第35話 余白
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
震えながら、見る。 それでも、動かす。 祓い師見習いの蓮は、怪異を前にすれば足が震える。 それでも彼は、最後まで目を逸らさない。 一度も祓いに失敗したことのない先輩・沙耶。 彼女は冷静に怪異の核を見抜き、蓮を導く。 二人は各地に残る怪異を訪ねていく。 灰をまとった狼。 雨の降らない町に増え続ける赤い傘。 誰もいない駅で鳴り続ける鈴。 消えない灯り。 だが、怪異はただの化け物ではない。 それは、誰も受け取らなかった感情だ。 怒り。悲しみ。後悔。 待ち続けた想い。言えなかった言葉。 見て見ぬふりをされた痛み。 人が受け取れなかった感情は、やがて形を持ち、止まったまま夜の中を彷徨う。 蓮と沙耶の祓いは、それを消すことではない。 止まった時間を、もう一度動かすこと。 震えながらでも、目を逸らさずに。
本文
俺は太い筆符を上着のポケットへ押し込み、代わりに胸元から手のひらサイズの記録帳を取り出した。
固い厚紙の表紙をめくり、金属のリングが擦れる小さな音を立てて新しい白紙のページを開く。
短い鉛筆を右手の親指と人差し指で強く握り直し、先ほど管理者の男から聞いた名前を書き込もうと、尖った黒鉛の芯を紙の表面へ垂直に押し当てた。
カリッ、と芯が紙の繊維を削る音が鳴る。
俺は手首を動かし、『綾乃』という二つの文字を書き連ねた。
そこまでは、何の問題もなく黒い文字が白紙の上に定着した。
だが、その名前の横に、彼女がこの旧家で持っていたはずの「属性」を書き足そうとした瞬間、俺の右手の動きがピタリと強制的に停止した。
『家族』と書こうとして、鉛筆を持った手を右へ動かそうとする。
しかし、手首の関節が石膏で固められたように硬直して動かない。
俺は奥歯を噛み締め、右腕全体の筋肉を無理やり動かそうと力を込めた。
指先が白く変色するほど鉛筆を強く握りしめるが、芯は紙の同じ場所にとどまったまま、わずかに震えるだけで一ミリも右へ進まない。
『客人』か。違う。
『居候』か。違う。
ギリリ、と無理な力を加えられた鉛筆の芯が、記録帳の紙の表面に深く食い込む。
黒鉛の粉が白い紙の上で弾け、パキッという乾いた音と共に芯の先端がへし折れた。
折れた鋭い芯の破片が紙の繊維に突き刺さり、さらにその上から俺の筆圧が容赦なくかかり続ける。
指の関節から血の気が引き、爪の先が真っ白になる。
手首の筋肉が痙攣し、紙をえぐり続ける摩擦音だけが響く。
俺は折れた芯の残りを親指の腹で押さえ、もう一度書こうとした。
短くなった芯の先端を紙に当てる。
ギリッ、と不快な音が記録帳から鳴った。
手首が、また止まった。
指先の力が抜け、芯の残りが畳の上へ転がり落ちる。
紙から芯が離れると同時に、手首の強烈な硬直も嘘のように消え去った。
記録帳には、『綾乃』という名前と、その横に鉛筆の芯が深くえぐった無意味な窪みだけが残されていた。
俺は記録帳を開いたまま左手に持ち替え、逆さまの屏風へ向き直った。
俺は上着のポケットへ手を入れ、観符の束に指が触れた。
一枚引き出しかけて、止まった。
ポケットから手を出し、空のまま、右手を前へ向けた。
観符も筆符も持たない、素手の右手を、何一つ描かれていないあの端の余白のパネルへと近づけていく。
俺の右手が屏風の和紙まで残り十センチ、五センチと迫っても、俺の横に立つ沙耶さんは微動だにしない。
