第11話 赤い傘を閉じる日
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あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
膝下まで水に浸かりながら、俺は駅前のロータリーで立ち尽くしていた。
無数の赤い傘が乱立し、異常な水かさが町を飲み込もうとしている。
狂ったような水音の中で、ロータリーの中央にある一番古いベンチだけが、見えない壁に守られているかのように完全に乾いていた。
色あせた赤い傘。
その下で、少女の影が座っている。
足元には、まだ一滴も濡れていない小さな靴が、行儀よく揃えられていた。
ざばり、と後ろで激しい水音がした。
振り返る。
沙耶さんが、濁流をかき分けて俺の横に並んだ。
彼女の着ている白いブラウスは、すでに胸のあたりまで水に濡れて肌に張り付いていた。
それでも彼女の顔に焦りはない。
まっすぐに、ベンチの上の赤い傘を見据えていた。
「あれが、始まり」
沙耶さんの声は、激しい水音の中でもはっきりと聞こえた。
「一番最初に彼女が立ち止まり、待ち始めた場所。あの執着の核が、町中の傘に水を降らせている」
沙耶さんは、水に浸かったままゆっくりと一歩前に出た。
腰の鈴には触れない。
札袋も開けない。
ただ、大きく息を吸い込んだ。
「アカリ」
沙耶さんが呼んだ。
名呼び。
怪異に対し、生前の名前を直接ぶつける技術。
強烈な拒絶に遭うリスクがあるが、最も深く相手の核に触れることができる。
ベンチの上の赤い傘が、びくりと震えた。
傘の下に座っていた少女の影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
顔はない。
のっぺりとした闇の塊だ。
だが、見られているとはっきりと分かった。
俺は慌てて左手を札袋に突っ込んだ。
二本指で、聞き留め(ききどめ)の札を挟んで抜き出す。
水しぶきを上げるのも構わず、影に向かってかざした。
札の墨が、体温に反応してにじむ。
空間の裏側から、声が流れ込んできた。
それは、怒りではなかった。
呪いでもなかった。
『――来ないなら、待つ』
『――待っていれば、約束は終わらない』
ただ、ずっと同じ場所に杭を打ち込み続けるような、重く、果てしない声だった。
俺の腕に鳥肌が立つ。
水温の冷たさからではない。
終わりのない時間を、一人で回り続けている彼女の孤独が、冷気となって骨の髄まで浸透してきたからだ。
札を持つ手が震えた。
灰狼の時のように、誰かに隠していた罪を言わせれば終わる話ではない。
アカリの母親が今どこにいるのかなんて、誰にも分からない。
約束が果たされる日は、永遠に来ない。
「どうすればいい……」
俺は震える声でこぼした。
札で無理やり消し去れば、彼女が待っていた時間はただの徒労になる。
だからといって、このまま暴走を放置すれば、町は本当に水に沈んでしまう。
沙耶さんが、俺の肩にそっと手を置いた。
「待つことを、否定しなくていいよ」
冷え切った身体に、沙耶さんの手のひらの温度だけが熱く感じられた。
「来ないと分かっていても、待つしかなかった時間がある。その執着を『間違っていた』と折る必要はない。ただ、彼女がここにいた事実を、誰も拾わなかったことが問題なんだ」
誰も拾わなかった。
俺は、観符で見た傘の表面の文字を思い出した。
『どうせ来ないよ』『かわいそうに』。
町の大人は、彼女の待ち時間をただの『かわいそうな見世物』として消費し、誰も正面から受け取らなかった。
俺は頷いた。
札袋の奥に指を差し込み、一枚の分厚い札を取り出す。
詠札(えいふだ)。
事実や記憶を転写し、言葉として定着させるための特別な札だ。
俺は沙耶さんに背を向け、濁流の中を歩き出した。
向かう先は、駅舎へ続く高い階段だ。
水がどんどん増していく中、高い場所へ避難してきていた数人の町人たちが、怯えた顔でこちらを見下ろしている。
