第19話 灯りを落とす
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 蓮が使うのは、怪異の奥にある感情を観る札。 沙耶が鳴らすのは、届かなかった声を届ける鈴。 二人の祓いは、怪異を殺すためのものではない。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すためのものだ。 怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 これは、見習い祓い師・蓮と、過去に向き合い続ける祓い師・沙耶が、各地の怪異と未処理の感情をめぐる連作怪異譚。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
沙耶さんの鈴が鳴らないのなら、俺が自分でやるしかない。
俺は左手の指の間に挟んでいた聞き留め(ききどめ)の札をポケットにしまい、代わりに新しい詠札(えいふだ)の束を数枚引き抜いた。
右手に持った筆符(ふでふ)の先が、俺の体温と緊張を吸ってじわりと黒く濡れる。
ここは、駅鈴の時とは違う。
夫の影に一つの真実を突きつけるだけでは足りない。
理佳子が十年かけて家中に張り巡らせた「帰ってきてほしい」という強烈な執着の網目、その一つ一つを解いていく必要がある。
俺はすりガラスの向こうに立つ影に背を向け、煌々と光る一階の廊下を歩き出した。
家全体が発している暴力的なまでの熱気が、肌をジリジリと焦がすようにまとわりついてくる。
埃の匂いと、焼け焦げたような乾いた匂いが混ざり合い、息をするだけで喉がひりついた。
最初に向かったのは、換気扇が電源も入っていないのに低く唸りを上げている台所だった。
シンクは完全に乾ききり、古いガスコンロには赤茶色の錆が浮いている。
だが、頭上の蛍光灯だけがチカチカと不快な明滅を繰り返し、そこに誰かがいるような錯覚を強いていた。
俺は流し台の冷たいステンレスの上に詠札を置き、濡れた筆符で一文だけを記した。
『ここで灯りが点いた。』
文字を書き終え、筆符を離した瞬間。
チカッ、と一度大きく瞬いた後、台所の蛍光灯がフッと音を立てて消えた。
換気扇の低い唸りも止まり、台所に本来の死んだような静寂が戻る。
俺は次に、洗面所へ向かった。
ひび割れた鏡の上で、熱を持った白熱球が光っている。
プラスチックの洗面台の縁に札を押し当て、筆を走らせた。
『ここで待っていた。』
パチン、と弾けるような音とともに、白熱球の光が落ちた。
俺は無言のまま、異常な熱気を帯びた家の中を歩き回った。
居間の、日焼けしたフローリングの上。
廊下の、壁紙が剥がれかけた隅。
階段の、木材が擦り減った上がり口。
次々と札を置き、事実だけを記していく。
『ここから外を見た。』
『ここで夜を引き止めた。』
俺が札を置くたびに、一つ、また一つと、家の中から光が落ち、理佳子の執着が消えていく。
それは、彼女が「夫のために」と信じて捧げ続けた十年間の優しさを、ひとつずつ順番に殺していくような、ひどく冷酷な作業に思えた。
背後で、沙耶さんが無言のまま俺の作業を見届けている気配がした。
彼女は何も言わず、ただ静かに俺の足跡をなぞるように歩いていた。
一階の灯りをすべて落とし終えた時、家の中は元の暗闇と冷たさを取り戻していた。
残るは、二階の一室だけだ。
階段を登る。
一段踏み込むごとに、ミシッ、と古い木材が悲鳴のような音を立てた。
ドアが開け放たれた部屋の中央。
古い木製の椅子に掛けられた上着の真上で、猛烈な熱を発する裸電球が黄色く発光している。
俺は部屋の中に足を踏み入れ、息を呑んだ。
夫の影が、そこにあった。
先ほどまで一階の玄関ですりガラスの外側に張り付き、家の中へ入ろうともがいていたあの黒い影が。
今は二階の部屋の、それも窓ガラスの内側に立っていたのだ。
彼が「帰ってきた」わけではないことは、一目で分かった。
影は、部屋の奥や椅子の上着を見ることはなく、窓のすぐ手前に立ち、ガラス越しに外を見下ろしていた。
顔の造形はないが、そのつま先の向きは明確に『外』を向いている。
初めて、帰ってきたのではない。
初めて、彼自身が、この家から出ていける位置に立ったのだ。
俺は椅子の背もたれに掛けられた上着の横に立ち、最後の一枚となる詠札を置いた。
筆符を押し当て、ゆっくりと墨を滑らせる。
『ここに上着が残された。』
書き終えると同時に、俺の背後で、澄んだ音が鳴った。
ちりん。
沙耶さんの鈴だ。
今回は、迷子の魂を呼ぶ音でもない。
駅鈴の時のように、去っていく背中を見送る音でもない。
それはただ純粋に、この部屋に充満した異常な熱と光の輪郭を切り取り、物理的な形へ落とし込むための、冷たい合図だった。
俺は右手を伸ばした。
焼け焦げるような熱を放つ裸電球。
その傘の端から垂れ下がっている、古い木綿の紐を指先で掴む。
消すのは怖い。
これを引けば、理佳子が十年間、自分の人生をすり減らしてまで守り続けた「待っていた時間」を、俺の手で完全に終わらせてしまうことになる。
それは誰かを救う行為ではなく、誰かの痛みを強制的に断ち切るだけの、残酷な決断だ。
それでも、俺は紐を引いた。
かちん。
硬いスイッチの音が、静まり返った部屋に響いた。
途端に、視界が墨をぶちまけたように真っ黒に塗りつぶされた。
暴力的なまでの温かい光が消え去り、夜の冷気が一気に肌にまとわりついてくる。
俺は懐中電灯のスイッチを入れた。
青白い光の輪が部屋の壁を滑り、窓のガラスを照らし出す。
窓辺を見た。
影は、もうどこにもいなかった。
窓ガラスの向こうには、ただ真っ暗な住宅地の坂道が下へと続いているだけだった。
翌朝。
空き家だらけの住宅地に、白々とした陽の光が差し込んでいた。
俺と沙耶さんは、坂の下からあの家を見上げた。
二階の窓には、薄汚れ、色褪せたカーテンが引かれているだけだ。
昨日の夜まで、あそこの窓だけが不自然な光を放ち、周囲の夜を引き止めていた。
けれど今は、ただの古い窓だった。
そこには、理佳子の優しさも、夫の影も、もう何もない。
坂の上の家の窓は、暗いままだった。