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第29話 手水鉢の櫛

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/17 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,047文字 ✅ 全年齢

あらすじ

怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。  祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。  怪異を前にすれば足は震える。  札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。  それでも、目を逸らすことだけはできなかった。  先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。  灰をまとった狼。  雨の降らない町に増え続ける赤い傘。  誰もいない駅で鳴る鈴。  消えない灯り。  閉じた家に残る声。  だが、怪異はただの化け物ではない。  怒り。  悲しみ。  後悔。  待ち続けた想い。  言えなかった言葉。  見て見ぬふりをされた痛み。  人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。  形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。  それが、二人の祓いだ。  祓うべきは、怪物か。  それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

錆びた標識の立つ停留所でバスを降りると、山の重い湿気がすぐに上着の布地を通して肌に張り付いてきた。

町内会の腕章をつけた初老の男が先に立って歩き、俺と沙耶さん、そして八重子がその後を無言で続く。

靴の底で砂利道を何度か踏み鳴らした先に、鬱蒼とした木々に半分埋もれるような低い石鳥居が見えた。

巨大な溜池のほとりに建つ、水神社(みずじんじゃ)の境内だ。

鳥居をくぐったすぐ横に置かれた古い石の手水鉢(ちょうずばち)には、落ち葉の浮いた淀んだ水が縁まで張られている。

その水の底に、木製の古い櫛が一つ、静かに沈んでいた。

沙耶さんが足を止めた。

俺より一歩手前で、石の縁には触れずに、水面を見下ろしている。

俺は沙耶さんの横に並んで、同じように水底を見た。

水は淀んでいた。しかし、その底の暗さは、ただの深さではないような気がした。

町内会の男が、俺の隣で低い声で言った。

「もう何度目か分からんのです。捨てても、燃やしても、翌朝にはあそこに戻っとる」

八重子が、手水鉢の水面へ右手を差し入れた。

指先が冷たい水を割り、底に沈んでいる櫛の背に触れる。

長く水底に放置されていたかのように、完全に水分を吸いきった木目は、指の腹に重く、ぬるりとした冷たさを伝えてきた。

八重子が水の中から櫛を引き上げると、表面張力で纏わりついていた水が、ボタッ、ボタッ、と重い音を立てて足元の砂利へ落ちた。

櫛の柄を握り直す八重子の人差し指の腹には、拭っても落ちないような、氷のように冷たく重い水滴が一つ、べったりとへばりついたまま残っていた。

八重子はそのまま足早に、境内の清掃をしていた町内会の男のもとへ向かい、彼が広げていた青い指定ゴミ袋の中へ、握っていた濡れた櫛を乱暴に投げ捨てた。

袋の中には、男が熊手で集めたカラカラに乾ききった落ち葉や小枝が幾重にも重なっている。

その乾いた葉の山の上に、ずっしりと重い水を含んだ木櫛が着地した。

バサリ、という枯れ葉の乾いた摩擦音が鳴る。

直後、櫛から滴り落ちた水滴が、真下にある枯れ葉の繊維に急速に吸い込まれていった。

茶色く乾いた葉の表面に、黒く丸い染みがじわじわと広がっていく。

周囲の落ち葉が数日分の乾燥した空気を含んでカサカサと音を立てている中で、その櫛の周囲だけが、異様なほどの湿度と重力を持って、乾いた葉を濡らし、黒く侵食し続けていた。

沙耶さんが、手水鉢の方を見た。

俺も視線を向ける。

水底には、もう何もない。水面に浮かぶ一枚の落ち葉が、微風に揺れているだけだ。

八重子がゴミ袋から目を逸らした。

彼女が、濡れたままの自分の人差し指を服の裾で無造作に拭った、その直後だった。

チャプ。

背後の手水鉢から、数滴の水が溢れたような、ごく小さな音が鳴った。

俺は即座にゴミ袋を振り返る。

町内会の男が持つ青いビニールの向こう側、先ほどまで櫛が沈み込んでいたはずの枯れ葉の山は、水一滴垂らされていないように完全に乾ききり、何の重みも乗っていない元の形に戻っていた。

沙耶さんが、無言のまま手水鉢の底を指差した。

淀んだ水の中。

数秒前まで確実にゴミ袋の奥で枯れ葉を濡らしていたはずの木櫛が、全く同じ角度で、石の鉢の底に沈んでいた。

いや、完全に同じではない。

先ほど引き上げられた時よりもさらに大量の水を深く吸い込んだように、表面の木目が黒々と浮き上がり、絶対的な質量を持って水底に張り付いている。

それを見た八重子の右手が、服の裾を掴んだまま、カタカタと小さく震え始めた。

俺は上着のポケットから観符(かんぷ)を一枚取り出し、手水鉢の石の縁にペタリと貼り付けた。

乾いていたはずの和紙の端が、貼り付けた瞬間に石から水分を吸い上げたように、急速に黒く湿り始める。

そのままゆっくりと、水面には一切の波紋も立てずに、水底の櫛の細かい歯に絡みついていた長い黒髪が一本だけ、生き物のようにゆらりと動いた。

俺は一歩下がった。

観符の和紙の端が、石の縁から剥がれかけている。

水が、外へ出ようとしている。

沙耶さんが、腰の袋から銀色の祓い鈴を取り出した。

柄を強く握り込むが、決して鳴らさない。

金属の冷たさだけが、彼女の手の中に固定されている。

俺は左手で記録帳を開いた。

右手で鉛筆を握り、真っ白な紙の上に『手水鉢の櫛』と書き込む。

黒鉛が紙の繊維を削る確かな摩擦があった。

だが、鉛筆の芯を離した直後、紙の表面に異変が起きた。

俺が書き込んだ黒い文字の、まさにその線の形に沿ってのみ、紙の繊維が急激に水分を吸ったようにブヨブヨと波打ち始めたのだ。

文字の周囲の余白は完全に乾いて平らなままだ。

しかし、鉛筆で書かれた文字の線だけが、まるでインクの代わりに泥水を直接垂らされたかのように紙の裏側へと深く沈み込み、局所的にひどくふやけて変形している。

その夜。

境内が暗くなった頃、池の底から音がした。

しゃっ、しゃっ。

しゃっ、しゃっ。

音だけが繰り返されていた。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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