フィルムの匂い
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あらすじ
一話完結・オムニバス(長めの物語)自由に色々書いています
本文
フィルムの匂い
【閉館前夜】
改札を抜けると、彼女はもういた。
コートの襟を立てて、スマートフォンも見ずに、ただまっすぐこちらを向いていた。純を待っていた。それだけのことなのに、純は少し気まずくなった。怒らせているかもしれないと思ったからではなく、彼女が待つことをまったく苦にしていないように見えたからだ。
「遅い」
怒っていなかった。
「十分——」
「十二分」
「誤差だ」
彼女はすでに歩き出していた。純はその隣に並ぶ。商店街のアーケードに入ると、夕食の匂いが混ざり合って漂ってきた。揚げ物と、どこかの店の出汁と、雨上がりのアスファルト。彼女の足取りに迷いはなく、純には目的地がわかっていた。わかっていたが、気乗りしなかった。
「本当に行くのか」
「行くよ」
「混むぞ」
「混むね」
「駐車場も」
「電車で来たじゃん」
返す言葉がなかった。純はポケットに手を突っ込んだ。少し速度を落としたが、彼女は振り返らなかった。ただ「ほら」と言って、角を指さした。
古い映画館だった。
ビルの谷間に挟まれるようにして建っている、四階建ての古びた建物。外壁の白塗りはところどころ剥げ、看板の電球はいくつか切れていた。それでも正面には大きな立て看板が出ていて、手書きの文字で「閉館記念 最終上映週間」とあった。
行列が、建物の角を曲がって伸びていた。
「……思ったより多いな」
「みんな同じことを考えてるんだよ」彼女の声は穏やかだった。
「最後だから来よう、って」
彼女は行列の末尾に並んだ。純もその隣に立つ。前に並ぶ老夫婦が、小声で何かを話し合っていた。建物を見上げながら。純にはその内容は聞こえなかったが、二人の横顔には、懐かしさと呼ぶには少し重すぎる何かがあった。
純には、この映画館に特別な記憶はなかった。子どもの頃に一度来た気がするが、何を観たかも覚えていない。映画を観ること自体、そこまで好きではない。二時間、暗い部屋で動けないのが得意ではないのだ。
「なんで好きなんだ、ここが」
「なんでって」彼女は少し考えた。
「雰囲気、かな。匂いとか、音とか、椅子の感じとか」少し間があった。
「シネコンと違って、なんか……映画を観に来たって感じがするんだよね。ちゃんと」
その「ちゃんと」の意味が、純にはよくわからなかった。だが何も言わなかった。彼女がそういうことを言うとき、純が理解できないのは純の側の問題で、彼女は別に説明を求めていない。
チケットを買った。座席番号が印字された、薄い紙のチケットだった。シネコンのようなQRコードではなく、スタンプで日付が押されている。彼女はそれをコートのポケットに入れずに、ずっと手で持っていた。
ロビーに入ると、匂いがあった。
ポップコーンではない。もっと古い匂いだ。埃と、木材と、それから何か焦げたような——純には正確に言葉にできない匂いが、空気の底に沈んでいた。天井は高く、照明は黄色くて弱かった。壁には古い映画のポスターが何枚も貼られていて、どれも純の知らない題名だった。
「フィルムの匂いだよ」
純が何も聞いていないのに、彼女はそう続けた。ロビーを見回しながら、少し声が低くなった。「昔の映画の。デジタルじゃなくて、本物のフィルムで映す映画館、もうほとんど残ってないんだよ。ここ、最後までフィルムで上映してたんだって」
純はもう一度、空気を吸った。
確かに、何かがあった。懐かしいとも古いとも違う。もっと直接的な何か——熱を持ったものが、長い時間をかけて壁や床に染み込んだような匂い。
「この感じが好きなんだよね」
彼女が笑った。純は適当に相槌を打った。
開場のアナウンスが流れた。スピーカーの音質が悪くて、声がわずかに割れていた。それでも館内に並んでいた人々はいっせいに動き出し、純と彼女もその流れに乗って、スクリーンの前へ向かった。
座席は古かった。背もたれのビロードは擦り切れ、肘掛けの塗装は剥げていた。純が腰を下ろすと、スプリングが沈んで、微かに軋んだ。
「ね、なんかいいでしょ」
純は答えなかった。答える言葉を持っていなかった、というのが正確だった。
