第15話 坂の上の灯り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
山あいに切り開かれた、古い住宅地だった。
かつては高度経済成長期に建てられた団地や、庭付きの戸建てが隙間なく並び、家族連れの笑い声が響く場所だったのだろう。
だが今、斜面に沿って蛇行するひび割れたアスファルトの道には、人の気配がまったくなかった。
ところどころに真新しい車が停まっている家もあるが、それ以上に空き家が多い。
コンクリートのブロック塀には枯れた蔦がびっしりと這い上がり、アスファルトのひび割れからは、セイタカアワダチソウが背丈ほどまで伸びて枯れ尾花を揺らしている。
錆びた鉄格子の門扉は半開きになり、山から吹き下ろす風が通るたびに、キーッ、と耳障りで乾いた音を立てた。
割れて半分欠け落ちたプラスチックの表札。
手入れされず、隣の家の敷地や道路まではみ出した庭木。
傾いた郵便受けには、雨に濡れて層のように固まった古い水道修理のマグネットや、変色したピザの宅配チラシが隙間なく詰まっていた。
「見事に、誰もいませんね」
俺は、坂道の途中で立ち止まって言った。
時刻は午後六時を回ったところだ。
日が落ち始め、住宅地の輪郭が青黒い影に沈みかけている。
本来なら、どこの家からも夕飯のカレーや焼き魚の匂いが漂い、テレビの音や風呂場からのお湯の音が漏れてきてもいい時間だ。
だが、ここは違う。
空気は不自然なほど澄んでいて、むせ返るような埃の匂いと、山特有の冷たい土の匂いだけが立ち込めていた。
「ここ数年で、一気に人が減ったらしいから」
沙耶さんは、前を歩きながら淡々と答えた。
彼女の視線の先、蛇行する坂の一番上に、問題の家があった。
今回の依頼主は、地元の不動産会社だった。
依頼内容は『空き家の解体前調査における、不審な現象の解決』。
要するに、解体工事に入る前に、近隣から奇妙な苦情が入ったのだという。
『誰も住んでいないはずの二階の窓に、毎晩必ず灯りが点く』
報告書を読んだ時、俺は少しだけ首を傾げた。
電気の消し忘れか、あるいは漏電などの物理的なトラブルではないのかと思ったからだ。
「電気系統の異常とかではないんですか?」
「管理会社が、すでに三回確認に行ってる」
沙耶さんは、問題の家の前に立ち止まり、錆びついた門扉を見上げた。
「住人がいなくなってから、電気の契約は完全に切られてる。屋外のメーターも外されてるし、念のためにブレーカーも落としてある。それでも、夜になると点くんだって」
俺は家の外壁を見た。
くすんだベージュ色のモルタル壁は、あちこちでひび割れ、雨だれの黒い染みが幾筋も走っている。
電柱から家へと繋がっているはずの引き込み線は、途中で物理的にバッサリと切断され、黒いビニールテープが巻かれていた。
確かに、電気が通るはずのない家だ。
「浮浪者が入り込んで、ランタンか何かを使ってる可能性は?」
「警察もそう思って中を調べた。でも、誰もいなかったし、人が入り込んだ形跡もなかった」
沙耶さんは、静かに息を吐いた。
「電気なら、まだいいね」
その言葉の響きに、俺は口を閉ざした。
電気や、生きた人間の仕業なら、警察か電力会社の仕事だ。
俺たち祓い師のところへ案件が回ってきたということは、すでに『そういうこと』なのだ。
俺と沙耶さんは、坂の下の空き地に車を停め、日が完全に落ちるのを待った。
街灯は極端に少ない。
五十メートルに一つあるかないかの細い防犯灯が、チカチカと白い光を落としているだけだ。
周囲の空き家は完全に闇に沈み、まるで巨大な墓石のように並んでいる。
午後八時。
風の音が完全に止み、住宅地全体が息を潜めたような静寂に包まれた。
車のエンジンは切ってある。
窓を少しだけ開けた車内には、晩秋の冷気が入り込んできていた。
「来た」
助手席の沙耶さんが、短く言った。
俺はフロントガラス越しに、坂の上の家を見上げた。
点いていた。
黒く塗りつぶされたような家の輪郭の中で、二階の一室。
そこだけが、四角く切り取られたように、淡い黄色い光を放っていた。
冷たい蛍光灯の光ではない。
古い裸電球のような、不自然に温かい、オレンジ色に近い光だ。
電気が通っていないはずの空き家から、確かな熱を持った光が漏れている。
そして、光だけではなかった。
閉じられた薄いカーテンの向こう側。
そこに、黒い人影が立っていた。
大人の背格好だ。
微動だにせず、ただじっと、光の中に立ち尽くしている。
まるで、外の通りを見下ろしているかのように。
「……あれが、怪異」
俺は呟きながら、左手を札袋へ入れた。
二本指で観符(かんぷ)を引き抜く。
夜の冷気で冷え切った指先に、札の表面に書かれた墨の感触が伝わる。
俺の体温が墨に伝わり、じわりと輪郭を崩し始める。
物理的な視界の上に、怪異の持つ感情の輪郭が重なっていく。
視界が少しだけずれた。
坂の上の家が、より鮮明に、生々しい気配を伴って眼球に飛び込んでくる。
二階の窓。
黄色い光。
そして、カーテンの向こうに立つ黒い影。
俺は、息を呑んだ。
観符を通して見たその光景は、肉眼で見たものとは決定的に違っていた。
「沙耶さん……違います。あれ、中からこっちを見てるんじゃない」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。
黒い人影は、部屋の中にいるのではなかった。
二階の窓。
地上から数メートルの高さの中空。
影は、窓ガラスの『外側』に貼りついていたのだ。
両手をガラスに押し当てて。
中から漏れる温かい灯りに向かって、必死に顔を近づけている。
二階の窓に立つ人影は、家の中からこちらを見ているのではなかった。
窓の外から、中へ入れずに立っていた。