第10話 降らない雨
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
町外れにあるアカリの家を探し当てた。
表札はなかった。
庭の雑草は腰の高さまで伸び、すっかり枯れ果てている。
風が吹くたび、茶色い茎が擦れ合ってカサカサと鳴った。
門扉は錆びつき、少し開いたまま固定されている。
玄関のガラス戸には、埃が分厚く積もっていた。
家の中を覗き込む。
何もない。家具も、生活の匂いも、完全に空っぽだった。
隣の家に住む住人に話を聞いた。
「ああ、あの子ならもういないよ」
水撒き用のホースを片付けていた男は、不思議そうな顔をした。
死んだのではない。
男ははっきりと言った。
「母親を探しに行くって。数年前、自分から町を出ていったんだ。駅の方に向かって歩いていくのを、うちの婆さんが見たって言ってた」
俺は息を呑んだ。
アカリは死んでいない。
この町には、もうアカリ本人も、母親もいないのだ。
「……じゃあ、あの傘は誰が」
「本人がいなくても、残ることがある」
沙耶さんが静かに言った。
男が家の中へ戻っていくのを見送りながら、枯れた庭へ視線を向ける。
「強い感情は、土地に根を張る。本人が町を出ても、『待っていた場所』だけが怪異として残る。あの赤い傘は、彼女がここに置いていった執着の抜け殻みたいなものだよ」
駅前へ戻る道すがら、俺は観符(かんぷ)を取り出した。
道端に立てかけられた赤い傘にかざす。
札の墨が、体温でじわりとにじんだ。
空間の輪郭がずれる。
傘の表面に、黒い靄のようなものがへばりついているのが見えた。
それは、ただの悲しみではなかった。
『どうせ来ないよ』
『雨なんか降らない町なのに』
『また傘持ってる』
『かわいそうに』
『まだ待ってるの?』
傘の表面から、無数の声が染み出してきた。
大人の声。子どもの声。
どれも、アカリに向けられた町の人々の言葉だった。
悪意ではない。
殴りつけるような暴力でもない。
ただの同情。あるいは、無責任なからかい。
だがそれは、やすりで少しずつ皮膚を削るような、残酷な手触りを持っていた。
夜になった。
古いビジネスホテルの三階。
エアコンの室外機が、低い音を立てて回っている。
網戸越しに入ってくる風は、夜になっても一向に冷えない。
生ぬるく、砂っぽかった。
宿の窓から外を見る。
空は晴れていた。
雲ひとつない。
巨大な月が、干上がった町を白く照らしている。
窓を開けても、乾いた風が入ってくるだけだった。
相変わらず、雨の気配など微塵もない。
その時だった。
ポツン。
遠くで、水音がした。
ポツン、ポツン。
音が重なる。
俺は窓枠に手をつき、身を乗り出した。
ざああっ。
町に、ありえない雨音が響き渡った。
空には月が出ている。
星も瞬いている。
上からは何も降っていない。
だが、下から水が溢れていた。
ばさり。
駅前のベンチで、音がした。
立てかけられていた赤い傘が、自ら開いた音だった。
ばさり。ばさり。ばさり。
商店街の軒先で。
バス停で。
神社の石段で。
団地の入り口で。
町中に点在していた赤い傘が、月明かりの下で一斉に開いていく。
狂ったような連鎖だった。
そして、そのすべての傘の下に。
少女の影が立っていた。
一斉に開いた赤い傘から、滝のような水がこぼれ落ちる。
町中のアスファルトが、一瞬にしてどす黒く変色した。
下水溝に水が流れ込む音がする。
乾ききっていた町が、悲鳴を上げるように水を吸い込んでいる。
何人もいる。
数十、いや百を超えているかもしれない。
だが、シルエットはすべて同じ。
赤い傘を持った、アカリの影だった。
「蓮!」
沙耶さんが部屋を飛び出していく。
俺も札袋を掴み、後を追った。
宿を飛び出す。
階段を駆け下りる。
ロビーの自動ドアを抜けた瞬間、生臭い水の匂いが鼻をついた。
長年干上がっていた泥が、一気に水を含んで吐き出した匂いだ。
道路はすでに、くるぶしの上まで水に浸かっていた。
空から降った雨ではない。
開かれた無数の赤い傘の『内側』から、滝のように水が溢れ出し、町を沈めようとしていた。
俺は聞き留め(ききどめ)の札を握った。
水音に混じって、無数の影の声が脳に直接響いてくる。
『――雨が降ったら、迎えに来るって言ったの』
『――だから、降るまで待つの』
『――降らないなら、私が雨を作るの』
悲鳴のような声だった。
水かさが急激に増していく。
足首にまとわりつく水は、氷のように冷たかった。
沙耶さんが、腰の祓い鈴を鳴らした。
ちり、と鋭い音が夜気を切り裂く。
同時に、数枚の結符(けっぷ)を宙へ投げた。
札が光の尾を引き、最も近くにあった数本の傘に貼りつく。
水が凍りついたように止まり、傘が地面に落ちた。
だが、数が多すぎる。
一本止めたところで、奥からさらに五本の傘が開く。
俺は近くの傘へ駆け寄り、柄を掴んで無理やり閉じようとした。
閉じない。
鉄の柱のようにびくともしない。
傘の表面から溢れる冷水が俺の手を打ち据え、指先の感覚を奪っていく。
だめだ。
閉じない。
『待っていた場所だけが怪異として残る』
沙耶さんの言葉。
一番最初に、彼女が待ち始めた場所。
膝下まで水位の上がった道路を蹴立て、駅前のロータリーへ走る。
走るたびに、重い水しぶきが上がる。
冷たさで足の感覚が麻痺し始めている。
息が上がる。
冷たい空気を吸い込むたび、肺が痛んだ。
月明かりが、駅前の風景を白く浮かび上がらせていた。
あった。
ロータリーの中央。
タクシー乗り場のすぐ横にある、一番古いベンチ。
そこだけ、水が渦を巻くように集まっていた。
ひときわ色あせた、古い赤い傘が開いている。
その下に、小さな少女の影がいた。
他の影のように立ってはいない。
ベンチにちょこんと座っていた。
彼女の足元を見る。
俺は、息を呑んだ。
町中が水に沈み、濁流が渦巻いているというのに。
ベンチに座る少女の影の足元にだけは、水が届いていなかった。
見えない壁があるように、そこだけが完全に乾いている。
狂ったような水音の中で、その一角だけが真空のように静かだった。
そこには、小さな靴が、行儀よく揃えられていた。
まだ一滴も、濡れていない靴。
誰もいない駅前。
彼女は、一人で靴を揃えて待っていた。
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