館内が暗くなった。
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【落 下】
映画上映が始まった。
スクリーンに光が当たり、最初のカットが映し出された瞬間——ああ、フィルムというのはこういう映り方をするのか、と純は思った。デジタルの映像とは違う。輪郭が少し滲んでいて、光の粒が見える。全体的に、呼吸しているみたいな揺らぎがある。
純は映画オタクではないが、その違いはわかった。
物語は静かに進んだ。台詞は少なく、人物の顔が長く映された。正直、退屈だった。だが隣の彼女は微動だにしなかった。スクリーンに顔を向けたまま、ときどき唇が微かに動いた。台詞を覚えているのかもしれなかった。
純はあくびを噛み殺した。
そのときだった。
スクリーンが、揺れた。
最初は映写機のトラブルかと思った。フィルムが乱れたような、コマが飛んだような——しかし揺れはすぐに止まらず、むしろ大きくなった。スクリーン全体が波打つように歪み、映っていた映像が崩れた。人物の顔が溶け、背景が滲み、色が混ざり合った。
館内がざわめいた。
誰かが立ち上がった。
純は彼女の腕を掴もうとした。
その瞬間——
スクリーンの中から、目が合った。
映画の登場人物ではなかった。人の形をした何かが、スクリーンの向こうからこちらを見ていた。暗い場所に立って、ただじっと、客席を見ていた。
誰も声を上げなかった。
静寂が一秒あった。
それから、落ちた。
客席が、床ごと、傾いた。いや、傾いたのではない——落ちたのだ。重力が別の方向を向いて、純の身体は椅子ごと引き剥がされた。彼女の叫び声が聞こえた。ロビーで誰かがポップコーンをぶちまける音がした。光が渦を巻いた。
純は目を閉じた。
閉じた目の裏で、フィルムの焼ける匂いだけが、ずっとしていた。
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【映画の世界】
地面があった。
目を開けると、土の地面があって、空があった。
青い空ではなかった。色が、おかしかった。右手の空は完全な白黒で、左手の空は原色が溶け合うように鮮やかで、真上の空は夕焼けと夜が半分ずつ同居していた。境界線がなかった。ただそこで、異なる空が隣り合っていた。
「……純」
彼女がいた。隣に座り、土埃を払いながら立ち上がりかけて、純の顔を見て、止まった。
立ち上がって、周囲を見た。
言葉が出なかった。
地平線まで、街が続いていた。ただし、その街は一つではなかった。
木造の建物が並ぶ西部劇の街並みの向こうに、金属とガラスでできたSFの摩天楼が屹立していた。太陽光を反射して鋭く光る尖塔の群れは、雲を突き抜けていた。その隣の路地は完全な白黒で、雨に濡れた石畳と古いガス灯だけがあった。街灯の光が水たまりに揺れ、その揺れ方まで白黒だった。
さらに遠く、海があった。
灰色の海だった。波は重く、遅かった。その水面から、巨大な何かの背びれが、音もなく突き出ていた。背びれだけで、ビルの三階ほどの高さがあった。
空では、宇宙船が飛んでいた。ゆっくりと、音もなく、白い航跡だけを引いて。
「どこだここ」
「映画の中だよ」
彼女の声が、かすかに震えていた。怖いからではなかった。純にはわかった。震えているのは、興奮しているからだ。
西部劇の街の入口に、木の看板が立っていた。「WESTERN DISTRICT」。
SF都市の入口には光る標識があった。「SECTOR 7 — SCI-FI ZONE」。
白黒の路地の壁には、古いペンキで「NOIR QUARTER」と書かれていた。
「ジャンルで分かれてる」
純がそれを確認しているうちに、後ろから気配がした。
振り向くと、老人が立っていた。
白い髪で、深い皺があって、映写技師のような黒いエプロンをつけていた。手にはフィルムのリールを持っていた。目が、異様に深かった。ただ老いているというより、途方もなく長い時間を見てきたような目だった。
「来てくれた」
老人の声は低く、静かだった。
彼女が純を見た。純が彼女を見た。
彼女の目が、笑っていた。
純は深く息を吐いた。
「……話を聞く」
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老人の話は短かった。