階段の中腹まで登る。
水はすでに一段目を飲み込んでいた。
「俺は、祓い師です」
俺は、濡れた前髪を払いながら、階段の上の大人たちを見上げた。
「あの子に、勝手な救いの言葉を掛けるつもりはありません。母親のふりをして騙すこともしない。ただ、あの子がこの町で待っていたという事実を、なかったことにしないでほしい」
大人たちは顔を見合わせた。
誰かのせいではない。
だが、誰にも無関係ではない。
沈黙を破ったのは、駄菓子屋の老婆だった。
彼女は、階段の手すりにしがみつきながら、ゆっくりと口を開いた。
「……アカリちゃんは、あのベンチでよく、うちで買った飴を舐めてたよ」
老婆のしわがれた声が、夜の空気に響いた。
俺は右手に筆符(ふでふ)を握り、左手の詠札にその言葉を書き留めた。
濡れた札の上で、墨が水を弾き、黒々と文字を定着させていく。
「イチゴ味の飴。いつも、赤い傘を足の間に挟んでね。ずうっと、駅の方を見てた」
老婆の言葉に釣られるように、駅員だったという小柄な老人が続いた。
「……最終列車まで、傘を抱えて座ってた日があった。シャッターを閉めるから帰りなさいって言っても、首を振ってね。結局、私が帰る時間までずっとそこにいた」
筆を走らせる。
紙の抵抗感が、重かった。
「雨なんか降らないって、笑ったことがある」
中年の男が、ぽつりと言った。
「そしたらあの子、すごく真剣な顔で『降るよ』って。絶対降るって、傘をぎゅっと握りしめてさ……」
謝罪ではない。
後悔でもない。
ただ、町の人たちは、アカリがそこにいたことを一つずつ言葉にしていく。
確かに彼女が存在し、あの場所で待ち続けていたという観測の記録。
俺はそれを、すべて詠札に写し取った。
アカリは、ここで待っていた。
赤い傘を持って。
雨のない町で。
約束が終わらないように。
札の余白が真っ黒に埋まる頃には、三十人以上の記憶が集まっていた。
俺は階段を駆け下り、再び濁流の中へ飛び込んだ。
足がもつれそうになるのを必死でこらえ、沙耶さんの横へ戻る。
「集めました」
息を切らしながら、文字で真っ黒になった詠札を掲げる。
沙耶さんは小さく頷き、腰の祓い鈴に触れた。
ちり。
澄んだ音が鳴る。
沙耶さんが鈴渡しを使ったのだ。
鈴の音が、水の壁をすり抜け、ベンチの上の赤い傘の内側へ直接届く回路を開く。
俺は詠札を、両手で傘の前に差し出した。
それだけだった。
詠札から、黒い文字が光の帯となってあふれ出した。
それは町の人々が語った記憶の断片だ。
飴を舐めていた姿。
最終列車まで座っていた姿。
真剣な顔で傘を握っていた姿。
無数の記憶の帯が、鈴の音に乗って、赤い傘の内側へと吸い込まれていく。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
顔はないはずなのに。
その瞬間だけ、目を丸くして驚いている少女の表情が見えた気がした。
影の手が動いた。
傘の柄を握っていた手が、ゆっくりと、止め具に伸びる。
ばさり、ではない。
何かが壊れる音でもない。
すう、と。
深く息を吐くような、静かで柔らかな音がした。
一番古い赤い傘が、閉じた。
その瞬間。
町中に咲き乱れていた無数の赤い傘が、幻のように一斉に薄れ、消滅した。
膝下まであった濁流が、嘘のように一瞬で引いていく。
下水溝の音も止んだ。
狂ったような雨音も消えた。
巨大な月の下、雨無町は再び、元の乾いた姿に戻っていた。
駅前のロータリーには、もうベンチの上の傘も、少女の影もなかった。
ただ、乾ききったアスファルトの上に。
一筋だけ、細い水の跡が残っていた。
俺はゆっくりと歩み寄り、その水の跡を見下ろした。
誰もいない駅前。
揃えられていたはずの靴も、もうない。
深く息を吸い込む。
乾いた、からっぽな匂いだけがした。
閉じた赤い傘から、ようやく雨の匂いが消えたのだ。
