第34話 描かれなかった子の表紙画像

第34話 描かれなかった子

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/29 📚 シリーズ: 祓い師沙耶は、怪異を祓わない ――鳴らない鈴と見習いの記録―― 📝 2,240文字 ✅ 全年齢

あらすじ

怖いまま、見る。 震えながら、聞く。 消すのではなく、ほどく。  祓い師見習いの蓮は、怖がりだ。  怪異を前にすれば足は震える。  札を握る指は汗ばみ、喉は乾く。  それでも、目を逸らすことだけはできなかった。  先輩祓い師の沙耶とともに、蓮は各地に残る怪異を訪ねていく。  灰をまとった狼。  雨の降らない町に増え続ける赤い傘。  誰もいない駅で鳴る鈴。  消えない灯り。  閉じた家に残る声。  だが、怪異はただの化け物ではない。  怒り。  悲しみ。  後悔。  待ち続けた想い。  言えなかった言葉。  見て見ぬふりをされた痛み。  人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、夜の中を歩き出す。  形になってしまった痛みを、もう一度、人が受け取れるものへ戻すこと。  それが、二人の祓いだ。  祓うべきは、怪物か。  それとも、誰かが見なかったことにした痛みか。

本文

巨大な逆さ屏風が横たわる薄暗い座敷の中で、管理者の男がゆっくりと動いた。

男は着ている作業着の胸ポケットへ右手を差し込み、ゴソゴソと分厚い布の擦れる音を立てた。

指先で何かを探り当てた男は、古びて茶色く変色した小さな紙の封筒を取り出した。

封筒の口には細いタコ糸が巻き付けられており、男は少し震える指先で、その糸をぐるぐると解いていく。

乾いた糸が紙をこする微かな音が、カビの匂いが充満する部屋に響いた。

男は封筒のフラップを開き、中から一枚の古い白黒写真を引き摺り出した。

印画紙と封筒の内側が擦れ、カサッという重い音が鳴る。

男は、無言のままその写真を真っ直ぐ俺の方へと差し出した。

俺は一歩だけ前へ出ると、写真の端を親指と人差し指の腹でしっかりと挟み込んで受け取った。

指先に、古く乾燥した印画紙特有の、ツルツルとした不自然に硬い感触が伝わってくる。

長年の埃と、古い現像液の薬品の匂いがかすかに鼻を突いた。

俺は写真を両手で持ち直し、窓から差し込む薄い光の方へわずかに傾けた。

表面に光沢が走り、家族の顔が白く飛ぶ。

もう一度角度を変える。

影が戻り、写真の右端に目が止まった。

写真には、目の前にある逆さまの屏風の絵と、寸分違わぬ全く同じ構図で、この家の家族が並んで写っていた。

厳しい顔をした父親、控えめに立つ母親、学生服の長男、着物の長女、そして椅子に座った祖母。

背景には立派な松の枝があり、奥の床の間には掛け軸が下がっている。

俺は、視線を写真の中央から右端へと滑らせていく。

写真の右端は、経年劣化でボロボロになった他の三辺とは異なり、不自然なほど真っ直ぐに、刃物で切り落とされたような鋭い断面になっていた。

俺は、その不自然な切断面の縁を、親指の腹でゆっくりとなぞる。

ザラッとした紙の断面と、ハサミの刃が押し潰したことでわずかに裏側へ丸まっている紙の歪みが、指先の皮膚を微かに刺激した。

俺は、その切り落とされた鋭い断面の、ほんの数ミリ内側に視線を落とす。

祖母の着物の袖のあたり。

そこに、小さく白い、見知らぬ子どもの『手』だけが写り込んでいた。

顔も、体も、足も、すべてが残酷なほど真っ直ぐな直線によって切り落とされ、ただ祖母の袖を小さな指でぎゅっと握りしめている『白い手』だけが、そこにあった。

「その子は、うちにおりました」

管理者の男が、静かに、だが確かな声で言った。

俺は写真から顔を上げなかった。ただ、印画紙の端をつまむ指先にじわじわと力を込め、硬い紙がわずかにたわむほどの圧力をかける。

「でも、家の子ではなかったんです」

男の二度目の言葉が落ちたが、俺の横に立つ沙耶さんは何も反応しなかった。

衣擦れの音一つ立てない。

視界の端で見える彼女の横顔は、写真を見る俺を見るでもなく、男を見るでもなく、ただ真っ直ぐに、屏風のあの『余白』だけを見据えていた。

「描くとなると、説明が要りましたから」

それが、管理者の男が発した最後の言葉だった。

俺は持っていた写真を、音を立てないようにゆっくりと畳の上へ置いた。

俺は写真を畳の上に置いたまま、管理者の顔を見なかった。

男の靴の先が、畳の目の上で小さく揺れているのが視界の下に見えた。

それ以上、男は何も言わなかった。

俺はしばらく、畳の上に置いた写真と屏風の余白を交互に見た。

写真の切り口と、余白の輪郭が、同じ大きさに見えた。

白い手が握っていた祖母の袖の位置と、余白の場所が重なる。

俺は上着のポケットへ手を伸ばし、太い筆符を取り出した。

冷たく乾いた竹の軸を、右手の平でしっかりと握りしめる。

筆の穂先には、たっぷりと墨が含まれていた。

先ほど、観符を近づけただけで乾いた和紙から墨がにじみ出すほどの異常な引力を示したあの空白へ、今度は俺から物理的に墨を乗せるための筆符の先端をゆっくりと近づけていく。

下絵の線すら描かれていない、ただそこにあるだけの四角い余白。

筆の穂先が、逆さまの屏風の表面まで残り五センチに迫った。

その瞬間、筆を持った右手に、ねっとりとした空気の抵抗が絡みついた。

残り三センチ。

まるで、分厚いゴムの壁か、硬直した見えないゼリーの塊に突き当たったかのような、強烈な弾力が筆の軸から手首へと逆流してくる。

俺は右足の一歩を畳に深く踏み込み、右腕全体に体重をかけ、無理やり筆先を和紙へ押し付けようとする。

だが、見えない反発力はさらに増していく。

ギリギリ、と竹の軸が手のひらの中で嫌な音を立てて軋み始めた。

肩の筋肉が張り詰め、腕の骨がミシミシと鳴る。

俺の体重と力に押された筆の穂先は、何もない空中で、まるで透明なガラスの壁に押し付けられたように、ぐにゃりと九十度に不自然に折れ曲がっている。

いくら押し込んでも、墨を含んだ毛先は、絶対に古い和紙の表面には触れなかった。

指の関節が白くなり、痛むほど全体重をかけて押し付けても、一滴の墨すら和紙へは飛ばない。

筆の穂先から滲み出た墨の雫が、和紙に届く前に空中でピタリと静止し、重力に従って畳の上へポタポタと黒い染みを作って落ちていく。

俺は筆符をこれ以上押し込むことを諦め、ゆっくりと右腕の力を抜いて後ろへ引いた。

空中で無惨に折れ曲がっていた筆の穂先が、元の真っ直ぐな形に戻る。

屏風の余白は、ほんのわずかな墨の染みすら受け付けることなく、冷たいほど純白のまま、逆さまの座敷の中に圧倒的な沈黙と共に居座っていた。

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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