第16話 ローマ方面より異議あり
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あらすじ
北欧神話の戦士の館ヴァルハラ。 そこは本来、戦場で勇敢に死んだ戦士たちがオーディンのもとへ集いラグナロクに備えて宴と鍛錬を続ける栄光の広間であった。 しかし近代以降、戦争はあまりにも複雑になった。 剣と盾で倒れた者だけでなく砲兵、戦車兵、航空兵、潜水艦乗り、参謀、軍需官僚、宣伝担当、独裁者、戦争犯罪者まで、次々と「自分も戦士である」と名乗って押し寄せてくる。 その結果ヴァルハラは荘厳な戦士の館であると同時に、死者受入、武勇審査、席次管理、戦争責任調査、異界間移送協議を行う巨大官僚機構と化していた。 これは戦士たちの栄光と酒と反省文が入り混じる、ヴァルハラ版あの世事務処理コメディである。
本文
異界連絡室の待合は、ヴァルハラ戦死者審査局の中でも特に時間の流れが遅く感じられる場所だった。
壁には、各神話圏への照会状況が掲示されている。
北欧方面。
ローマ方面。
ギリシャ方面。
ケルト方面。
エジプト方面。
その他、本人申告により随時追加。
待合席には、さまざまな者たちが座っていた。
自称半神。
自称皇帝。
自称英雄。
自称解放者。
自称、古き王の正統なる継承者。
その中で、ひときわ落ち着きがない男がいた。
ベニート・ムッソリーニである。
彼は番号札を握りしめていた。
98番。
掲示板には、現在の呼び出し番号が出ている。
現在 52番
ムッソリーニはその表示を睨んだ。
「遅い」
ラードグリーズは、机の向こうで綴じ帳をめくりながら答えた。
「順番です」
「私は待たされるために来たのではない」
「多くの方がそうおっしゃいます」
「私はローマの継承者だ」
「その申告について、ローマ方面へ照会中です」
「照会など不要だ。ローマとは私が掲げた旗であり、私はその精神を」
掲示板が光った。
演説による列妨害 警告
ラードグリーズが顔も上げずに言った。
「累積9件目です」
ムッソリーニは口を閉じた。
近くに座っていた古代風の甲冑の男が、短く言った。
「列は守れ」
ムッソリーニはその男を睨みかけたが、何となくやめた。
その男がどこの誰なのか、まだ本人確認中だったが、周囲の待合客は誰も彼に逆らおうとしない。
ヴァルハラの待合では、肩書きよりも沈黙の重みの方が効くことがある。
ムッソリーニは再び立ち上がった。
「もうよい」
ラードグリーズが筆を止めた。
「何がでしょう」
「私はもう待たん。ローマへ行く」
待合室の空気が、少し動いた。
ラードグリーズは、机の下から一枚の用紙を出した。
「退去申請書です」
ムッソリーニは固まった。
「退去に申請がいるのか」
「行き先確認が必要です」
「ローマだ」
「ローマ方面ですね」
「ローマ以外に何がある!」
ラードグリーズは淡々と答えた。
「都市としてのローマ。共和政ローマ。帝政ローマ。教皇庁方面。近代イタリア方面。神話上のローマ。観念上のローマ。その他、本人申告による派生領域」
ムッソリーニはしばらく黙った。
「……多すぎる」
「ローマは長いですから」
彼は奪うように退去申請書を受け取った。
「書けばよいのだろう」
「はい」
「私は、ローマへ戻る」
「希望行き先欄にそのままご記入ください」
「この欄は狭すぎる」
「長い主張は別紙です」
「別紙などいらん」
「では狭い欄でお願いします」
ムッソリーニは怒りながら羽根ペンを走らせた。
希望行き先
ローマ
ラードグリーズは申請書を受け取り、確認印を押した。
「ローマ方面へ退去照会を送ります」