俺と沙耶さんは、夜のロータリーに立ち尽くしたまま、その一筋の水の跡が完全に乾いて消えるまで、黙って見守っていた。
膝下まで水に浸かりながら、俺は駅前のロータリーで立ち尽くしていた。
無数の赤い傘が乱立し、異常な水かさが町を飲み込もうとしている。
狂ったような水音の中で、ロータリーの中央にある一番古いベンチだけが、見えない壁に守られているかのように完全に乾いていた。
色あせた赤い傘。
その下で、少女の影が座っている。
足元には、まだ一滴も濡れていない小さな靴が、行儀よく揃えられていた。
ざばり、と後ろで激しい水音がした。
振り返る。
沙耶さんが、濁流をかき分けて俺の横に並んだ。
彼女の着ている白いブラウスは、すでに胸のあたりまで水に濡れて肌に張り付いていた。
それでも彼女の顔に焦りはない。
まっすぐに、ベンチの上の赤い傘を見据えていた。
「あれが、始まり」
沙耶さんの声は、激しい水音の中でもはっきりと聞こえた。
「一番最初に彼女が立ち止まり、待ち始めた場所。あの執着の核が、町中の傘に水を降らせている」
沙耶さんは、水に浸かったままゆっくりと一歩前に出た。
腰の鈴には触れない。
札袋も開けない。
ただ、大きく息を吸い込んだ。
「アカリ」
沙耶さんが呼んだ。
名呼び。
怪異に対し、生前の名前を直接ぶつける技術。
強烈な拒絶に遭うリスクがあるが、最も深く相手の核に触れることができる。
ベンチの上の赤い傘が、びくりと震えた。
傘の下に座っていた少女の影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
顔はない。
のっぺりとした闇の塊だ。
だが、見られているとはっきりと分かった。
俺は慌てて左手を札袋に突っ込んだ。
二本指で、聞き留め(ききどめ)の札を挟んで抜き出す。
水しぶきを上げるのも構わず、影に向かってかざした。
札の墨が、体温に反応してにじむ。
空間の裏側から、声が流れ込んできた。
それは、怒りではなかった。
呪いでもなかった。
『――来ないなら、待つ』
『――待っていれば、約束は終わらない』
ただ、ずっと同じ場所に杭を打ち込み続けるような、重く、果てしない声だった。
俺の腕に鳥肌が立つ。
水温の冷たさからではない。
終わりのない時間を、一人で回り続けている彼女の孤独が、冷気となって骨の髄まで浸透してきたからだ。
札を持つ手が震えた。
灰狼の時のように、誰かに隠していた罪を言わせれば終わる話ではない。
アカリの母親が今どこにいるのかなんて、誰にも分からない。
約束が果たされる日は、永遠に来ない。
「どうすればいい……」
俺は震える声でこぼした。
札で無理やり消し去れば、彼女が待っていた時間はただの徒労になる。
だからといって、このまま暴走を放置すれば、町は本当に水に沈んでしまう。
沙耶さんが、俺の肩にそっと手を置いた。
「待つことを、否定しなくていいよ」
冷え切った身体に、沙耶さんの手のひらの温度だけが熱く感じられた。
「来ないと分かっていても、待つしかなかった時間がある。その執着を『間違っていた』と折る必要はない。ただ、彼女がここにいた事実を、誰も拾わなかったことが問題なんだ」
誰も拾わなかった。
俺は、観符で見た傘の表面の文字を思い出した。
『どうせ来ないよ』『かわいそうに』。
町の大人は、彼女の待ち時間をただの『かわいそうな見世物』として消費し、誰も正面から受け取らなかった。
俺は頷いた。
札袋の奥に指を差し込み、一枚の分厚い札を取り出す。
詠札(えいふだ)。
事実や記憶を転写し、言葉として定着させるための特別な札だ。
俺は沙耶さんに背を向け、濁流の中を歩き出した。
向かう先は、駅舎へ続く高い階段だ。
水がどんどん増していく中、高い場所へ避難してきていた数人の町人たちが、怯えた顔でこちらを見下ろしている。
階段の中腹まで登る。
水はすでに一段目を飲み込んでいた。
「俺は、祓い師です」
俺は、濡れた前髪を払いながら、階段の上の大人たちを見上げた。
