年月の重さを帯びていた。
「我々は戦士を飾るためだけにいるのではありません。誰が何をしたのか。どこまでが武勇で、どこからが責任なのか。それを見届けるためにいます」
ミストは、初めて背筋が伸びるのを感じた。
その瞬間だった。
広間の入口がざわついた。
受付係が立ち上がる。
「管理官、戦争責任特別調査室案件です」
ブリュンヒルデの表情がわずかに変わった。
「時代は」
「20世紀。ゲルマン圏照会あり。本人は中央席を希望しています」
「中央席」
周囲のヴァルキリーたちの空気が一段重くなった。
ミストは入口を見た。
そこに、一人の男が立っていた。
軍服に似た服を着ている。小柄で、奇妙に硬い姿勢。生前の肩書きをまだ背中に背負っているかのような顔。
彼は周囲を見回し、不愉快そうに口を開いた。
「私はドイツ国首相であり――」
その言葉は最後まで続かなかった。
ブリュンヒルデが、手元の綴じ帳を閉じた。
音は小さかった。
だが、広間全体が静まり返った。
「その肩書きは当局では確認できません」
男の目が見開かれた。
「何だと」
ブリュンヒルデは受付係に言った。
「戦歴欄を」
受付係が書類を確認する。
「第一次世界大戦従軍。伝令兵。負傷歴あり。鉄十字章受章歴あり」
広間のあちこちで、戦士たちがざわめいた。
一兵士としての履歴は、確かにあった。
ブリュンヒルデはうなずいた。
「従軍事実は確認しました」
男は鼻を鳴らした。
「ならば」
「ただし」
その一言で、男の言葉が止まった。
ブリュンヒルデの声は、広間の隅々まで通った。
「第一次大戦の一兵士としての従軍事実は認めます。ただし、その後の政治指導者としての責任は、別審査です」
彼女は書類に判を押した。
「中央席は認めません。証言聴取席へ」
男の顔が歪んだ。
「私は総統で――」
その背後から、別のヴァルキリーが現れた。
黒に近い青の鎧をまとい、鋭い目をした女だった。
彼女は、男の言葉を紙のように切り落とす声で言った。
「自己正当化の序文を検出。証言聴取後に再提出してください」
ミストは小さく息を呑んだ。
ブリュンヒルデが言った。
「ラーズグリーズ。処理を」
ラーズグリーズと呼ばれたヴァルキリーは、男の前に一枚の札を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
アドルフ
1914年から1918年の伝令兵
男は札を見つめた。
「姓は」
「審査中です」
「肩書きは」
「預かり扱いです」
「席は」
ラーズグリーズは広間の入口近くを指した。
そこには、中央の宴席から遠く離れた、小さな机と椅子があった。
椅子の前には札がある。
証言聴取席。
男は怒りで震えた。
だが広間の誰も、彼に敬礼しなかった。
拍手もなかった。
旗もなかった。
ただ、無数の死者の視線があった。
ブリュンヒルデは静かに告げた。
「あなたは語ることに慣れすぎました」
そして、少しだけ間を置いた。
「しばらくは聞いてください」
広間の奥で、次の整理番号が呼ばれた。
「291番から300番の方、武勇審査窓口へお進みください」
日常が戻る。
ヴァルハラの一日は、まだ始まったばかりだった。
ミストは、黄金の広間に立ち尽くしていた。
彼女が思い描いていた戦士の館とは、ずいぶん違っていた。
けれど、ここには確かに戦士たちがいた。
そして、戦士ではないのに戦士の席を求める者たちもいた。
そのすべてを前に、ブリュンヒルデは綴じ帳を抱え直した。
「ミスト」
「はい」
「本日の研修内容です。まず、入館申請書の確認。次に死亡状況分類。午後からは時代間武勇論争の議事録作成」
「議事録……ですか」
「はい。昨日は騎士団と戦車兵が三時間揉めました」
「何についてですか」
「馬と履帯、どちらが戦場において高貴か」
ミストは遠い目をした。
「……結論は出たのですか」
ブリュンヒルデは表情を変えずに言った。
「出ると思いますか」
ミストは、初めてヴァルハラで深くうなずいた。
その日、彼女は悟った。
ラグナロクより先に、書類が来る。
そしておそらく、書類はラグナロクの後も残る。