*開かない鍵
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
オムニバス 自由に書いています
本文
開かない鍵
鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間から、佐藤純はすでに違和感を覚えていた。手応えが、いつもより硬い。差し込みは最後までいくのに、その先で何かに引っかかったように止まる。
回らない。
もう一度、抜いて確かめる。見慣れた鍵だった。傷のつき方も、輪っかにつけた小さな鈴も、いつも通り。それでも、差し込み直すたびに同じ場所で止まる。純は息を吐き、鍵穴を覗き込んだ。中は暗く、当然ながら何も見えない。
スマートフォンが震えたのは、その直後だった。
「鍵、開かないんだけど」
妻からのメッセージ。純は少しの間、画面を見つめた。冗談かとも思ったが、妻はそういう冗談を送ってくる人間ではない。
「俺も開かない」
打ち返す指先が、いつもより遅い気がした。
純は玄関前に立ったまま、通りを見渡す。夕方の住宅街は静かで、人の気配はどこにもない。妻も、どこかでこの同じ玄関を前にしているはずだった。だが、視界のどこにも彼女の姿はない。おかしな話だと思いながらも、純はそれ以上深く考えなかった。鍵が開かないという事実のほうが、目の前ではよほど切実だったからだ。
しばらくして、息子からも連絡が来た。「鍵、壊れてる?」という短い一文。純はそれに「かもな」とだけ返した。
家族三人が、同じ玄関の前でそれぞれ立ち尽くしている。誰もそのことに気づかない。純は苛立ちながら何度も鍵を回そうとしたが、結果は変わらなかった。
やがて、家の中で物音がした。妻が裏口から回り込み、内側から鍵を開けたのだろう。ドアが開く。
「おかえり」
その声に、純はようやく肩の力を抜いた。中に入ると、少し遅れて息子も帰ってきた。「ただいま」という声も、いつもと変わらない調子だった。夕食の匂いが漂いはじめ、テレビがつき、その夜はごく普通に過ぎていった。
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翌朝、純は洗面所で歯を磨きながら、昨日のことを思い返していた。
妻の鍵も開かなかった。息子の鍵も開かなかった。三人とも同じ時間帯に、同じ玄関の前にいたはずだ。それなのに、誰も誰にも会っていない。
鏡の中の自分の顔を見ながら、純はそのことを不思議に思う。当たり前のようでいて、当たり前ではない気がした。
朝食の席で、それとなく妻に聞いてみる。
「昨日さ、玄関の前にいたとき、俺のこと見なかった?」
「見てないよ」
妻は味噌汁をよそう手を止めずに答えた。純は続けて、息子にも同じことを尋ねる。
「見てない」
短い返事だった。純はそれ以上追及しなかった。三人の記憶に矛盾はひとつもない。嘘をついている様子も、どこにもない。だからこそ、その一致がかえって純の胸の奥に小さく残った。誰も間違っていないのに、何かが噛み合っていない――そんな感触だけが、朝の光の中でいつまでも消えなかった。
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それから数日が経ち、また同じ夜が訪れた。
鍵が開かない。純は昨日までとは違う考えを抱きながら、玄関の前に立っていた。もし本当に、あの晩と同じことが起きているのなら――順番を変えてみたら、何かが見えてくるかもしれない。
その日、純は先に帰らず、息子に先に行かせておいた。自分はわざと遅い時間に帰宅する。
家の前に着くと、すでに息子の自転車が停めてあった。だが、姿は見当たらない。純は鍵を差し込む。回らない。予想通りだった。しばらく待っていると、家の奥から物音が響き、やがてドアが内側から開く。
「おかえり」
妻の声だった。中に入ると、息子はすでにリビングでくつろいでいた。誰が先に着こうと、誰が後に来ようと、起こることは寸分違わない。妻が裏口から入り、玄関を開け、家族が揃う。その手順だけが、まるで決まった型のように繰り返される。
純はソファに座る息子の背中を見ながら、静かに悟った。この現象は、純という一人の人間に起きていることではないらしい。妻に起きているのでもなく、息子に起きているのでもない。玄関の前に「一人」が立ちさえすれば、それが誰であっても、同じことが起こる。
三人とも、それぞれが自分だけの出来事だと思い込んでいた。だが本当は、誰でもよかったのかもしれない。
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その夜遅く、純は一人で玄関に立っていた。特に用があったわけではない。ただ、何か確かめたいことがあるような気がして、そこに立っていた。
指先で鍵に触れる。ひんやりとした金属の感触が、思ったより長く手のひらに残る。
もし今、ここに立っているのが自分でなくてもよかったのだとしたら――純という名前も、これまで積み重ねてきた記憶も、この場所ではさほど意味を持たないのかもしれない。誰かが立ち、誰かが待ち、誰かが裏口から入る。その繰り返しの中に、たまたま自分がいるだけ。
鍵を差し込み、回してみる。
あっさりと、回った。
拍子抜けするほど普通に、ドアが開く。リビングからは妻の笑い声が聞こえ、息子が何か話しかけている気配がする。何も変わらない、いつもの夜だった。
純は靴を脱ぎながら、玄関に残るわずかな冷たさだけを、まだ手のひらのどこかに感じていた。
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