「あの子に、勝手な救いの言葉を掛けるつもりはありません。母親のふりをして騙すこともしない。ただ、あの子がこの町で待っていたという事実を、なかったことにしないでほしい」
大人たちは顔を見合わせた。
誰かのせいではない。
だが、誰にも無関係ではない。
沈黙を破ったのは、駄菓子屋の老婆だった。
彼女は、階段の手すりにしがみつきながら、ゆっくりと口を開いた。
「……アカリちゃんは、あのベンチでよく、うちで買った飴を舐めてたよ」
老婆のしわがれた声が、夜の空気に響いた。
俺は右手に筆符(ふでふ)を握り、左手の詠札にその言葉を書き留めた。
濡れた札の上で、墨が水を弾き、黒々と文字を定着させていく。
「イチゴ味の飴。いつも、赤い傘を足の間に挟んでね。ずうっと、駅の方を見てた」
老婆の言葉に釣られるように、駅員だったという小柄な老人が続いた。
「……最終列車まで、傘を抱えて座ってた日があった。シャッターを閉めるから帰りなさいって言っても、首を振ってね。結局、私が帰る時間までずっとそこにいた」
筆を走らせる。
紙の抵抗感が、重かった。
「雨なんか降らないって、笑ったことがある」
中年の男が、ぽつりと言った。
「そしたらあの子、すごく真剣な顔で『降るよ』って。絶対降るって、傘をぎゅっと握りしめてさ……」
謝罪ではない。
後悔でもない。
ただ、町の人たちは、アカリがそこにいたことを一つずつ言葉にしていく。
確かに彼女が存在し、あの場所で待ち続けていたという観測の記録。
俺はそれを、すべて詠札に写し取った。
アカリは、ここで待っていた。
赤い傘を持って。
雨のない町で。
約束が終わらないように。
札の余白が真っ黒に埋まる頃には、三十人以上の記憶が集まっていた。
俺は階段を駆け下り、再び濁流の中へ飛び込んだ。
足がもつれそうになるのを必死でこらえ、沙耶さんの横へ戻る。
「集めました」
息を切らしながら、文字で真っ黒になった詠札を掲げる。
沙耶さんは小さく頷き、腰の祓い鈴に触れた。
ちり。
澄んだ音が鳴る。
沙耶さんが鈴渡しを使ったのだ。
鈴の音が、水の壁をすり抜け、ベンチの上の赤い傘の内側へ直接届く回路を開く。
俺は詠札を、両手で傘の前に差し出した。
それだけだった。
詠札から、黒い文字が光の帯となってあふれ出した。
それは町の人々が語った記憶の断片だ。
飴を舐めていた姿。
最終列車まで座っていた姿。
真剣な顔で傘を握っていた姿。
無数の記憶の帯が、鈴の音に乗って、赤い傘の内側へと吸い込まれていく。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
顔はないはずなのに。
その瞬間だけ、目を丸くして驚いている少女の表情が見えた気がした。
影の手が動いた。
傘の柄を握っていた手が、ゆっくりと、止め具に伸びる。
ばさり、ではない。
何かが壊れる音でもない。
すう、と。
深く息を吐くような、静かで柔らかな音がした。
一番古い赤い傘が、閉じた。
その瞬間。
町中に咲き乱れていた無数の赤い傘が、幻のように一斉に薄れ、消滅した。
膝下まであった濁流が、嘘のように一瞬で引いていく。
下水溝の音も止んだ。
狂ったような雨音も消えた。
巨大な月の下、雨無町は再び、元の乾いた姿に戻っていた。
駅前のロータリーには、もうベンチの上の傘も、少女の影もなかった。
ただ、乾ききったアスファルトの上に。
一筋だけ、細い水の跡が残っていた。
俺はゆっくりと歩み寄り、その水の跡を見下ろした。
誰もいない駅前。
揃えられていたはずの靴も、もうない。
深く息を吸い込む。
乾いた、からっぽな匂いだけがした。
閉じた赤い傘から、ようやく雨の匂いが消えたのだ。
俺と沙耶さんは、夜のロータリーに立ち尽くしたまま、その一筋の水の跡が完全に乾いて消えるまで、黙って見守っていた。
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