第30話 雨の裏口
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。 祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。 怪異を前にすれば足は震える。 札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。 それでも、目を逸らすことだけはできなかった。 先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴る鈴。 消えない灯り。 閉じた家に残る声。 だが、怪異はただの化け物ではない。 怒り。 悲しみ。 後悔。 待ち続けた想い。 言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。 形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。 それが、二人の祓いだ。 祓うべきは、怪物か。 それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。
本文
八重子に案内されたのは、立派な瓦屋根のある表玄関ではなく、家の裏手にある勝手口だった。
足元の悪い細い路地を抜け、コンクリートのブロック塀とトタン壁に挟まれた薄暗い場所へ出る。
そこに、木枠にすりガラスがはまった古い引き戸があった。
戸の枠の真ん中あたりには、真鍮製の古い掛け金が取り付けられている。
長い間使われていないのか、表面は分厚い赤茶色の錆で完全に覆い尽くされ、金属特有の冷たさや光沢は完全に失われていた。
俺は視線を下げ、足元の木製の敷居を見た。
すり減った古い木目の上に、何か鋭利なもので何度も乱暴に引っ掻いたような、深く細い傷が無数に刻み込まれている。
その傷の奥には、外の湿気を吸った黒い土が、泥のようにこびりついて固まっていた。
俺はしゃがみ込み、指先を傷の縁に近づけた。
触れようとして、止まる。
傷は深い。一度や二度ではない。何度も、ここで何かが繰り返されたことだけは分かった。
沙耶さんが、腰の袋から銀色の祓い鈴を静かに取り出した。
だが、金属の柄は握らない。
鈴から垂れ下がる赤い組み紐の緒だけを、右手の指にきつく巻きつけるようにして強く握り込んだ。
八重子が、薄暗いすりガラスの引き戸から目を逸らさずに、ポツリと言った。
「来たんです。あの晩」
俺は左手で記録帳を持ったまま、上着の内ポケットから聞き留めを取り出した。
小さな白い紙片を手のひらに広げる。
八重子の掠れた声が、わずかに空気の振動を伴って、紙の繊維の奥へとじわりと染み込んでいくような確かな重い感触があった。
八重子の視線が、すりガラスの向こう側へと真っ直ぐに向けられる。
「裏に、立ってました」
雨の晩やった、と八重子は続けた。
足音は聞こえなかった。すりガラスの向こうに、人影が見えた。内側から、輪郭だけが分かった。
俺は手のひらの上で聞き留めを強く握りしめたまま、何も言わなかった。
沙耶さんの右手の中で、赤い鈴の緒がギリッと微かな音を立てて引き絞られた。
きつく巻きつけられた赤い紐が、沙耶さんの白い指の肉に深く食い込んでいる。
それでも、沙耶さんの手の中にある銀色の鈴は、チリとも鳴らなかった。
八重子の視線が、すりガラスの向こう側から、戸の枠に取り付けられた錆びた掛け金へとゆっくりと移動した。
彼女の右手が、服の裾から震えながら引き出される。
指先が、赤茶色の錆の塊へ向かって数センチだけ伸ばされた。
しかし、指は金属には触れない。
触れる手前で、見えない壁に阻まれたように硬直している。
「掛け金に、手はかけたんです」
吐き出された声とともに、八重子の言葉が途切れた。
八重子の指が、掛け金の錆の前で止まったまま、小さく震えている。
俺は聞き留めを握った手を、腰の位置で固定したまま動かさなかった。
路地の奥から、遠い水の音がした。池か、水路か、分からない。
ただ、水の音だけが続いていた。
細い路地に、冷たい風が吹き込んでくる。
すりガラスの汚れた表面が、風を受けて微かに白く揺れた。
沙耶さんの右手の指には、強く引き絞られた鈴の緒が、痛々しいほどにくっきりと赤い線を刻み込んでいる。
俺は、鉛筆と聞き留めを握ったまま、続く言葉を待たなかった。
八重子は掛け金から手を引き戻した。
八重子は一度、路地の奥の方を振り返った。
誰もいない。風が、コンクリート塀の隙間を抜けていくだけだ。
八重子は両手をエプロンの裾で一度だけ強く拭った。
濡れた指が、綿の布地に一瞬べったりと張り付く。
それでも拭き取れなかった水が、指の間の細いシワに残っている。
それから、懐に手を入れた。
取り出した白い布は、何度も折り畳まれていた。
端に細かいシワが刻まれ、指で挟むとわずかに厚みがある。
八重子がその折り目をゆっくりとほどいていく。
ほどくたびに、布の表面に白い筋のように折り線が残っていく。
開き切った布は、手のひらより少しだけ大きかった。
その布の上へ、持っていた手水鉢の木櫛を静かに置いた。
水をたっぷりと吸い込んだ櫛が布に触れた瞬間、真っ白な繊維に黒い染みが急速に広がっていく。
八重子は、布の右の端を震える指でつまみ、櫛を隠すように中央へと折り畳んだ。
濡れた布が、櫛の表面にペタリと張り付く。
次に、左の端をつまみ、同じように櫛の上へ被せようとした。
だが、櫛から染み出した大量の冷たい水が、布の繊維を完全に濡らしきっていた。
被せたはずの布の左端が、八重子の人差し指の皮膚に、べったりと吸い付くように張り付いている。
八重子は、布から指を離そうとして、手を上へ持ち上げた。
しかし、水の表面張力と重さを持った布の端は、八重子の指から離れない。
指を持ち上げると、せっかく折り畳んだ布の左端が、指の皮膚に引っ張られるようにして再び大きくめくれ上がってしまう。
布の下から、大量の水分を吸って黒く変色した木櫛が、再び剥き出しになって現れた。
沙耶さんは、指に赤い線を刻み込んだまま、微動だにせず、鈴を鳴らさない。
俺は、手のひらの聞き留めに、まだ一文字も書き込まなかった。
沙耶さんが、半歩だけ前へ出かけた。
しかし足は止まった。
八重子の指は、まだ布を離せていなかった。
八重子が、布ごと手を下ろした。
指から布が垂れ下がり、その先に、剥き出しになった黒い木櫛がぶら下がっている。
八重子は一度だけ、大きく息を吸った。
それから、もう一度だけ、左の布端を右手でつまみ直した。
八重子は櫛を布の上に置いた。
右の端を折る。
左の端をかぶせる。
それだけでいいはずだった。
けれど、濡れた布は、
指に貼りついたまま離れなかった。
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