時計職人
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
異世界帰り色々な日常 一話完結・オムニバス
本文
作業台の上に、見慣れない時計があった。
いつからそこにあったのか、佐藤 純には覚えがない。朝、店を開けた時にはすでにそこにあった。金無垢のケース、細かな唐草模様、文字盤には見たことのない署名。純は白手袋をはめ、そっと手に取った。明らかに只者ではない重さが、指先に伝わってくる。
世界が、消えた。
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石畳の広場に立っていた。
手の中に時計がある。空は高く青く、見たことのない形の建物が連なっている。純はしばらく空を見上げ、それから手の中の時計を見た。止まっている。
途方に暮れるより先に、腹が減った。それから、この時計が気になって仕方なかった。
その日のうちに、純は街で一番古い時計工房を探し当てた。扉を叩き、白手袋を外して両手を見せた。言葉より先に手が語る。職人の世界はどこでも同じらしく、工房の主は純の手をしばらく眺めてから、無言で中へ招き入れた。
この世界の時計技術は、純の知るものとは似て非なるものだった。金属の合金組成が違う。潤滑油の粘度が違う。歯車の噛み合わせの設計思想が、根本から違う。純は毎日、知らないことだらけの中で手を動かし続けた。失敗した。怒鳴られた。また失敗した。それでも手を動かした。覚えることが山ほどあった。それが純には、好都合だった。
毎晩、宿に戻ると時計を分解した。
止まっている原因はすぐにわかった。主ゼンマイが経年で結晶化し、弾性を完全に失っている。元の世界の部品では寸法が合わない。この世界の素材で、百年以上前の設計に見合う代替品を一から作るしかない。
簡単ではなかった。
この世界の金属は純の知る合金とは組成が異なり、同じように加工しても同じ結果が出ない。厚みを変えれば硬度が変わる。硬度を調整すれば弾性が失われる。弾性を保てば今度は耐久性が落ちる。三つの条件を同時に満たす配合を探すのは、暗闇の中で針を探すような作業だった。
七年目に最初の試作品が完成した。
工房の灯りの下で組み込み、竜頭を巻いた。一瞬、歯車が動いた。が、すぐに止まった。ゼンマイが戻り切らない。弾性が足りない。純は分解して、また最初から計算し直した。
十年目に二度目の試作。
今度は動いた。三秒、動いた。それから歯車が噛み合いを外れて止まった。厚みが微妙に違う。純は工房の壁に拳を当てた。一度だけ。それから深呼吸して、また机に向かった。
十三年目の冬、純はついに正しい配合を見つけた。
金属を溶かし、混ぜ、冷やし、叩き、薄く延ばす。その工程を三十七回繰り返した末に、指先が「これだ」と言った。理屈ではなく、十三年間この世界で手を動かし続けてきた感覚が、そう告げた。
あとは精度だけだ。
百年以上前の職人が削り出したゼンマイの寸法に、自分の手を合わせる。純は二年間、その一点だけを研ぎ澄ませた。朝に削り、夜に測り、足りなければ翌朝また削る。工房の主は何も言わなかったが、ある朝、純の作業台に見たことのない精密な計測器を置いていった。それだけで十分だった。
十五年目の春。
純は工房に一人残り、灯りを手元だけに絞った。時計を前に置き、長い息を吐いた。新しいゼンマイを慎重に収め、歯車を一枚ずつ噛み合わせ、ルビーの軸受け石を定位置に戻す。ケースを閉じる前に、純はもう一度だけ全体を眺めた。
完璧だ。
百年以上前にこの時計を作った職人が意図した通りの構造が、今ここにある。純はケースを閉じ、竜頭に二本の指をかけた。
ゆっくりと、ネジを巻いた。
カチ。
一つ目の音が、静かな工房に響いた。
カチ。カチ。カチ。
歯車が、正しい方向に回り始める。ゼンマイが、設計通りに力を蓄える。百年以上止まっていた時計が、今、動き出した。
純はしばらく、その音を聞いていた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
完璧な音だった。
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純は作業台の前に立っていた。
手の中で、時計が動いている。店の空気は朝のままだ。10秒も経っていない。
奥から妻が顔を出した。帳簿を手に持ったまま「お客さん?」と言いかけて、純の顔を見た。
「……どうしたの、そんな顔して」
純は何も言わなかった。
15年分の記憶が、胸の奥にある。石畳の冷たさ、工房の灯り、七年目に試作品が三秒で止まった夜。それは純だけが知っていればいい。
作業台の上に、時計をそっと置いた。
秒針が、静かに時を刻んでいる。
「なんでもない」
純はそう言って、妻の淹れたお茶を受け取った。
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短編を書いている内に、作者のエネルギー構造が完全に臨界突破いたしました。
時計職人から派生した、壮大な物語は、長編連載ページにて稼働中です!
巨神炉の錬金術師。ネジを巻く手 | 小説投稿サイト「あいぺん」
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