第31話 投げる手の表紙画像

第31話 投げる手

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/22 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 1,833文字 ✅ 全年齢

あらすじ

怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。  祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。  怪異を前にすれば足は震える。  札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。  それでも、目を逸らすことだけはできなかった。  先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。  灰をまとった狼。  雨の降らない町に増え続ける赤い傘。  誰もいない駅で鳴る鈴。  消えない灯り。  閉じた家に残る声。  だが、怪異はただの化け物ではない。  怒り。  悲しみ。  後悔。  待ち続けた想い。  言えなかった言葉。  見て見ぬふりをされた痛み。  人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。  形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。  それが、二人の祓いだ。  祓うべきは、怪物か。  それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

深い夜の闇の中、俺たち三人は巨大な溜池のほとりへと向かって歩いていた。

先を歩く八重子は、木櫛を包んだ白い布を、両手で大切に胸の前に抱えている。

歩くたびに、水分を限界まで吸い込んだ布の重みが、彼女の腕の筋肉を微かに震わせていた。

指先で布の端をつまむのではなく、布の底全体を両手のひらでしっかりと下から支え込むようにして持っている。

まるで、少しでも傾ければ中身の重さが耐えきれずにこぼれ落ちてしまうかのような、極度に強張った姿勢だった。

八重子は一言も発さず、乾いた土のあぜ道を靴の裏で擦るような重い足音だけを響かせながら、暗闇の中を進んでいった。

やがて、溜池の水際まで十メートルほどの場所で、八重子の足音が不自然に途切れた。

彼女の足元の地面は、水神社の手水鉢の周りにあった乾いた土とは違い、溜池から染み出した水分をたっぷり含んだ黒い泥でひどくぬかるんでいる。

八重子は、そのぬかるみが始まる境界線――まだ乾いた土が残る安全な場所で立ち止まったまま、視線を真っ暗な池の中心へと向けた。

八重子が、胸の前に抱えていた布の包みを、右手だけで力強く握り直した。

濡れた布の表面から、指の圧迫によって冷たい水がじわりと滲み出し、彼女の手の甲を濡らして落ちる。

八重子はそのまま、遠く離れた水面へ向かって、櫛を包みごと力強く投げ捨てようと右腕を大きく背後へ振りかぶった。

ブン、と重い空気を裂く音がした。

振りかぶった遠心力によって、布の繊維に染み込んでいた冷たい水滴が勢いよく宙に弾き飛ばされる。

その重く冷たい数滴が、八重子自身の青ざめた頬を容赦なく打った。

だが、八重子の右腕は、空の最も高い位置――投擲の頂点に達した瞬間に、見えない分厚いコンクリートの壁にでもぶつかったかのように、ピタリと不自然に止まった。

右手の指先にかかる、水を吸い込んだ木櫛の異常な重さ。

その物理的な質量が、手首の関節から腕の骨を伝って肩の筋肉へと逆流し、八重子の上半身全体を石のように硬直させている。

俺は、立ちすくむ八重子の背中へ向けて、右足を半歩だけ前へ踏み出した。

乾いた土から靴の裏が離れる、ザリッという小さな音が鳴る。

同時に、記録帳を強く握っていた左手が、無意識に八重子の行動を止めようと前へ動いた。

左手の親指の先が空気を切り裂き、八重子の上着に届く距離まで迫る。

指先の皮膚が、彼女の身体から発散される異常なほどの冷気を感じ取った。

出さない。

俺は、対象に触れる直前で、前に伸ばしかけた左手を強引に引き戻した。

肘の関節を固くロックし、記録帳ごと自分の腹の前に押し付けるようにして、手の動きを完全に固定して止める。

記録帳の硬い表紙が、上着越しに腹部の肉に食い込む圧迫感があった。

沙耶さんは、俺の真横で静かに立っているだけで、腰の袋から祓い鈴を取り出そうともしなかった。

ただ、暗闇の中で彼女の静かな呼吸音だけが、等間隔に聞こえている。

数十秒の、物理的な質量を伴うような重い静寂の後。

八重子は、空中で限界まで硬直していた右腕を、ゆっくりと重力に逆らわずに下ろした。

指先はまだ布を強く握りしめているが、遠くへ投げるための筋肉の張力は完全に失われ、ただ重い塊をぶら下げているだけの状態に戻っていた。

その時、布の端を縛っていた結び目が、水と木の異常な重みに耐えきれずにほどけた。

白い布がひらりと開き、中にあった黒い木櫛が、足元の泥の上へと音もなく落ちる。

八重子が慌てて手を伸ばし、落ちた櫛を泥の中から拾い上げた。

しかし、櫛の濡れた表面には、真っ黒な泥が一粒もついていなかった。

八重子は拾い上げた櫛を、しばらくそのまま手の中で見つめていた。

泥の上に落ちたはずの木の表面は、濡れているだけで、汚れていなかった。

八重子は、目の前に広がる真っ黒な泥のぬかるみへ視線を落とした。

そして、まだ乾いた土の上に残っていた両足を動かし、自ら、泥の海の中へ一歩を踏み出した。

ズチュッ。

靴の底が黒い泥に深く沈み込み、足首までを重く飲み込む、生々しい摩擦音が鳴った。

泥の冷たさが、靴の布地を通して八重子の足の皮膚へと直接伝わっていく。

八重子はそのまま、右手に提げていた布の底を再び左手も添えて両手で抱えるように支え直した。

泥の強固な粘着力に足を取られ、引き抜くたびにズボッ、ズボッという不快な音を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に水際へ向かって歩き始めた。

ジャンル・タグ

, , , , , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 0 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る