「今すぐ通せ」
「回答をお待ちください」
「また待つのか!」
「はい」
掲示板の横に、別の表示が灯った。
ローマ方面退去照会中
しばらくして、掲示が変わった。
ローマ方面より回答あり
ラードグリーズは届いた文書を開いた。
一読し、少しだけ眉を上げた。
ムッソリーニは身を乗り出す。
「何とある」
ラードグリーズは読み上げた。
「ローマ方面照会回答。対象者、ベニート・ムッソリーニ。申告、ローマの継承者。回答、異議あり」
ムッソリーニの顔が固まった。
「異議」
「はい」
「誰が」
「複数方面です」
「複数」
ラードグリーズは続けた。
「本人によるローマ概念の政治的濫用、古代ローマ継承主張に関する未整理事項多数。入域前に異議審査を要す。備考、カエサル方面、アウグストゥス方面、共和政方面、教皇庁方面、近代イタリア方面より別途照会予定」
ムッソリーニは、ゆっくりと両手を広げた。
「では私はどこへ行けというのだ!」
ラードグリーズは静かに答えた。
「ここでお待ちいただけます」
「結局待つではないか!」
「はい」
その時、異界連絡室の外で受付係の声がした。
「管理官、艦魂審査仮窓口に新規来訪者です」
ブリュンヒルデが中央広間から歩いてきた。
「艦名は」
受付係は書類を読み上げた。
「イタリア海軍戦艦、ローマ」
ムッソリーニの顔が一瞬で変わった。
「ローマ!」
彼は待合室を飛び出しかけた。
ラードグリーズが言った。
「退去申請は保留中ですので、待合からの無断離席は」
「イタリア海軍の戦艦だぞ! ローマだぞ!」
「艦魂審査仮窓口は別窓口です」
「私はローマの名を掲げた男だ!」
掲示板がまた光った。
演説による列妨害 警告
ラードグリーズが記録した。
「累積10件」
それでもムッソリーニは、半ば強引に中央広間へ顔を出した。
艦魂審査仮窓口の前に、一人の女性が立っていた。
白と紺、そして鉄灰色を基調とした軍装風の装い。
背筋はまっすぐで、艦首のような気品がある。
だが、その瞳には、深い海へ沈んだものだけが持つ冷たさがあった。
彼女は静かに名乗った。
「イタリア海軍戦艦、ローマ」
艦魂審査仮窓口の札が、かすかに揺れた。
艦魂審査仮窓口
艦艇・艦魂・船霊・擬人化来訪者はこちら
乗員名簿をお忘れなく
ムッソリーニは両腕を広げた。
「おお、栄光の戦艦ローマではないか!」
ローマはゆっくりと彼の方を見た。
そして、心底うんざりしたように言った。
「その呼び方、あなたに言われると妙に腹が立つわね」
ムッソリーニの腕が止まった。
「な、何を言う。私はローマの栄光を」
「栄光、栄光って便利な言葉ね」
ローマの声は静かだったが、よく通った。
「こっちは、あなたたちが積み上げた戦争と采配の後始末で、ひどい目に遭ったのだけれど」
ムッソリーニは言葉を失った。
彼女は続けた。
「私の名を聞いて、自分の旗の飾りのように喜ばないで。私はあなたの演説の背景ではないわ」
ブリュンヒルデが前へ出た。
「戦艦ローマ。来訪目的を確認します」
ローマは、中央広間の一角を見た。
そこには、証言聴取席がある。
ヒトラーが座っていた。
机の上には、新しい札が置かれている。
アドルフ・ヒトラー
第一次世界大戦伝令兵としての軍歴および一部功績確認済
国家指導責任審査中
戦争責任特別調査中
証言聴取継続
以前の札よりも、名は正式になっていた。
だが、その分、責任項目は増えている。
ミストはその札を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
認めるところは認める。
だが、それは逃げ道ではない。
