第16話 帰るための灯り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
翌日の昼下がり、俺と沙耶さんは坂の下の住宅地を歩いていた。
空き家ばかりの区画を少し下ると、まだ何軒かの家に人の気配があった。
門扉の前が綺麗に掃き清められ、自転車が停まっている家。
庭先で、プラスチックのジョウロを持った初老の女性が、プランターのパンジーの手入れをしていた。
俺たちは不動産会社から委託された環境調査だと名乗り、少しだけ話を聞くことにした。
女性は持っていた小さなスコップを土に突き刺し、坂の上の家を振り返った。
「ああ、坂上さんのところね」
女性は、どこか気の毒そうな、少しだけ声を潜めるような口調になった。
「あそこ、今はもう誰も住んでないのよ。理佳子さんも、二年くらい前に遠くの施設に入っちゃってね。ほら、ここ数年で一気に足腰も悪くなっちゃったし。身寄りもないから、民生委員の人が手続きしてくれたみたいだけど」
俺は頷き、探りを入れるように尋ねた。
「あの家、夜になると二階に灯りが点くという話があるんですが」
「そうねえ」
女性は、特に怪異を恐れるような素振りは見せなかった。
プランターの湿った土の匂いが、風に乗って微かに漂ってくる。
女性は悲しい昔話をするように目を細め、土のついた軍手をパンパンと払い合わせた。
「理佳子さんが引っ越してからも、時々点いてるみたいね。ブレーカーは落としてあるはずなんだけど、あんな古い家だから、どこか見えないところで電線がショートでもしてるのかしらね」
女性の解釈は、あくまで物理的な故障だった。
それが、理佳子という人物の生前の行動と強く結びついているからこそ、近所の人間もそれを「霊的な異常」とは結びつけて考えないのだろう。
「理佳子さん、本当に健気な人だったのよ」
女性が、ポツリと言った。
「ご主人が、仕事の帰りに山道で事故に遭ってね。車ごと崖から落ちたらしいんだけど、警察がいくら山狩りして探しても、ご遺体が見つからなくて。もう十年以上前の話よ。でも理佳子さんは、ずっと待ってたんだよ」
女性の視線が、再び坂の上の家に向いた。
昼間の太陽の下で見上げるその家は、昨夜の不気味さはなく、ただ古びて色を失った死骸のように見えた。
「『あの人、暗いと怖がるから』『帰ってきた時に家が暗かったら嫌だから』って言ってね。ご主人がいなくなってから、理佳子さんが施設に入るまでの十年間。一日も欠かさず、毎晩二階の部屋の灯りをつけてたのよ。本当に、かわいそうだったわ」
俺の脳裏に、雨無町で会ったアカリの姿がよぎった。
来ない母を待ち続けた少女。
赤い傘の下から動けなかった悲しみ。
待つということは、それ自体が途方もない痛みを伴う。十年間、点くはずのない灯りを点け続けた理佳子の優しさと執着。
俺たちが頭を下げてその場を離れた後。
並んでアスファルトの坂道を登りながら、沙耶さんがぽつりと言った。
「灯りは、優しいとは限らない」
アスファルトを蹴るスニーカーの音が、やけに乾いて響いた。
俺は沙耶さんの横顔を見た。
いつも通り、感情を読ませないフラットな表情だった。
だが、その声のトーンは、ただ事実を述べているだけの響きではなかった。
「……どういうことですか」
俺が尋ねると、沙耶さんは坂の上の家を見上げたまま、一度だけ瞬きをした。
風が吹き抜け、路肩に溜まった枯れ葉がカラカラと音を立てて転がっていく。
「帰る場所って、時々、人を閉じ込めるから」
それ以上、沙耶さんは何も言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたのだ。
駅鈴の時、沙耶さんは「帰らなかった怪異は嫌い」と言った。
そして今、帰る場所が人を閉じ込めると言う。
日が落ちた。
昨日と同じように、青黒い闇が住宅地を包み込む。
気温が一気に下がり、吐く息が白く濁り始めた。
俺と沙耶さんは、坂の中腹に立ち、あの家の二階を見上げた。
点いた。
昨日と全く同じ時間。
二階の一室の窓が、四角く切り取られたように、不自然に温かいオレンジ色の光を放つ。
電気系統が死んでいる家で点く、理佳子の十年の執着が生み出した光だ。
俺は、観符を引き抜いた。
視界が少しだけずれる。
物理的な風景の上に、怪異の輪郭が浮かび上がる。
窓の『外側』に、やはりあの黒い影がいた。
大人の男の背格好。
両手をガラスに押し当て、中から漏れる灯りに向かって、必死に顔を近づけている。
帰れなかった夫の影だ。
妻が自分のために点けてくれた灯りの元へ、帰ろうとしている。
俺はじっと、その影の動きを観察した。
影は、窓ガラスをすり抜けようとしているように見えた。
霊的な存在であれば、物理的なガラスなど障壁にはならないはずだ。
それなのに、影は窓の外側に張り付いたまま、一歩も中へ入れずにいる。
影が、強くガラスに身体を押し付けた。
中へ入ろうと、もがくように腕を動かす。
その瞬間だった。
二階の部屋の中から漏れるオレンジ色の光が、フッと、まるで溶鉱炉のように一段階強く輝いた。
同時に。
バンッ、と。
窓ガラスが物理的に震えるほどの衝撃音とともに、影の身体が、見えない壁に弾き飛ばされるように後方へ仰け反った。
「……え」
俺は思わず声を漏らした。
影が体勢を立て直し、再び窓ガラスに近づこうとする。
だが、光が熱を持つように強くなると、影はまるで猛烈な熱波に当てられたように、外側へ押し戻されてしまうのだ。
「中へ、入れない……?」
俺の呟きに、沙耶さんが静かに頷いた。
「あの灯りは、迎えるための光じゃない。あれは『待つ』という行為そのものを固定するための装置」
灯りは、道しるべではない。
夫の影を、この窓辺に縫い止めるための呪いだ。
影は、また窓に近づこうとした。
だが、温かくて優しいはずの光が、容赦なく夫の影を弾き返した。
帰る場所を用意されているのに、中へ入れない。
誰かの優しさが、彼をこの夜の闇の中に永遠に閉じ込めていた。