彼女の息遣いと、畳を踏みしめている足袋の気配はすぐ横にあるのに、俺の動作を物理的に阻害する力が一切飛んでこない。
俺の肘が沙耶さんの腕に触れる距離まで近づいた時、彼女の右手が腰の袋の上で静止しているのが分かった。
袋の中の祓い鈴の輪郭が、布越しに見えた。
指は袋の口に触れていたが、開かなかった。
彼女の指の関節がわずかに動き、布がこすれる微かな音が鳴る。
だが、それ以上は動かず、鈴の柄を握る気配すらなかった。
俺は、誰にも止められないまま、右手の五本の指先を、冷たく乾いた屏風の和紙の表面へドンと押し付けた。
数十年分の埃と、乾ききった和紙のざらついた繊維の感触が、指の腹に直接伝わってくる。
指先を上下に動かそうとするが、和紙の表面に張り付いたような強い摩擦抵抗があり、スムーズには滑らない。
冷たい。ひどく冷たい。冬の窓ガラスに触れた時のような底冷えする冷気が、指先から腕の骨を伝わって肩へと上ってくる。
俺は和紙に指を押し当てたまま、和紙の下にある硬い木枠の感触を確かめるように、少しだけ指先に体重をかけた。
その直後だった。
俺が触れている余白のすぐ隣、家族たちが逆さまに描かれている和紙の表面から、パキッという乾いた音が鳴った。
見ると、着物姿の父親が描かれている部分の「黒い墨」が、和紙の表面から物理的に浮き上がり始めていた。
乾燥した泥が壁から剥がれ落ちるように、紙に定着していたはずの墨の層がパリパリと音を立ててひび割れ、和紙から完全に剥離していく。
父親の威厳ある目元を形作っていた墨の層が内側から浮き上がり、ピキッという音を立てて細かくひび割れる。それは細かい黒い粉末となって、逆さまの木枠を伝って畳へ落ちた。
母親の太い帯の結び目が和紙から完全に遊離し、カサッと乾いた音を立てて一気に崩落し、黒い破片の塊として床板に散らばる。
長男の学生服の肩の輪郭が、バリッと大きな音を立てて裂け、重力に従って剥がれ落ちて下地の白い紙がむき出しになった。
長女の長い振袖の柄は、パラパラと細かい砂のように表面からこぼれ落ち、何も描かれていないただの余白へと変わる。
祖母が座っていた立派な木の椅子は、座った姿勢のまま墨の輪郭を失い、ザザーッと一斉に流れ落ちて形のない真っ黒な染みとなって畳を汚した。
提灯に描かれた古い家紋だけが和紙にしがみつくように最後まで残っていたが、それも数秒後にはパリッと音を立ててひび割れ、虚空へ崩れた。
「正しい家族の姿」を形成していたすべての墨が、次々と紙から剥がれ落ち、畳の上に黒い粉と破片の山を作っていく。
パラパラ、ザザーッという無数の紙の剥がれる音が、静かだった座敷の中に異様な騒音として鳴り響き続けた。
やがて、表の絵がすべて剥がれ落ちた瞬間、巨大な屏風全体が自律的に動き始めた。
最初の十度は、畳が悲鳴を上げるほどゆっくりだった。三十度を超えた辺りで木枠の速度が上がり、蝶番から古い油が細く滲み出た。屏風の影が座敷の壁を横切り、俺の顔に当たる光の量が変わった。
ズズズッ、と重い木枠が畳の表面を力強く擦り、藁の繊維を無惨に引きちぎる。
俺は咄嗟に指を和紙から離し、後方へ一歩飛び退いた。
屏風は、六枚のパネルを連結させた重い蝶番をギギギと不気味に鳴らしながら、俺たちへ向かってちょうど九十度、半分だけ回転したところで、ピタリと動きを止めた。
木枠が畳を削り取ったささくれが、屏風の足元に散乱している。
半分だけ裏返った屏風の裏側が見えた。表には何もなかった。裏には、白い広がりだけがあった。その端に、一人分の余白が、ただそこにあった。