第10話 降らない雨の表紙画像

第10話 降らない雨

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/3 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,548文字 ✅ 全年齢

あらすじ

祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

町外れにあるアカリの家を探し当てた。

表札はなかった。

庭の雑草は腰の高さまで伸び、すっかり枯れ果てている。

風が吹くたび、茶色い茎が擦れ合ってカサカサと鳴った。

門扉は錆びつき、少し開いたまま固定されている。

玄関のガラス戸には、埃が分厚く積もっていた。

家の中を覗き込む。

何もない。家具も、生活の匂いも、完全に空っぽだった。

隣の家に住む住人に話を聞いた。

「ああ、あの子ならもういないよ」

水撒き用のホースを片付けていた男は、不思議そうな顔をした。

死んだのではない。

男ははっきりと言った。

「母親を探しに行くって。数年前、自分から町を出ていったんだ。駅の方に向かって歩いていくのを、うちの婆さんが見たって言ってた」

俺は息を呑んだ。

アカリは死んでいない。

この町には、もうアカリ本人も、母親もいないのだ。

「……じゃあ、あの傘は誰が」

「本人がいなくても、残ることがある」

沙耶さんが静かに言った。

男が家の中へ戻っていくのを見送りながら、枯れた庭へ視線を向ける。

「強い感情は、土地に根を張る。本人が町を出ても、『待っていた場所』だけが怪異として残る。あの赤い傘は、彼女がここに置いていった執着の抜け殻みたいなものだよ」

駅前へ戻る道すがら、俺は観符(かんぷ)を取り出した。

道端に立てかけられた赤い傘にかざす。

札の墨が、体温でじわりとにじんだ。

空間の輪郭がずれる。

傘の表面に、黒い靄のようなものがへばりついているのが見えた。

それは、ただの悲しみではなかった。

『どうせ来ないよ』

『雨なんか降らない町なのに』

『また傘持ってる』

『かわいそうに』

『まだ待ってるの?』

傘の表面から、無数の声が染み出してきた。

大人の声。子どもの声。

どれも、アカリに向けられた町の人々の言葉だった。

悪意ではない。

殴りつけるような暴力でもない。

ただの同情。あるいは、無責任なからかい。

だがそれは、やすりで少しずつ皮膚を削るような、残酷な手触りを持っていた。

夜になった。

古いビジネスホテルの三階。

エアコンの室外機が、低い音を立てて回っている。

網戸越しに入ってくる風は、夜になっても一向に冷えない。

生ぬるく、砂っぽかった。

宿の窓から外を見る。

空は晴れていた。

雲ひとつない。

巨大な月が、干上がった町を白く照らしている。

窓を開けても、乾いた風が入ってくるだけだった。

相変わらず、雨の気配など微塵もない。

その時だった。

ポツン。

遠くで、水音がした。

ポツン、ポツン。

音が重なる。

俺は窓枠に手をつき、身を乗り出した。

ざああっ。

町に、ありえない雨音が響き渡った。

空には月が出ている。

星も瞬いている。

上からは何も降っていない。

だが、下から水が溢れていた。

ばさり。

駅前のベンチで、音がした。

立てかけられていた赤い傘が、自ら開いた音だった。

ばさり。ばさり。ばさり。

商店街の軒先で。

バス停で。

神社の石段で。

団地の入り口で。

町中に点在していた赤い傘が、月明かりの下で一斉に開いていく。

狂ったような連鎖だった。

そして、そのすべての傘の下に。

少女の影が立っていた。

一斉に開いた赤い傘から、滝のような水がこぼれ落ちる。

町中のアスファルトが、一瞬にしてどす黒く変色した。

下水溝に水が流れ込む音がする。

乾ききっていた町が、悲鳴を上げるように水を吸い込んでいる。

何人もいる。

数十、いや百を超えているかもしれない。

だが、シルエットはすべて同じ。

赤い傘を持った、アカリの影だった。

「蓮!」

沙耶さんが部屋を飛び出していく。

俺も札袋を掴み、後を追った。

宿を飛び出す。

階段を駆け下りる。

ロビーの自動ドアを抜けた瞬間、生臭い水の匂いが鼻をついた。

長年干上がっていた泥が、一気に水を含んで吐き出した匂いだ。

道路はすでに、くるぶしの上まで水に浸かっていた。

空から降った雨ではない。

開かれた無数の赤い傘の『内側』から、滝のように水が溢れ出し、町を沈めようとしていた。

俺は聞き留め(ききどめ)の札を握った。

水音に混じって、無数の影の声が脳に直接響いてくる。

『――雨が降ったら、迎えに来るって言ったの』

『――だから、降るまで待つの』

『――降らないなら、私が雨を作るの』

悲鳴のような声だった。

水かさが急激に増していく。

足首にまとわりつく水は、氷のように冷たかった。

沙耶さんが、腰の祓い鈴を鳴らした。

ちり、と鋭い音が夜気を切り裂く。

同時に、数枚の結符(けっぷ)を宙へ投げた。

札が光の尾を引き、最も近くにあった数本の傘に貼りつく。

水が凍りついたように止まり、傘が地面に落ちた。

だが、数が多すぎる。

一本止めたところで、奥からさらに五本の傘が開く。

俺は近くの傘へ駆け寄り、柄を掴んで無理やり閉じようとした。

閉じない。

鉄の柱のようにびくともしない。

傘の表面から溢れる冷水が俺の手を打ち据え、指先の感覚を奪っていく。

だめだ。

閉じない。

『待っていた場所だけが怪異として残る』

沙耶さんの言葉。

一番最初に、彼女が待ち始めた場所。

膝下まで水位の上がった道路を蹴立て、駅前のロータリーへ走る。

走るたびに、重い水しぶきが上がる。

冷たさで足の感覚が麻痺し始めている。

息が上がる。

冷たい空気を吸い込むたび、肺が痛んだ。

月明かりが、駅前の風景を白く浮かび上がらせていた。

あった。

ロータリーの中央。

タクシー乗り場のすぐ横にある、一番古いベンチ。

そこだけ、水が渦を巻くように集まっていた。

ひときわ色あせた、古い赤い傘が開いている。

その下に、小さな少女の影がいた。

他の影のように立ってはいない。

ベンチにちょこんと座っていた。

彼女の足元を見る。

俺は、息を呑んだ。

町中が水に沈み、濁流が渦巻いているというのに。

ベンチに座る少女の影の足元にだけは、水が届いていなかった。

見えない壁があるように、そこだけが完全に乾いている。

狂ったような水音の中で、その一角だけが真空のように静かだった。

そこには、小さな靴が、行儀よく揃えられていた。

まだ一滴も、濡れていない靴。

誰もいない駅前。

彼女は、一人で靴を揃えて待っていた。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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