幕間 湿った観符
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
昼下がりの六畳間は、乾いた空気に満たされていた。
沙耶さんは部屋の真ん中に座り、足元に置いた帆布のカバンから、予備の観符(かんぷ)を束ねた革のポーチを取り出した。
中から、まだ一枚も文字を書き込んでいない真っ白な和紙の束を引き抜く。
沙耶さんの指先で、和紙の束がズシッと重く垂れ下がった。
ポーチの奥底にしまわれていたにもかかわらず、数十枚ある観符はすべて、異常なほどの水分を吸い込んでいた。
真っ直ぐに裁断されていたはずの和紙の縁は、波打つようにブヨブヨとふやけ、触れれば指の腹に冷たい湿り気が張り付いてくる。
溜池の水際のぬかるみと、水底から這い上がってきた重い冷気が、使われなかった紙の繊維の奥深くにまでべったりと染み付いていた。
沙耶さんは、畳の上に広げたバスタオルの上に、ふやけた観符を一枚だけそっと置いた。
そして、傍らに引き寄せていた古いアイロンの電源を入れ、温度のダイヤルを『低温』に合わせる。
数分後。
カチン、とアイロンの内部で小さな音が鳴り、ランプが消えた。
沙耶さんは金属の重い取っ手を握り、アイロンの平らな底面を、波打った和紙の上へ真っ直ぐに押し当てた。
ジューッ。
微かな摩擦音とともに、和紙の繊維に閉じ込められていた黒い池の水分が、白い蒸気となってアイロンの縁から細く立ち上った。
淀んだ水草のような匂いが、熱に焼かれて一瞬だけ部屋の空気に混じり、すぐに消えていく。
数秒押し当てた後、沙耶さんがアイロンを垂直に持ち上げた。
タオルの上には、波打ちが完全に消え、本来の硬さと張りを取り戻した真っ白な和紙が残っていた。
触れても、もう指に張り付くような冷たさはない。
あの溜池の底知れない質量は、ただの蒸気となって完全にこの部屋から追い出されていた。
沙耶さんは、乾いた一枚を傍らに避け、再びポーチからふやけた観符を取り出した。
タオルの上に置き、アイロンを当てる。
ジューッ。
俺は少し離れた場所から、閉じたままの記録帳を膝に置いて尋ねた。
「これ、全部使えるようになりますか」
沙耶さんはアイロンを持ち上げたまま、タオルの上の和紙を見た。
「形は戻る」
それだけ言って、次の一枚を置いた。
窓の外から、乾いた風が吹き込んでくる。
和紙の束がすべて元の軽さを取り戻すまで、沙耶さんはアイロンを押し当て続けた。
作品統計
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