むしろ次の審査へ進むために、書類が正確になっただけだった。
ローマはヒトラーを見据えた。
「ドイツに、一言言いたい相手がいるの」
ブリュンヒルデはうなずいた。
「戦場証言として受理します」
ムッソリーニが慌てて割り込んだ。
「待て、ローマよ。まず私と話を」
ローマは振り返った。
「あなたは待合に戻りなさい」
「何だと」
「ローマ方面も、まだあなたを通していないのでしょう」
ラードグリーズが淡々と補足した。
「はい。ベニート・ムッソリーニ、98番。ローマ方面、異議審査待ち。退去申請、保留中」
ムッソリーニは叫んだ。
「まだ98番なのか!」
「番号は維持されています」
彼は一瞬だけ安心しかけた。
「維持されたのか」
「ただし、待合席は別の方が使用しています」
「なぜだ!」
「自由席です」
古代風の甲冑の男が、遠くの席で静かに座っていた。
ムッソリーニはその姿を見て、言い返すのをやめた。
その時、反省文作成室の扉が少し開いた。
ゲッベルスが顔を出した。
「待て。なぜ総統だけが正式名で扱われている」
スクルドがすぐ後ろから現れた。
「反省文作成室からの無断発言です」
「重要な異議だ」
ヒムラーも、番号のない上映室へ戻される途中で足を止めた。
「私にも組織を率いた経歴がある。なぜ総統だけが軍歴として認められる」
ブリュンヒルデは二人を見た。
「ヒトラーについては、第一次世界大戦における伝令兵としての軍歴と一部功績が確認されました」
ゲッベルスが不満げに言った。
「では私は」
「あなたには、兵士として認定できる軍歴がありません」
ゲッベルスは口を閉じた。
スクルドが付け加える。
「宣伝関係責任、文書責任、神話意匠宣伝使用責任は審査中です」
ヒムラーが言った。
「私は武装組織を率いた」
ブリュンヒルデは即座に答えた。
「それは兵士としての軍歴ではありません。組織管理責任として別に審査します」
ラーズグリーズが続けた。
「武装組織を管理したことと、戦士として認定されることは別項目です」
ヒムラーは押し黙った。
遠くの財産関係照会窓口から、フリストの声がした。
「ヘルマンについては、第一次大戦航空兵歴は照会済みです。ただし現在、財産関係照会中です」
ゲーリングが窓口から顔を上げた。
「その札を外せ!」
フリストは書類をめくりながら答えた。
「由来欄が埋まれば検討します」
ゲーリングはまた羽根ペンを握った。
中央広間に、妙な静けさが降りた。
ヒトラーは札を見ていた。
正式名になった。
伝令兵としての軍歴も、一部功績も認められた。
だが、目の前には戦艦ローマの艦魂が立っている。
その視線は、名誉の確認に来た者を見るものではない。
証言に来た者の目だった。
ブリュンヒルデが告げる。
「戦艦ローマ。ヒトラーの証言聴取における証言者として受理します。艦魂審査仮窓口より、戦場証言照合室へ回付」
ローマはうなずいた。
「ありがとう」
ヒトラーが低く言った。
「私は、あの攻撃を直接指揮したわけではない」
ラーズグリーズが即座に言った。
「直接指揮の有無による責任希釈を確認」
ヒトラーは彼女を睨んだ。
「まだ何も言っていない」
「言い始めました」
ローマは静かに近づいた。
「私は、あなたの国の爆弾で沈んだ」
ヒトラーは言いかけた。
「それは軍事上の」
ラーズグリーズの声が重なる。
「軍事上という語による責任希釈を確認」
ローマは一歩前に出た。
「私は敵として沈んだのではない。少なくとも、あなたたちから見れば昨日まで同盟だった国の艦よ」
彼女の声は大きくない。
だが、広間の端まで届いた。