この世界は映画でできている。すべての映画が、ここに存在を持っている。しかしその映画たちが、消えかけている。理由は単純だ——誰も観なくなったから。観客がいなくなった映画は、存在の根拠を失う。世界そのものが、少しずつ崩れている。
「ここ、確かに」と彼女が空を見た。「端の方、見えない」
純も見た。地平線の向こうが、白く霞んでいた。霧ではなかった。何もないのだ。世界の端が、ただ途切れていた。
「最後の上映祭を開きたい。忘れられた映画たちを集めて、ここで上映する。観客を呼ぶ。それができれば、この世界はまだ続けられる」
「なんで俺たちが」
「外から来た人間だからです」老人は答えた。「この世界の住人は、自分のジャンルから出られない。あなたたちには、どのジャンルにも入れる」
「失敗したら」
「世界が消えます。私も、ここにいるすべての映画も」
純は空を見た。宇宙船がまだ飛んでいた。西部劇の街から、ピアノの音が聞こえた。誰かがラグタイムを弾いていた。白黒の路地で、猫が一匹横切った。
彼女が純の袖を引いた。目が、本気で笑っていた。
純はもう一度、深く息を吐いた。
「わかった。行く」
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【忘れられた映画たち】
――老スタントマン
アクション映画の区域は、最初から爆発していた。
文字通り、至る所で爆発していた。角を曲がるたびに火柱が上がり、車が宙を舞い、窓ガラスが散った。煙が路地に充満し、どこかで警報が鳴り続けていた。誰かが叫びながら走っていた——叫び方が演技だとわかったが、それでも迫力は本物だった。熱が、肌に当たった。
「楽しそうだな"」
「楽しい!」
彼女は目を輝かせて、瓦礫を跨いで走った。
老スタントマンは廃工場の隅にいた。
七十代に見えた。両腕に古い傷跡があって、右膝を少し引きずっていた。かつては何度も爆発の中を走り、車の上から飛び降り、燃え盛る建物から脱出した男だった。この世界では、見ただけで人の歴史が滲み出た。
「上映祭に出てほしい」
老人は首を振った。顔を上げなかった。
「もう誰も覚えていない映画だ。私がやった仕事は、全部CGに置き換えられた。本物の痛みで撮ったシーンが、今は画面の中の数字に変わっている」
「でも本物だったんでしょう」
彼女の声は静かだった。
「画面の中で、あなたは本当に燃えてたんでしょう。本当に飛んでたんでしょう。それは本物だよ。CGじゃ作れない本物が、フィルムの中にある」
老人は黙った。
純は彼女を見た。
彼女は今、映画の話をしているのか、それとも別の何かの話をしているのか。純にはわかった。だが老スタントマンは長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。右膝が軋んだ。それでも立った。
「……一度だけだ」
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【怪獣映画の監督】
海岸区域は、霧が深かった。
波が黒く、重かった。砂浜には人影がなく、潮の匂いだけが漂っていた。遠く、沖の方で何かが動いていた。巨大な影が、水面をゆっくりと移動していた。水が押し退けられる音だけがして、姿は霧の中にあった。
監督は防波堤に座っていた。古い演出ノートを膝に置いて、海を見ていた。
純たちが近づくと、振り返りもせず、ただ口を開いた。
「誰にも観てもらえなかった。公開初日に三人しか来なかった。翌日には打ち切りだ。一年かけて作ったのに」
しばらく黙って、それから純が口を開いた。
「その三人は、観たんだろ」監督が純を見た。
「三人でも観た人間がいるなら、映画は存在した。ゼロじゃない」
純は自分でも驚いた。自分がそういうことを言う人間だとは思っていなかった。
監督はゆっくりと、海に向かって、静かに手を上げた。
水面が割れた。
純は後退りしかけたが、踏みとどまった。
それはただ、大きかった。山のように大きく、ゆっくりと動いた。目があった。小さく、奥深くに、黄色い目があった。その目が、純と彼女を見た。
敵意はなかった。
ただ、見られていた。
彼女が純の手を握った。純は握り返した。
