第18話 灯りの中の影
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
二階の部屋で、誰もいない古い木製の椅子に掛けられた男物の上着を見つめていた時だった。
カチッ。
真下の階から、硬いプラスチックが弾けるような音が聞こえた。
壁の照明スイッチを押し込む、あの乾いた音だ。
俺と沙耶さんが顔を見合わせた直後、階段の下がふわりと明るくなった。
俺が持っている懐中電灯の、青白いLEDの光ではない。
黄色みを帯びた、熱を持った白熱球の光が、真っ暗だった一階の廊下から階段の段鼻を一段ずつ照らし出している。
「……玄関」
沙耶さんが短く呟いた。
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、再び一階から音が鳴った。
カチッ。カチッ。
カチッ。
一定のリズムを刻むように、古いスイッチが次々と弾ける。
一階の奥、台所のあたりから、ジジジという蛍光灯特有のノイズが鳴り始めた。
続いて、風呂場の脱衣所。
そして、居間へと続く廊下。
立て続けに鳴るスイッチの音とともに、家中のあちこちから、それぞれの部屋が持つ光が一斉に漏れ始めた。
完全に物理的に死んでいたはずの家全体が、内側から暴力的なまでの熱を帯びて発光し始めている。
窓の隙間から吹き込んでいた冷たい夜風が、急激に温度を上げ、埃とカビの匂いを乗せた生ぬるい熱気に変わった。
俺たちは、軋む階段を慎重に駆け下りた。
さっきまでは俺の懐中電灯がなければ一歩も歩けなかった真っ暗な一階が、今は不自然なほどの明るさで満たされている。
壁紙の剥がれた跡、床板の傷、天井の隅に張られた蜘蛛の巣。
すべての生活の残骸が、煌々とした光の下で白日の下に晒されていた。
俺は息を呑んだ。
電気が通っていないとか、そんな物理法則はとうの昔に吹き飛んでいる。
家全体が、『帰ってくる人を迎える準備』を始めているのだ。
玄関の灯りが点く。
洗面所の灯りが点く。
台所の換気扇が、電源も入っていないのに低く唸るような音を立て始める。
それは一見すれば、帰宅する家族を温かく迎え入れるための、ごくありふれた日常の優しい風景だ。
だが、その光の裏側にあるのは、「帰ってこないこと」を絶対に許さない、理佳子のすさまじい執着だった。
家全体が、巨大な捕虫網のように稼働している。
帰るはずのない夫を「帰ってくるという役割」の中に永遠に閉じ込めようとしているのだ。
俺は左手を札袋に突っ込み、二枚の札を同時に引き抜いた。
観符(かんぷ)と、聞き留め(ききどめ)の札。
二本の指で挟んだ札が、俺の体温を吸ってじわりと重くなる。
視界が少しずれ、家の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
外を見た。
玄関の重い金属製ドア。
その横にはめ込まれた、縦長のすりガラスの向こう側。
そこに、あの黒い影が立っていた。
二階の窓辺で、暴力的な光の壁に弾き返された夫の影が、今度は玄関から中へ入ろうとしているのだ。
すりガラス越しに見える影は、大人の男の肩幅を持っていた。
その影が、ガラスにべったりと両手を押し付け、内側へ向かって体重をかけている。
だが、家の中から放たれる強烈な光が、見えない分厚い壁となって彼を外へ押し留めていた。
光が強くなるたびに、影の輪郭が揺らぎ、後ろへ押し戻される。
それでも影は、諦めたように何度もガラスに手を押し当てていた。
俺は、左手の聞き留めの札を強く握りしめた。
指先から墨が滲み、札が熱を持つ。
耳の奥に、ラジオのチューニングを合わせるような不快なノイズが走った。
直後、すりガラスの向こうの影の声が、直接鼓膜を揺らした。
『――帰りたくないわけじゃない』
それは、言い訳ではなかった。
家族を置いて逃げた男の懺悔でも、死んだ痛みを訴える悲鳴でもなかった。
何年も、何十年も、同じ場所で同じことを繰り返し続けた末の、疲れ果てた事実の吐露だった。
『――でも、もう帰れないんだ』
『――灯りがある限り、僕は帰る途中で止まっている』
夫の影は、この温かい家に入りたいのではなかった。
自分がもう死んでいて、この家に帰ることは絶対にできないと、彼自身が一番よく分かっていたのだ。
それなのに、理佳子の点けた灯りが、彼をこの場所へ引き戻し続ける。
「ここへ帰ってこい」という暴力的な優しさが、彼の時間を固定する。
その結果、彼は生者の世界へ帰ることもできず、死者の世界へ行くこともできず、永遠に「帰宅の途中」という時間の中に釘付けにされていた。
理佳子を責めても、終わらない。
彼女はただ、彼を待っていただけだ。
夫の影を強引に家の中へ引きずり込んでも、終わらない。
彼はもう、この世の住人ではないのだから。
かといって、俺たちが乱暴に家中の電球を叩き割って消すのも違う。
それでは、十年間この家で待ち続けた理佳子の痛みを、無意味なものとしてへし折ることになる。
隣に立つ沙耶さんが、動いた。
腰に下げた祓い鈴へ、静かに右手を伸ばす。
鈴渡しで、暴走する怪異の輪郭を強制的に固定しようとしたのだ。
だが。
鈴の組み紐に指をかけたまま、沙耶さんの手がピタリと止まった。
いつもなら流れるように鳴るはずの、あの澄んだちりん、という音が、まったく響かない。
彼女は、右手を鈴に添えた不自然な姿勢のまま、玄関のすりガラス越しに見える影と、家中に溢れる温かい光をじっと見つめていた。
「……こういう灯りは、嫌い」
ひどく低く、微かに震える声だった。
俺は沙耶さんの横顔を見た。
彼女の目は、目の前の怪異を見ていなかった。
もっとずっと遠くの、俺には決して見えない過去のどこかを見ているように思えた。
俺は、何も聞かなかった。
駅鈴の時の「帰らなかった怪異は嫌い」という言葉。
そして今の「こういう灯りは嫌い」という言葉。
沙耶さんの内側にあるものは、今の俺が軽々しく触れていいものではない。
俺は沙耶さんの前に出た。
これまでは、沙耶さんが鈴で場を作り、俺が詠札で決着をつけるのが絶対の手順だった。
だが今回は違う。
沙耶さんの鈴が鳴らないのなら。
俺が自分で、この光の役割を変えなければならない。
玄関のすりガラスの向こう。
夫の影が、ゆっくりと顔の向きを動かした。
これまでずっと、家の中の灯りだけを求めてガラスにすがりついていた影。
それが初めて、家の中ではなく。
背後にある、暗い坂の下の道を見ていた。