幕間 終電後の自販機
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
深夜二時。
駅鈴の案件を終えて泊まった駅前の安いビジネスホテルは、壁が薄く、廊下を歩く足音すら響くような造りだった。
俺は狭いシングルベッドの上に横たわっていたが、どうしても眠りにつくことができなかった。
目を閉じると、あの無人駅のホームの光景がまぶたの裏に浮かんでしまう。
帰る場所があったのに、帰らなかった男の醜く、しかしどこまでも救いのない後悔。
そして、俺が改札に札を置いた時の、あの重苦しい空気の感触。
それが、粘りつくように肌に残っていた。
喉が渇いていた。
俺はベッドから起き上がり、部屋の鍵だけを持って廊下に出た。
蛍光灯が等間隔に並ぶ殺風景な廊下の突き当たりに、製氷機と自動販売機が置かれた小さなスペースがある。
スリッパの音を忍ばせて角を曲がると、自販機の白い明かりの前に、見慣れた後ろ姿があった。
「沙耶さん」
沙耶さんは、薄いグレーのスウェット姿で、缶のホットコーヒーを握っていた。
振り返った彼女は、俺を見ても特に驚いた様子はなかった。
「眠れない?」
静かな声だった。
自販機のモーターが、ブーンと低い音を立てている。
「……はい」
「そう」
俺は自販機に硬貨を入れながら、正直に口にした。
「男の人の声が、まだ耳に残ってて。なんであの人は帰らなかったんだろうとか、そういう考えが頭の中でずっと回ってるんです」
ガチャン、と冷たいお茶のペットボトルが取り出し口に転がり落ちた。
俺はそれを拾い上げ、沙耶さんの横顔を見た。
「こういうのって、早く忘れた方がいいんでしょうか」
「消そうとしなくていい」
沙耶さんは、缶コーヒーのプルタブを開けながら言った。
「無理に忘れる必要はない。というか、忘れられないようにできてるから、私たちがやってる」
「残ったままで、いいんですか」
「残らないなら、たぶん見てない」
彼女はコーヒーを一口飲み、それから自販機の横にある小さな窓の外を見た。
そこからは、深夜の真っ暗な街並みが見えるだけだ。
残らないなら、見てない。
俺は握りしめた冷たいペットボトルの結露を指で拭った。
自販機のモーター音だけが、静かな廊下に響き続けていた。