霧の中で、怪獣は静かに、ただそこにいた。
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【白黒の路地】
ノワール区域は、常に雨だった。
常に夜だった。石畳に水たまりができ、街灯が揺れ、どこかでジャズが鳴っていた。音は遠く、くぐもっていた。煙草の煙が路地の隅に漂い、誰かの足音が遠ざかっていった。ここでは色というものが存在しなかった。光と影と、その間にあるすべての灰色だけが世界を作っていた。
誰にも観られなかった恋愛映画は、路地の奥にあった。
映画というより、場所だった。二人分の椅子と、小さなテーブルと、キャンドルがあった。誰かのために用意されたまま、誰も来なかったテーブル。キャンドルの炎だけが揺れていた。この白黒の世界で、その炎だけが色を持っているように見えた。
彼女がそのテーブルに座った。
「ここに座っていいか、ってどこかに聞かなくていいの」
「映画に座っていいか聞く人はいないよ」彼女はキャンドルを見ながら言った。
「観ればいいんだよ」
純も座った。
雨が降っていた。キャンドルが揺れた。ジャズが流れた。
何も起きなかった。ただ、それだけ。
しかし五分ほどして、空気が変わった。
世界が、少し、暖かくなった。
「観てもらえた」
声の主は見えなかった。路地の奥から、あるいは雨の向こうから、あるいはどこでもない場所から、声だけがした。「初めて、観てもらえた」
純は何も言わなかった。
彼女は雨を見ていた。その横顔に、キャンドルの光が当たっていた。白黒の世界の中で、その光だけが、温度を持っていた。
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【打ち切りのアニメ】
アニメ区域は、原色だった。
空が青すぎ、草が緑すぎ、建物が白すぎた。光そのものが、この世界では主張をしていた。住民たちは動きが少し大げさで、表情が誇張されていたが、目が合うとちゃんと照れた。人間みたいに。
打ち切られたアニメ映画は、制作途中のままだった。
背景が途中まで描かれ、動画が途中まで動き、音楽が途中で止まっていた。キャラクターたちは最後のシーンを演じることなく、ずっと待っていた。エンドロールを迎えないまま、何年も。
「続きを教えてくれ。どうなるはずだったの」
彼女がそう問いかけると、キャラクターたちは最初、黙っていた。
やがて一人が、ぽつりと言い始めた。
続きの話を。製作者が考えていたはずの結末を。誰にも届かなかったラストシーンを。
それはひどく単純な話だった。旅が終わって、帰る話だった。それだけだった。
純はなぜか、目が熱くなった。堪えた。
彼女は堪えなかった。
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【焼けたフィルム】
一番奥の区域に、廃墟があった。
何のジャンルとも言えない場所だった。壁が崩れ、床が抜け、天井がなかった。ここだけ、明かりがなかった。星もなく、月もなく、ただ暗かった。
フィルムが、山積みになっていた。
焼けたフィルムだった。火事か、保管ミスか、ただ古すぎたか——理由はわからなかったが、無数のリールが焼け焦げ、それでもそこにあった。純が一つ手に取ると、熱くなかった。ただ軽かった。軽すぎた。
「ラストシーンだけ、焼けてしまった映画たちです」
老人がいつの間にかそこにいた。「結末が誰にも観られなかった映画たちが、ここに集まってくる」
「上映できるか」
「途中までしか映せません」
「それでいい」
彼女の声は迷いがなかった。
「途中までで上映する。結末は、観た人が想像すればいい。映画ってそういうもんでしょ」
老人は長い間、黙っていた。
廃墟に、風が吹いた。焼けたフィルムの欠片が、舞い上がった。
老人は深く頭を下げた。
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【最後の上映】
十五年が経った。
純には実感がなかった。日数も、季節も、この世界ではあいまいだった。ただ気がつけば、大きな映写機の前に立っていた。映画館の映写室に相当する場所——この世界の心臓部に。
スクリーンの前に、席が並んでいた。