「休戦の後、私は海へ出た。そして、ドイツの誘導爆弾で撃たれた。フリッツX。高い空から落ちてきた、あなたたちの技術と戦争の答え」
ヒトラーは黙った。
「あなたの国は、味方だったものまで撃った。あなたたちが作った戦争は、最後にはそういう形で海へ落ちてきたのよ」
ムッソリーニは何か言おうとした。
ローマは彼の方を見ずに言った。
「あなたも黙っていて」
ムッソリーニは黙った。
ミストは記録板を握った。
艦魂は人間ではない。
だが、艦は人を乗せていた。
艦が沈む時、鋼だけが沈むのではない。
名前が沈む。
命が沈む。
国の誤算が沈む。
同盟の破綻が沈む。
そして、誰かの演説で飾られた栄光も沈む。
ゴンドゥルが現れ、名簿を開いた。
「戦艦ローマ、乗員名簿を確認します」
ローマの表情がわずかに固くなった。
「はい」
ブリュンヒルデがヒトラーへ言う。
「証言聴取を開始します」
「私は」
「聞いてください」
ラーズグリーズが続ける。
「反論は証言後に申請可能です。ただし、責任希釈は破砕します」
ヒトラーは椅子に深く座り直した。
証言聴取席の札が、淡く光る。
証言者
イタリア海軍戦艦ローマ
証言対象
アドルフ・ヒトラー
件名
同盟国休戦後の艦艇撃沈に関する戦場証言
ムッソリーニは、それを少し離れた場所から見ていた。
ローマ。
自分が掲げた名。
自分が演説で使った名。
しかし今、その名を持つ艦魂は、自分のために来たのではない。
自分を讃えるためでもない。
むしろ、自分の政権が作った戦争の後始末をまとって、ここに立っている。
彼は低く言った。
「ローマよ、私は」
ローマはようやく彼を見た。
「あなたのローマと、私のローマを一緒にしないで」
その一言で、ムッソリーニは完全に黙った。
ラードグリーズが近づいてきた。
「ベニート・ムッソリーニ。退去申請は保留。ローマ方面異議審査待ち。待合へお戻りください」
「私は……どこにも通れんのか」
「現在のところ、はい」
「ヴァルハラでも待ち、ローマでも待つ」
「はい」
「では私は、どこにいるのだ」
ラードグリーズは少し考えてから答えた。
「待合です」
「それはわかっている!」
ヘル方面連絡門から、ブロンディが短く吠えた。
ガルムが低く唸る。
ラードグリーズは記録した。
「虚偽継承主張検知補助、一件」
ムッソリーニはその音に肩を震わせた。
「犬にまで言われるのか」
「犬は正直です」
ミストは、その様子を見ながら所感欄に筆を走らせた。
ローマを名乗る者が、ローマに拒まれることがある。
ローマの名を持つ艦が、ローマを語った者を睨むこともある。
名は飾りではない。
呼んだ名からも、審査は返ってくる。
ブリュンヒルデはその記録を読み、静かに判を押した。
承認。
そして余白に一行を添えた。
「ローマ方面異議審査、継続」
戦場証言照合室では、水盤に地中海の光と、サルデーニャ沖の空が映り始めていた。
高空から落ちる爆弾。
艦橋の緊張。
乗員の声。
爆発。
傾く艦体。
沈んでいく艦名。
ローマは、その光景を見つめていた。
ヒトラーも、目を逸らすことは許されなかった。
そのころ、異界連絡室の掲示板には、相変わらず番号が表示されていた。
現在 53番
ベニート・ムッソリーニ
98番
ムッソリーニは戻ってきた待合で、自分の席がなくなっていることを改めて確認した。
古代風の甲冑の男は、当然のように座っている。
「そこは私の」
「席に名前はなかった」
ラードグリーズが言った。
「待合席は自由席です」
ムッソリーニは立ったまま、番号札を見つめた。
98番。
ローマは遠い。
ヴァルハラも遠い。
そして、演説は列を進めない。
戦士の館は、今日も事務処理中である。