この世界のすべてのジャンルから、住人たちが集まっていた。西部劇の保安官と、SF都市の宇宙飛行士と、ノワールの探偵と、アニメのキャラクターと、怪獣が——怪獣は建物の後ろに控えていた。海から上がってきた体はまだ濡れていて、黄色い目が暗がりで静かに光っていた——そして現実世界から落ちてきた観客たちが、大勢いた。
満員だった。
彼女はロビーで走り回っていた。観客の案内をしながら、声を張り上げながら、転びそうになりながら、笑いながら。
純は映写室で、フィルムをセットした。
十五年間集めたフィルムを、一本ずつ確認した。老スタントマンの映画。三人しか来なかった怪獣映画。誰も座らなかったテーブルの話。打ち切られた旅の結末。焼けてラストシーンのない映画たち。
フィルムは古く、傷だらけで、軋んだ。
純はそれを丁寧に、機械にかけた。
上映開始のベルが鳴った。
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光が、スクリーンを白く塗った。
最初のコマが映し出された瞬間、館内が静まり返った。
老スタントマンが走った。爆発の中を、本当に走った。CGではない、本物の煙と熱の中を。カメラが揺れていた。カメラマンも走っていたからだ。観客席のどこかで息を呑む音がした。次のコマで、老スタントマンは建物から飛んだ。空中で一瞬、顔が映った。笑っていた。
誰かが叫んだ。拍手が起きた。
場面が変わった。
海が映った。水面が割れて、あの怪獣が現れた。館内がどよめいた。怪獣は、ゆっくりと首を動かして、スクリーンの向こうからこちらを見た。現実で見たときと同じ目だった。大きく、静かで、ただ見ていた。
静寂が五秒続いた。
それから、拍手が起きた。建物の後ろで、怪獣が身じろぎした。
場面が変わった。
雨の路地。キャンドルのテーブル。ジャズ。白黒の画面の中で、炎の色だけが滲むように暖かかった。誰かが小さく笑った。誰かが泣いた。
場面が変わった。
アニメのキャラクターが走った。走って、走って、山を越えて、海を越えて、遠い場所から帰ってきた。誰かの家の灯りが見えた。扉が開いた。エンドロールが流れた——製作されなかったエンドロールが、この世界で初めて映し出された。
館内が揺れた。
文字通り、揺れた。建物が、熱を持った。純は映写機を回しながら、壁が振動しているのを感じた。泣き声と笑い声と拍手と歓声が混ざり合って、一つの轟音になった。
純は手を止めなかった。
フィルムを回し続けた。
焼けたフィルムが始まった。
物語は走った。息を切らして走った。人物が叫び、景色が変わり、何かが迫ってきた——そして画面が白くなった。ラストシーンがなかった。途中で、静かに、止まった。
観客席が、静まり返った。
一秒。
二秒。
三秒。
正式には、そこからあちこちから声が生まれた。
「こうなったんじゃないか」「いや、こっちだろ」「私はこう思う」「違う、絶対こうだ」——忘れられた映画のラストを、観客たちが思い思いに語り始めた。喧嘩みたいな声もあった。笑い声もあった。誰かが紙を取り出して書き始めた。隣の人がそれを読んだ。議論になった。
純は映写室の小窓から、その光景を見た。
何も映っていないスクリーンに、観客たちの声だけが降り注いでいた。
映画は、スクリーンだけにあるんじゃないのかもしれない——純は初めて、そう思った。
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【光】
最後のフィルムが終わった。
拍手が、いつまでも続いた。
轟音だった。
純は映写室の窓から外を見た。空が変わっていた。白く霞んでいた地平線が、光っていた。霧が晴れるみたいに、世界の端が見えるようになっていた。消えかけていたジャンルの街並みが、輪郭を取り戻していた。白黒の路地に、雨の音が戻った。SF都市の尖塔が、夜空に光を放った。西部劇の街で、誰かがピアノを弾き始めた。
老人が映写室に入ってきた。
「ありがとうございます」
純は何も言わなかった。
「この世界は、もう少し続けられそうです」老人は映写機を、そっと撫でた。「ずいぶん長い間、この機械だけが動いていました。観客のいない映写室で、ずっと」
「あなたは何者なんだ」老人は少し笑った。
「映画が初めて作られた日から、ここにいます。映画が生まれるたびに、フィルムを受け取ってきました」老人の目が、窓の外を見た。「あなたたちに頼んで、よかった」
そのとき、彼女が映写室に駆け込んできた。
息が切れていた。髪が乱れていた。目が赤かった——泣いていたのか、笑いすぎていたのか、どちらともつかなかった。
「見た?!全部見た?!怪獣のところで前の席のおじさん泣いてたよ!アニメのエンドロールで立ち上がった人いたよ!あと焼けたフィルムのとこで即興で結末書き出した人いて、それを周りが読んで議論になって、なんか即席の読書会みたいになってた!!」
純は彼女を見た。
「楽しかったか」
「楽しかった!」
純は笑った。自分でも気づかなかったが、笑っていた。
老人が二人を見て、目を細めた。
「そろそろ、帰れますよ」静かな声だった。
「現実に戻る時間です」
純は映写機を、最後にもう一度見た。
フィルムが、巻き終わっていた。
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【エンドロール】
目を開けると、天井があった。
映画館の天井だった。
スクリーンは白かった。エンドロールが終わっていた。館内の照明がゆっくりと戻ってきた。
周囲の客が席を立ち始めた。伸びをする人。スマートフォンを確認する人。連れと話しながら歩き出す人。誰もが普通だった。上映が終わったあとの、いつもの光景だった。
純はしばらく動けなかった。
手を見た。
フィルムの焼けた匂いが、していた。
匂いが、確かにした。手の平に。爪の間に。
隣で、彼女が動いた。
純が顔を向けると、彼女は目を赤くしていた。泣いていたのか、それとも今泣きかけているのか、どちらともつかなかった。
二人は、しばらく黙っていた。
周囲の客はもうほとんどいなくなっていた。立ち上がろうとしない二人を、誰も気にしなかった。
彼女がゆっくりと口を開いた。
「……映画って、やっぱすごいね」
純は何も言わなかった。
言わなかったが、思った。
今まで聞いたどんな大作映画の評論より、どんな賞賛の言葉より——その一言が、純には好きだった。
アナウンスが流れた。
「本日をもちまして、当映画館は閉館いたします。長年のご愛顧、誠にありがとうございました」
純と彼女は立ち上がり、ロビーに出た。
---
ロビーは、異様だった。
静かな終わりを純は想像していた。粛々と、人が去っていく。文化が消える最後の日の、穏やかな哀愁。
違った。
ロビーは騒がしかった。
笑い声があった。ポップコーンの匂いもし。子どもが走っていた。誰かがスタッフを捕まえて、この映画館の歴史を根掘り葉掘り聞いていた。常連らしい老人たちが、ロビーの隅で昔話をしていた。どの映画が一番よかった、あのときの舞台挨拶、学生の頃に来た、子どもを連れてきた——声が重なり、笑いが重なり、ロビーが熱を持った。
閉館の日なのに、祭りみたいだった。
純はその光景を、入口近くに立って見ていた。
ポップコーンの匂い。古い絨毯。黄色い照明。壁のポスターたち。割れたスピーカーから流れる映画音楽。
文化が消える最後の日なのに、誰も静かにしていなかった。誰も、しめやかに去ろうとしていなかった。
純はそれを見て、初めて理解した。
映画館というのは、暗い部屋でスクリーンを見る場所ではなかった。
こうやって、人が集まって、騒いで、笑って、泣いて——その全部が、映画館だったのだ。
「行こうか」
彼女が純の隣に並んだ。その横顔を見て、純は自然と自分の歩幅を彼女に合わせた。何も言わなかったが、あの世界での十五年という二人だけの長い、そして確かにあった歴史が、今の二人の距離をほんの少しだけ変えている。
純は少しだけ、もう一度ロビーを見た。
騒がしかった。うるさかった。
最高だった。
出口を抜けると、夜の空気があった。
純は深く息を吸った。
フィルムの匂いは、もうしなかった。
だが手の平には、まだその感触が残っていた。十五年間、映写機を回し続けた手の、かすかな重さが。
彼女が隣を歩いていた。
純はそれを確認して、前を向いた。
商店街のアーケードに入ると、夜の匂いがした。
どこかの店が、まだ開いていた。
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